クリングヴァル先生に認められたのはいいけれど、街中で騒ぎを起こしていたと、警備隊からお叱りを頂いた。
クリングヴァル先生が学院の教師であることは知られているのか、警備隊も要請という形で高圧的には出てこない。
先生は、ふん、と鼻を鳴らしただけである。
「いいか、アラナン。警備隊なんていうのは、小姑みたいなもんだ。うるさいだけで、飯も作ってくれん」
「青少年に変な思想を吹き込むのは止めてくださいよ、スヴェン」
警備隊を
眼鏡を掛けた神経質そうな人だが、目の光は弱くない。
ベルナルド・シュピリ。
フラテルニアの市長にして、連合評議会議員である。
「大体、あんな目立つ場所で警備隊を集めるなんて真似は勘弁してください。メルダース派の連中の目が、何処に光っているかわかったもんじゃありません」
すでに、時計塔の隣の庭からは撤退している。
岩は元々クリングヴァル先生が修行用に持ち込んだものらしく、瓦礫を
宿は時計塔と連合評議会の中間くらいにあった。
市長なのに個室じゃなくて、先生と二人部屋である。
贅沢しない主義なのかな。
「それにしても、アラナン君を寄越すとは、ティアナンも何を考えているのか。連中は、正に君たちを引き渡せと言ってきているんですよ。火に油を注ぐ気ですか」
そもそも、ブライスガウ伯から連合評議会に対して使者が派遣されてきたことに、フラテルニアはさほど重きを置いてなかったらしい。
マリーから事情はすでに聴取され、評議会にも報告はされているのだ。
ツェーリンゲン家の越境の方が問題であり、フラテルニアは学生に対して保護を与える立場を採っていたようだ。
だが、ベール市長のフロリアン・メルダースが、フラテルニアに入る前の紛争に関しては、ヘルヴェティアは関知しないと言い出した。
お陰で問題は
改めて聞くと、完全にぼくたちのせいだ。
ヘルヴェティアの連合評議会は、十の自由都市の市長、冒険者ギルド本部長、魔法学院の学長、聖修道会の大主教、クウェラ大司教の十四人で構成されている。
十の自由都市とはすなわち、ベール、フラテルニア、アルトドルフ、シュヴァイツ、ヴァルテン、ルツェーアン、シドゥオン、オルテ、アアル、ドゥレモだ。
こうして見ると、十四の票のうち、フラテルニアだけで三票を持っている。
ヘルヴェティアでの力が強いわけだ。
クウェラの大司教を入れているのは、ルウム教会との全面対決を避けるためか。
ベールの市長フロリアン・メルダースに同調しているのは、今のところクウェラ大司教とオルテ市長だけだという。
だから大きな問題はないはずだが、当のツェーリンゲン家当主であるブライスガウ伯自らがやって来ているのが厄介だ。
これにどう対応するか。
それを連日会議中なのである。
「そんな状況で、アラナン君が警備隊に逮捕でもされてみなさい。フロリアン・メルダースは、喜んでブライスガウ伯爵に引き渡すでしょう。帝国に身柄を拘束されたいのですか?」
「え、何でヘルヴェティアの政治の中枢たるベールの市長が、帝国貴族の言うことをそんなに尊重するんです?」
元々ヘルヴェティアは、ぼくたちセルトの民の一部族であるヘルヴェティ人が住んでいた地域だ。
だが、かつてルウム帝国時代は帝国のラティルス人が北上し、ヘルヴェティ人を支配下に置いた。
後に帝国の威風が衰えると、レナス川を越えてスカンザ民族のアレマン人とブルグンド人が南下し、ヘルヴェティアの北部と西部に住み着いた。
アレマン人はレナス川流域一帯を支配し、族長は貴族化した。
だが、ヘルヴェティ人はティアナン・オニールを中心とし、アレマン貴族を戦いで破ってレナス川の北に追い返したはずだ。
「そう一筋縄でいかないのが政治ってやつさ、アラナン。ベールは、かつてツェーリンゲン家が支配していた都市だ。今でもその影響力は残ってやがる。フロリアン・メルダースがツェーリンゲン家とどう繋がっているかはわからないが、全く無関係ということはない」
アレマン貴族を追い出したといっても、アレマン人全てを追い出したわけではない。
混血も進み、最早その血の境界は曖昧になっている。
そもそも、セルトの言語なんてもう使っている人間はいないのだ。
公用語は、基本的に
「そもそも、メルダースはフラテルニアが三票持っていることに不満があるようですからね。ベールは冒険者ギルド本部長の票を足しても二票。ベールが、フラテルニアの後塵を拝していると思っても致し方のないところです」
「はん、ネフェルスの戦いで中核になったのは、ルツェーアンとフラテルニアだ。ベールに評議会が置かれているのは、ティアナン・オニールが自分の独裁になることを避けただけじゃないか。拾っただけの地位に固執するとは、フロリアン・メルダースってやつは随分と尻の穴が小さいやつだぜ!」
難しい話だが、どうやらヘルヴェティアも一枚岩ではないようだ。
だが、そんなことは当たり前なのだ。
全員が同じ考えなどということはない。
とはいえ、ぼくもわざわざ捕まってあげる義理はないのだ。
相手が攻撃してくるなら、反撃するのが人として当然である。
「要するにブライスガウ伯に要請を取り下げさせ、ベールから叩き出せばいいんですよね」
「無論それが目標ですが、暴力で解決する気はありませんよ、アラナン君」
シュピリ市長が、きっちりと釘を刺してきた。
一瞬面白そうな顔を浮かべたクリングヴァル先生とは、対照的だ。
まあ、ぼくも別に殴り込みを掛けるつもりはない。
それじゃ、相手に口実を与えるだけだ。
「要は、ベール市長とブライスガウ伯が繋がっている証拠があればいいんですよね。そうすれば、市長は失脚するし、伯爵も諦めて引き揚げるのでは」
「その通りですけれどね、アラナン君。どうやってそれを立証するのですか」
「そうですね。──ぼくが実際にベール市長に捕らえられてみるのはどうでしょう。内部に入り込めば、彼らの尻尾を掴めるかもしれません」
いい考えだと思ったんだけれど、シュピリ市長は気に入らなかったようだ。
自分を大切にしろとか計画性がなさすぎるとか、延々とお説教を食らう羽目になって涙目である。
いつの間にかクリングヴァル先生とアンヴァルはいなくなっていて、二人で階下の食堂で夕食を食べていた。
ようやく解放されたぼくが階下に降りると、アンヴァルは気まずそうに視線を逸らした。
「美味しそうな
「だめえ、それアンヴァルの、アンヴァルのだから!」
馬のくせに肉料理を食べているアンヴァルから、
うん、スープの味が染み込んでて、なかなかいいな。
この世の終わりのような表情をしているアンヴァルの隣に座ると、ぼくも夕食を注文する。
おい、アンヴァルさん、視線でぼくを殺そうとするのやめませんか。
「ぼくを見捨てていった罰だぞ、アンヴァル」
「ひっ、だけど、アンヴァルはお腹が空いていたんですよ! フラテルニアから此処まで駆け通しだったアンヴァルに、
そういえばそうだな。
これは、ぼくが悪かったかもしれない。
謝ろうとしたところに、クリングヴァル先生が口を挟んだ。
「おい、気を付けろ。そいついま、アラナンはちょろいからこう言えば大丈夫って舌出してるぞ」
「あああ、
猛然とクリングヴァル先生とアンヴァルが言い争いを始める。
うん、もう運ばれてきた自分の食事を優先しよう。