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4.桜の鬼、そして妖【8】

その顔に柔らかな微笑みを浮かべて僕を見遣った彼女。

『桜の妖』と名乗る彼女の上に白い花弁が降り注ぐ。


「それじゃ、私は行くね」


僕の胸中に狼狽が拡がり行く。

どうして、どうして僕の前から去ってしまうのだろう。

せっかく色々と話が出来たのに。

命を救って貰ったのに、お礼すらロクに言えていないのに。


「まっ、待ってよ!!!」


そう呼び掛けつつ駆け寄った僕は、思わず彼女の掌を掴んでしまう。

柔らかで暖かな感触が伝わり来る。

それは、『生』なるものをこの上無く雄弁に物語っているようだった。


「過ぎ行く季節を名残り惜しむ気持ち。

それは新たな出逢いを求める動機にもなるの。

冬の次には春が来るし、春が過ぎたら夏になる。

人は季節を追い掛けて生きるものだし、その最中には幸せだってある。

だからね、あんまり難しく考えなくてもいいと思うよ」


彼女の声が浪々と響く。

舞い散る花弁はその密度を増し、声の主の姿を曖昧にしつつあった。

握り締める掌が、伝わり来るぬくもりが、彼女が目の前に佇んでいることを揺るぎ無く教えてくれていた。


「ありがとう!」


 叫ぶようにして告げる僕。


「フフッ……」と笑い声が響き来る。


「もしも。

忍び寄る夜を屠りたくなった時は。

刹那の欲に心を任せればいいと思うよ」


幾度も被りを振った僕は、叫ぶように言葉を返す。


「でも……、でも! 

そんなの申し訳無くって! 

父さんも、母さんも僕の所為せいで……」


舞い散る花弁はその密度をいよいよ増しつつあった。


「まぁ、それを抱えて生きるしかないんじゃないの? 

許して貰うとかムリなんだし。

かと言ってさぁ、早くこっちに来なさいって思ってる訳でもないんじゃないの?」


溜息交じりのその声は、僕の心を更に波立てしまう。


「じゃあ、僕はどうすればいいの? 

一体どうやって生きて行けばいいの?」


僕の手を握る強さがジワリと増す。


「私さぁ、そんなご大層なことなんて知らないよ。

生きる意味とか罪の意識とか、そんなの分からない。

でもさぁ、生きてたら良いこともあるんじゃないの?

美味しいもの食べたりとか、誰かと仲良くなったりとか。

もう、それでいいじゃん。

刹那の楽しみで心を埋める、それでいいんじゃないのかな」


響く言葉は気怠けだるげで、そして投げ遣りめいてもいたけれど、荒立つ僕の心にゆっくり響き入るように思えてしまった。

うたうような声音が響き来る。


「春ってね、万物を惑わす季節なの。

冬を乗り越えた命が一斉に芽吹く季節。

その迸りは激しいものだし、人の心を狂わせることもあるし、妖しげなことが様々に起きたりもする。

時として、現世と異界の端境すら曖昧になってしまう。

つまりは、儚い春の夢なの」


それは、唐突のことだった。


僕の唇が柔らかさと温もりに覆われた。

しっとりと湿りを帯びたそれは、えも言われぬ甘い香りも帯びているようだった。

そして僕はようやく悟る。

夕方に彼女と出逢った時から、この刹那が訪れ来ることを朧気ながらも夢想し続けていたのだと。


目尻から滴が零れるのが分かった。

嬉しさだったり感謝だったり、或いは別れの哀しみだったり。

様々な思いがない交ぜとなった滴だった。


そして。

僕の脳裏では様々なことが曖昧になりつつあった。

和泉さんと語らった思い出。

黒い巨人と『鬼』との取っ組み合い。

そして、目の前の彼女との刹那の逢瀬。

あるいは彼女の名前。

それらの記憶の輪郭が次第に曖昧となり、ゆっくりと消え失せつつあった。


それはまるで、咲き乱れる桜の花が一夜の雨で儚く流されるようにして。


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