『ヨモツシコメの眷属』とやらはすっかり立ち上がったようであり、それはまさしく黒い巨人の姿を為していた。
背の高さは二階建ての校舎ほどもあるのだろう。
その顔付きは判然としなかったけれども、目にあたる部分には一対の深々とした漆黒があり、それらは僕をジッと見据えているようだった。
身体の左右に垂れる両の腕は電信柱のように太く、そして随分と長かった。
あんな巨人を前にして、紀野さんは一体どうする積もりなのだろう。
チラリと彼女を見遣るものの、夕方に公園で出くわした時と何ら変わらぬ様だった。
左の肩に紺色のスクールバッグを掛けているくらいで、武器の類なんて何も携えてはいなかった。
「望月くん、早くこちらにいらっしゃい」
そう呼び掛ける和泉さんの眼差しは静かな色を湛えていて、声音はいつものように穏やかだった。
まるで、べったりと凪いだ夜の海のような。
「私たちと一緒に行きましょう。
もう、何も苦しむことなんて無くなるのよ」
彼女と過ごした幾つもの夜が脳裏を過ぎる。
懐かしさが心を締め付ける。
けれども。
「ごめん。そっちには……、行かない。
行けないんだ!」
悔しさなのだろうか、悲しさなのだろうか、或いは申し訳無さなのだろうか。
説明し難い感情の奔流が僕の胸中にて渦巻きつつあった。
和泉さんの眼差しがスッと冷ややかさを増す。
「今更、断っても無駄なのに……。
あなたが発した哀しみや苦しみの言葉。
それは私を取り巻く夜に力を漲らせた。
その力はね、永劫に続く昏くて深い夜へ、あなたを導くものなの」
その声に応えるように、「ブウォォォ……」と音が響き渡る。
彼女の後ろに控える黒い巨人の唸り声なのだろう。
和泉さんがスッと左へと動き、巨人は音も無く歩み始める。
僕を見据える漆黒の双眸が、その昏さを増したように思えた。
「あーぁ、もう仕方無いなぁ……。
それじゃ、こっちだって助っ人を呼ばなきゃだね!」
助っ人って何なのと問い掛けようとする僕。
けれども、問いの言葉を発する暇も無いままに地響きが辺りを揺るがし始める。
僕は狼狽え、落着きも無く左右を見遣る。
こんな時に地震なのかよと思いながら。
地響きの元は直ぐに分かった。
桜の古樹を支える節くれ立った根がグングンと伸びつつあったのだ。
まるで何匹もの黒い大蛇が地表をズルリと這い進むようにして。
地響きは激しさを一段と増す。
今度は果たして何事かと思って桜の根元を見遣る。
心に戦慄が湧き上がる。
それは最早、恐怖に近しい思いだったのかもしれない。
数多の根が覆い尽くした地面の下から、仄かな青白い光を放つ巨大な何者かが、湿った土を押し退けながらのっそりと這い出しつつあったのだ。
「あれって……、一体何なの?」
問い掛けに答える紀野さん。
さも気怠げな調子にて。
「あぁ、あれね。
望月くんって聞いたこと無いかな?
桜の下には死体が埋まってるって」
桜の下の死体。
以前に読んだ誰かの詩に、そんなことが書いてあったような気がする。
けれでも、それはあくまで例え話だろうと思っていたし、埋まっている死体が何かの拍子に這い出てくるなんて想像したことすら無かった。
しかし、それは実際に僕の目の前で起きつつあるのだ。