視界の隅で、二つの月が俺を見下ろしていた。
眼下に広がるのは、宝石箱をひっくり返したような異世界の夜景。
それは息をのむほど美しかったが、今の俺にとっては絶望的な光景でしかなかった。
急速に、近づいてきているからだ。
「死ぬ! 絶対死ぬって!!」
俺は空中で必死にもがいた。
風を切る轟音が耳元で鳴り響き、落下速度はどんどん増していく。
「飛べないのかよ俺!? ドラゴンなんだろ!?」
背中の翼を力任せに動かしてみる。
バサッ、バサッと虚しい音を立てるだけで、落下速度は一向に緩まない。
ある程度の滑空はできているのかもしれないが、この高度からの自由落下を防ぐほどの揚力は得られなかった。
「クソっ! こんなカッコいい翼が付いてるのに飾りかよ!! 役立たず!!」
パニックになりながら悪態をつくが、状況は変わらない。
地面が、街の灯りが、刻一刻と迫ってくる。
このままじゃ、俺自身が巨大な質量兵器として地上に激突することになる。
(どこか安全な場所……いや、被害が出てもマシな場所は……!?)
落下しながら、必死で地上を観察する。
街の中心部はダメだ。
煌びやかな宮殿や、人々で賑わっていそうな広場に落ちたら大惨事になる。
石畳の大通りも、馬車や通行人を巻き込む可能性がある。
住宅街なんてもってのほかだ。
俺が死ぬのはともかく、無関係な人たちを巻き込むわけにはいかない。
焦る俺は、視界の端に比較的マシそうな場所を見つけた。
街の外れにある、やや大きな建物。
周囲に人家は少なく、明かりも乏しい。
寂れた酒場だろうか? そして、その建物の周りには、十数人の人影が見える。
だが、その服装や雰囲気はどう見てもカタギじゃない。
武器を持っている者もいる。
(……盗賊か? アジトにしてるのか、あの酒場を)
一瞬迷ったが、他に選択肢はない。
落下地点を調整する余裕なんてないのだ。
(よし、あいつらのアジト(?)に突っ込むか! 被害者は悪党だけならセーフだろ! ……たぶん!)
半ば自棄になりながら、俺は目標地点へと落下角度を微調整した。
「お前らーーー!!! 俺がいくぞおおおお!!!」
誰に言うでもなく叫び、俺はそのまま一直線に突っ込んでいった。
次の瞬間――
ドオオオオオオオオオン!!!!
それが、俺の異世界における最初の「着地」だった。
凄まじい轟音と衝撃波が夜の静寂を引き裂く。
俺が突っ込んだ酒場らしき建物は、屋根も壁も基礎も関係なく、文字通り木っ端微塵に砕け散る。
木片、瓦礫、割れた酒樽、そして中にいたであろう盗賊たちが、まるでオモチャのように宙を舞い、周囲に派手に撒き散らされる。
俺が着地した場所を中心に、地面が大きく陥没し、巨大なクレーターができていた。
周囲の地面はめくれ上がり、土煙がもうもうと立ち込める。
「ぐわああああ!!!」
「な、なんだ!? 隕石か!?」
衝撃波に巻き込まれた盗賊たちの断末魔のような悲鳴が、あちこちから聞こえてくる。
(……あれ? くしゃみしてないのにこの威力?)
着地の衝撃は多少感じたが、痛みはほとんどない。
むしろ、全身に力がみなぎっているような感覚すらある。
俺はクレーターの中心で呆然と立ち尽くし、自分のしでかした破壊の規模に唖然とした。
(ただ落ちただけでこれかよ……。俺、物理的にヤバすぎないか?)
粉塵が少しずつ晴れてくると、周囲の状況が見えてきた。
元・酒場の周辺は、もはや瓦礫の山だ。
そして、その瓦礫の隙間から、生き残った盗賊たちが、恐る恐る顔を覗かせている。
その数は、ざっと見て二十人ほどか。
「な、なんだこいつ……空から降ってきた女?」
「竜族の姫……? いや、あんな化け物みたいな力……!」
彼らの目は、恐怖と驚愕、そして状況を理解しきれない困惑に染まっていた。
だが、中にはまだギラついた目をしている者もいる。
「こ、こいつを捕まえろ! あの角と翼……高く売れるぞ!」
一人が叫ぶと、他の盗賊たちも我に返ったように武器を構えた。
目の前で仲間が(たぶん)死んだり、アジトが壊滅したりしたのを見ても、まだ戦うつもりらしい。
(こいつら、まだやる気かよ……懲りない奴らだな)
正直、面倒くさい。
さっさとどこか安全な場所で飯でも食いたい気分だ。
だが、ここで逃げるわけにもいかないだろう。
それに、自分の新しい力がどれほどのものか、試してみるのも悪くないかもしれない。
「よし、ウォーミングアップにはちょうどいいか」
俺は軽く拳を握り、向かってくる盗賊たちを迎え撃つ態勢をとった。
「うおおおお!!」
先頭の盗賊が、錆びた剣を振りかざして突進してくる。
俺はそれをひらりとかわし――いや、かわすまでもなく、軽く拳を振るった。
本当に、軽く。
ドゴォン!!!!
俺の拳が盗賊の胸部にめり込んだ瞬間、そいつは人間大砲のように、背後の(かろうじて残っていた)壁をぶち抜き、夜空の彼方へと消えていった。
星になったかもしれない。
「……あっ」
予想以上に吹っ飛んだ。
思わず自分の拳を見つめる。
「……お、おい……今の、見たか……?」
「や、やばい……相手にならねぇ……!」
他の盗賊たちが明らかに怯んだ。
だが、まだ完全に戦意を喪失したわけではないらしい。
数人がじりじりと距離を詰めてくる。
(なら、もうちょっと試すか)
俺は今度は、自分の手の爪に意識を向けた。
白く滑らかな指先には、鋭く尖った爪が生えている。
これもドラゴンの力なのだろう。
「じゃあ、次は爪だな……」
目の前の盗賊が着込んでいた、そこそこ頑丈そうな革鎧の胸当てを、爪で軽く引っ掻いてみた。
ギャリッ!!
「ひぃぃっ!!?」
革鎧は、まるで熱したナイフでバターを切るように、いとも簡単に裂けた。
俺自身が驚くほどの切れ味だ。
「お、おい! なんだこの姫は!!」
「や、やべぇ……!!」
さすがに、ここまで力の差を見せつけられると、彼らも理解したらしい。
恐怖が、わずかに残っていた闘争心を完全に上回ったのだ。
「も、もう無理だああああ!!!」
「逃げろぉぉぉ!!」
盗賊たちは、今度こそ本当に蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
あっという間に周囲には誰もいなくなる。
「……ふぅ、楽勝」
俺はポンポンと手を払い、一つ息をついた。
「俺、やっぱり相当強いっぽいな。
これなら異世界でも余裕で生きていける……か?」
万能感と、少しの不安。
そして、相変わらずの空腹感。
(戦ったら腹減るな……飯食いたい……)
これからどうしようか、と考えていた、その時だった。
街の方角から、複数の馬蹄の音が近づいてくるのが聞こえた。
それも、ただの馬の音ではない。
統率の取れた、軍隊のような規則正しい響きだ。
音は急速に近づき、やがて瓦礫の山の向こうから、月光を浴びて輝く鎧の一団が現れた。
王国騎士団、とでもいうべきか。
彼らは整然とした隊列を組み、少し離れた場所で停止した。
その先頭から、一人の騎士が静かに馬を降りる。
月明かりの下でも分かる、見事な金髪。
彫りの深い端正な顔立ち。そして、一際豪華な、しかし実戦的なデザインの鎧。
全身から放たれる威圧感と、冷静沈着な雰囲気は、彼がただの騎士ではないことを示していた。
年齢は三十代後半くらいだろうか。
彼は、俺と、俺が作り出した惨状――粉々になった酒場と巨大なクレーター――を冷静な目で見渡すと、真っ直ぐに俺に向かって歩み寄ってきた。
その瞳には、恐怖も驚愕も、そして敵意も見られない。
ただ、強い好奇心と、値踏みするような色が浮かんでいる。
(うお、なんか偉そうなのが来た。敵じゃなさそうだけど……面倒なことになりそうな予感)
俺は少し身構えたが、相手に敵意がないことを感じ取り、とりあえず様子を見ることにした。
騎士は俺の前で立ち止まると、片膝をつくことなく、しかし礼儀正しく名乗った。
「竜族の姫君とお見受けする。我が名はレオナルド・バルゼルグ、王国騎士団第一部隊隊長である」
その声は落ち着いており、よく通る。
「君の戦闘、遠目ながら見させてもらった。その力、我が王国でも比類なきもの」
レオナルドと名乗った騎士団長は、俺を値踏みするように見た。
「問おう。その力を持って何を望む?」
探るような視線。
俺が何者で、何を目的としているのかを知りたいのだろう。
(こいつ、俺の力を見てもビビってないのか? 大した奴だな)
少し感心しながらも、面倒事は避けたい。俺は正直に(?)答えることにした。
「目的? 特にないけど。強いて言うなら、腹減ったから飯食いたいな」
俺のあまりにも率直な答えに、レオナルドはわずかに目を細めた。
何かを考えるように腕を組み、しばし沈黙する。
その間に、俺も彼の背後に控える騎士たちを観察する。
彼らもまた、緊張はしているものの、統率が取れており、無闇に敵意を向けてくる様子はない。
やがて、レオナルドは顔を上げた。
「ならば、姫君に一つ提案がある」
静かな、しかし有無を言わせぬ響きを持った声だった。
「ぜひ一度、王宮へお越しいただきたい。我々は君の力を評価している。丁重にお迎えしよう」
その言葉に、周囲の騎士たちが微かに緊張を走らせた。断られた場合の対応も考えているのだろう。
(王宮か……面倒そうだけど、美味い飯にはありつけるかもな……)
それに、このまま街外れでうろついていても仕方がない。情報収集のためにも、一度行ってみるのは悪くないかもしれない。
「……よし、行ってやるよ。王宮に」
俺が頷くと、レオナルドは満足げに微笑んだ。
「賢明な判断だ。では、こちらへ。馬を用意させよう」
騎士たちが手際よく、俺のために飾り付けられた立派な馬を引いてくる。
「当然だ。君は貴族ではなくとも、竜族の姫君。我々はそれ相応の礼を持って迎え入れる」
その丁重な扱いに、俺は少しだけ気分が良くなった。
過度にへりくだるわけでもなく、かといって見下すわけでもない。
騎士としての矜持を保ちつつ、俺の力を認めている。
こういう対応をされると、こっちも悪い気はしない。
俺は差し出された手を借りて、ひらりと馬に跨る。
馬上からの眺めは思ったより高い。
出発しようとした、その時。
レオナルドが静かに俺を見つめて言った。
「姫君。重ねてお願いするが、どうか、その力を無闇に誇示することなく、慎んでいただきたい。王宮には多くの者がいる」
それは、忠告であり、懇願のようにも聞こえた。
「……もちろん、余計なトラブルは起こすつもりはないさ」
俺は肩をすくめて答える。
(俺からはな)
自分の「くしゃみ一つで大惨事」な体質を思い出し、内心で冷や汗をかきながら、俺は騎士団と共に、月明かりに照らされた王都、そしてその中心にそびえる王宮へと向かうのだった。