「何だか、落ち込んでるね……」
和泉さんの声音が響き来る。
「うん……。帰る途中に、ちょっと困ったことがあってさ……」と、どもり気味にて言葉を返す。
暗がりの中で彼女は小さく頷き、僕の心には安堵が浮かび上がる。
僕らの間にはゆったりとした沈黙が漂っていて、それは言葉を強いるようなものではなかった。
しっとりとした沈黙の中、どうして『困ったこと』と口走ったのだろうと考えを巡らせる。
穏やかに桜が舞い散る情景、ホットドッグの鮮烈な味わい、そして紀野さんの不可解とも言える振る舞い。
それらは僕の心を久々に波立てるものだった。
けれども、それを受け入れることなんて僕にとっては耐え難いことであったのだ。
普通の人のように、桜の下で浮かれ騒ぐことなんて僕には許されないことなのだ。
「もう、辛いよ……」
知らず知らずのうちに零れ出た言葉は、微かながらも湿りを帯びていたように思う。
和泉さんがそっと身体を寄せるのが分かった。
そして。
てのひらは柔らかな感触に包まれる。
僕は何時の間にか、両の拳を固く握り締めていた。
拳を包む彼女のてのひらはヒンヤリとしていて、波立ちつつあった僕の心を緩やかに鎮めてくれるようだった。
「ねぇ……」
控えめな声が響き来る。
黙ったままで頷いた僕は、言葉を紡ぐのに疲れ果てていたことに気が付かされる。
色々と考えを巡らせることや何かしらの言葉を紡ぐこと。
それらが只管に億劫だった。
もう、どうしようもないほどに面倒だった。
とにかく、静かな安らぎが欲しかった。
「海を、見て……」
囁きに促されるようにして海原を見遣る。
ゆっくりと揺蕩う夜の海からは、沈黙がひたひたと押し寄せつつあるようだった。
それは僕の心を浸しつつあるようで、その沈黙とひとつになりたいとの衝動を芽生えさせつつあった。
「それで、いいんだよ」
小声にて
胸に芽生えた気持ちを後押ししてくれるような彼女の言葉は、じんわりと嬉しかった。
「静かで、そして
静かな夜。
昏い夜。
その中へと心を溶かし込めば、僕を延々と苛み続けている後悔や申し訳無さも何処かに消え失せてしまうのかもしれない。
彼女が告げる通り、それでいいんだろうなとぼんやり思った。
気が付くと、和泉さんは僕の目の前に佇んでいた。
真正面から彼女の顔を見たのは、実は始めてのことだった。
黒々とした瞳は深い洞穴のようであって、それは僕の心をズルリと引き摺り込むもののように感じられた。
フラリとベンチから立ち上がる。
まるで誘われるようにして。
和泉さんの後ろに見える黒々とした海原。
それが急に昏さを増し、僕へと迫りつつあるように感じられた。
迫り来るかのような海原を見詰めているうちに、僕の感情を波立てていた様々な記憶は次第に薄れつつあった。
ようやく安らぎを得られると思った。
僕を見据える和泉さん。
その口角がゆらりと歪んだ。
それは微笑みなのだろうけど、これまで彼女が纏っていた穏やかな雰囲気とは随分と異なるものだった。
むしろ、
動揺が心へと拡がる。
「もう、無駄よ」
響く声音は随分と冷ややかであって、
「どうして……」
そう呟く僕の脳裏には、様々な悔いが去来しつつあった。
ふと、桜の情景が脳裏を過ぎる。
その下で無理矢理に食べさせられたホットドッグの味わいが蘇る。
それは鮮烈なものだった。
また、食べてみたかったなとの思いが脳裏を過ぎる。
ふと、右耳の後ろが疼いたように思えた。
鼻先を薄桃の花弁が舞い過ぎる。
目の前に佇む和泉さんが、その表情を醜く歪めるのが分かった。
「望月くーん! お友達に気を付けなって言ったじゃん!」
唐突に響き来たその声音は矢鱈と脳天気であって、夜の海には全くそぐわないものだった。それは、紀野さんのものだった。
紀野さんは、僕と和泉さんの間に割って入るようにして佇んでいた。
彼女の装いは夕方と何ら変わらぬ『ギャル然』としたものだった。
音も無く押し寄せつつあった海原が、急に騒めきだしたようにも感じられ。