騎士団長レオナルドに先導され、俺はついに王宮へと足を踏み入れた。
巨大な城門をくぐり抜けると、そこは別世界だった。
「うおっ……!」
思わず感嘆の声が漏れる。
磨き上げられた大理石の床がどこまでも続き、天井からは巨大で煌びやかなシャンデリアがいくつも吊り下がっている。
壁には金糸銀糸で織られたタペストリーが飾られ、柱には精巧な彫刻が施されている。
窓の外には、手入れの行き届いた広大な庭園が見えた。
(これが王宮か……! 俺が知ってる城とか、テーマパークの安っぽいセットとはレベルが違うぞ……!)
あまりの壮麗さに、現代日本の感覚が完全に麻痺していくのを感じる。
こんな場所に住んでいる奴らがいるのか。
中庭のような場所で馬から降りると、そこにはすでに人だかりができていた。
いや、人だかりというよりは、整然と並んだ集団だ。
全員が清楚なデザインの揃いの制服を着ている。
女官、だろうか。
俺の姿を認めると、彼女たちは一斉に深々と頭を下げた。
その動きは寸分の乱れもなく、訓練されていることが窺える。
「姫様、お待ちしておりました!」
代表として進み出たのは、銀色の髪を綺麗に結い上げ、涼やかな青い瞳をした女性だった。
おそらく女官長的な立場なのだろう。
その声は鈴を転がすように美しく、しかし芯のある響きを持っていた。
(姫様、ねぇ……まだ慣れないな、この呼ばれ方)
戸惑いはあるものの、ここまで丁重に扱われると悪い気はしない。
むしろ、さっきまでの奴隷市場や盗賊のアジトでの扱いを思えば、天国のような待遇だ。
(こりゃ、下手な高級ホテルより全然快適そうだ)
そんなことを考えていると、彼女は優雅な仕草で俺を促した。
「ささ、姫様。長旅でお疲れでしょう。まずはお部屋へご案内し、お召し物を整えませんと」
言われて、俺は自分の今の格好を思い出した。
奴隷市場で着せられていたボロボロの布切れは、落下と戦闘の衝撃でさらにみすぼらしくなっている。
というか、ほとんど破れていて、肌の露出がかなり多い状態だ。
女官たちは俺の姿を見て、「まあ……!」と小さく息を呑んだが、すぐに表情を引き締め、プロフェッショナルな動きで俺を王宮の奥へと案内し始めた。
通されたのは、これまた息をのむほど豪華な一室だった。
天蓋付きの巨大なベッド、彫刻が施された調度品、壁一面の大きな窓からは美しい庭園が一望できる。
そして、部屋の中央には、すでに数着のドレスが用意されていた。
「姫様には、こちらの装いを……」
別の女官が、ふわりとした純白のドレスを手に取る。
フリルとレースがたっぷりとあしらわれ、銀糸で繊細な刺繍が施されている。
隣には、燃えるような赤、深海のような青のドレスも並んでいた。
どれも最高級の素材で作られているのが一目でわかる。
(いやいやいや、ドレスて! だから俺は男なんだって!)
心の中で激しくツッコミを入れる。
しかし、鏡に映るであろう自分の姿――銀髪ロングで華奢な美少女ドラゴン姫――を想像すると、悲しいかな、似合ってしまいそうなのが腹立たしい。
だが、今の俺にとって、ドレスよりも、この豪華な部屋よりも、はるかに重要な問題があった。
グゥゥゥゥ~~~~~~。
静まり返った豪華な部屋に、俺の腹の虫が奏でる盛大なファンファーレが鳴り響いた。
女官たちが一瞬、ピシリと固まる。
その視線が、俺の腹部に集中するのが分かった。
「……」
気まずい沈黙。
俺だって好きで鳴らしてるわけじゃない。
だが、奴隷市場で目覚めてから、まともな食事どころか水すら口にしていないのだ。
空腹は限界を超えていた。
「あらあら……お客様がお困りのようですね」
その声は、まるで澄んだ泉の水のように、静かに部屋に響いた。
音もなく現れたのは、一人の少女だった。
年の頃は俺(の見た目)と同じくらいだろうか。
腰まで伸びる漆黒のストレートヘア、雪のように白い肌、そして鮮やかな赤い唇。
派手な装飾はないシンプルなドレスを着ているが、その立ち姿には、他の誰とも違う、生まれ持った気品と静謐さが漂っていた。
(……王女様、か?)
直感的にそう理解した。
彼女は俺のお腹の音を聞いても表情一つ変えず、ただ穏やかに微笑んでいる。
「まずは……お食事を用意しましょう」
その声は優しく、有無を言わせぬ響きがあった。
「さすがにお腹が空いていては、着替えどころではありませんわ」
(女神……! いや、王女様だけど! 神か! あんたは神なのか!?)
最高の提案に、俺の心は歓喜に打ち震えた。
さっきまでの屈辱も混乱も空腹も、すべてがどうでもよくなるほどのありがたさだ。
「めっちゃ助かる!!! あんた最高!!!」
俺は思わず満面の笑みを浮かべ、心の底からの感謝を叫んだ。
周囲の女官たちが若干引いている気もしたが、構うものか。今は飯だ!
案内された王宮の食堂は、これまた度肝を抜かれるほど豪華だった。
長い長いテーブルの上には、目が眩むほどの料理が所狭しと並べられている。
黄金色に焼かれた巨大な肉の塊。
色とりどりの温野菜。
湯気を立てる濃厚そうなスープ。
山と積まれた、見るからにふわふわのパン。
そして、俺の視線を釘付けにしたのは、テーブルの中央に鎮座する、巨大な骨付き肉の山だった。
香ばしい匂いが鼻腔をくすぐり、俺の食欲をさらに刺激する。
「姫様、ご自由にお召し上がりください」
食堂の隅には、さっきの王女様が静かに席に着いていた。
彼女もここで食事をとるらしい。
「じゃあ、遠慮なく!!」
俺は、もはや礼儀作法などかなぐり捨て、一番近くにあった巨大な骨付き肉に勢いよく齧りついた。
(うまっ!!! なんだこれ!? めちゃくちゃ柔らかい! 肉汁が口の中に溢れて……ジューシーすぎる!)
夢中で肉を食らう。あっという間に骨の周りの肉がなくなり、綺麗になった骨だけが残った。
普通ならここで終わりだろう。
だが、俺の本能が囁くのだ。「まだいける」と。
俺はためらうことなく、その骨を掴み――
バリッ! ボリボリッ!
硬いはずの骨を、まるでスナック菓子でも食べるかのように豪快に噛み砕き始めた。
「おお、骨も美味い! 香ばしくて歯ごたえもいいな!」
骨髄の濃厚な旨味が口の中に広がる。
これはたまらない。
その瞬間、食堂の空気が凍りついた。
テーブルの向かいに座っていた王女様が、手にしていた銀のフォークをカタンと落とし、ハッと目を見開いて固まっている。
周囲に控えていたメイドや女官たちも、全員が信じられないものを見るような目で俺を見ていた。
「あ、あの……姫様……骨まで召し上がるのですか……?」
一人のメイドがおそるおそる尋ねてくる。
「うん! なんか、すごく美味しい! カルシウムも摂れそうだしな!」
俺は悪びれもなく、口の周りについた肉汁を拭いながら答えた。
(あれ? 普通は骨食わないのか? でも美味いもんは美味い! これもドラゴンの力なのかな? まあいいや!)
俺は骨を食べるのをやめ、他の料理に手を伸ばす。
「うわ、このスープも絶品! なんか体に良さそう! パンもふわふわだ! いくらでも食える!」
次から次へと料理を平らげていく俺の姿を、王女様は最初こそ唖然として見ていたが、やがてその口元に楽しそうな笑みが浮かんだ。
「ふふっ……お気に召したようで何よりですわ。どうぞ、たくさん召し上がってくださいね」
その声には、俺の規格外っぷりを面白がっている響きがあった。
どうやらこの王女様、かなり肝が据わっているらしい。
心ゆくまで食事を堪能し、満腹になった俺に、王女様は次の提案をしてくれた。
「お腹が満たされましたら、次はお風呂にいたしましょう。きっとお疲れでしょうから」
「お風呂……?」
そういえば、奴隷市場にいた時からずっと汚れたままだった。
風呂という言葉を聞いただけで、体がさっぱりするような気がしてくる。
「よし、行く!!!」
俺は即答し、王女様の後についていくことにした。
女官やメイドたちが、慌ただしく準備のために動き出す気配を感じながら。
王女様に案内され、俺は王宮のさらに奥へと進んでいく。
通路の壁には黄金の装飾が施され、大理石の床には美しい紋様が彫られている。
豪華なシャンデリアが柔らかな光を投げかけていた。
やがて、ひときわ大きな、荘厳な扉の前で足を止める。
ゴゴゴゴ……と重々しい音を立てて扉が開かれると、中からもうもうと湯気が溢れ出してきた。
そして、俺の目に飛び込んできたのは――
異世界の超豪華風呂!!!
「……すっげぇ……!」
思わず感嘆の声が漏れた。
そこは、もはや浴場というより神殿だった。
高い天井は大理石の柱に支えられ、壁には神話の一場面のような美しい彫刻が施されている。
広大な空間の中央には、小さな湖と見紛うほどの巨大な湯船が広がり、乳白色の湯がなみなみと満たされ、幻想的な湯気を立ち上らせていた。
天井は特殊なガラスか水晶でできているのか、透き通っており、夜空に輝く二つの月と無数の星々が見える。
(すげー豪華!!)
「姫様、ご入浴の準備を整えますね」
メイドの一人が、そっと俺の髪に触れた。
流れるような手つきで、女官やメイドたちが俺を脱衣所へと誘導し、汚れた服を脱がせ、タオルを手渡してくれる。
そして、俺は湯気に包まれながら、ゆっくりと湯船に足を踏み入れた。
ジャボンッ……!
(あっつ!! けど、超気持ちいい!!!)
熱めのお湯が、疲れた体を芯から温めていく。
じわぁ……っと、体の強張りや、これまで感じていたストレスが溶けていくような感覚。
「ふぅ~~~~……」
思わず、天を仰いで深い息を吐く。これ、最高すぎる。
(飯はうまいし、風呂は最高……俺、もうこのままでもいいかも)
ふと、自分の手を見る。
白く、すべすべとした細い指。
元のゴツい男の手とはまるで違う。
湯の中で、背中の翼をそっと動かしてみる。
ふわり、と軽い抵抗を感じる。
俺はもう、普通の人間じゃない。
それどころか、見た目は完全に「異世界の竜姫」だ。
(……普通なら、もっと悩むのかもな)
でも、飯は美味いし、風呂は最高。
しかも、くしゃみひとつでオークション会場を半壊させるほどのパワーまで手に入れた。
「ま、いっか!」
悩むよりも、この世界を楽しんだ方がいい気がする。
能天気かもしれないが、それが今の俺の正直な気持ちだった。
「姫様、髪をお流ししますね」
後ろから、メイドの優しい声が聞こえた。
彼女たちの細く白い指が、俺の長い銀髪に触れる。
丁寧に梳かれ、温かい湯でゆっくりと洗われていく。
その心地よさに、俺は再びうっとりとした。
(それにしても、ここのメイドや女官、みんな美人だな……)
すらりとした姿、整った顔立ち。
だが、不思議なことに、まったく欲情しない。
(あれ? 俺、元男だよな……? ドラゴンってそういう欲求薄いのかな? それとも、この体がまだ子供だから……?)
ぼんやりとそんなことを考えながら、俺の意識はだんだんと微睡みの中に沈んでいった。
温かい湯と、優しい手の感触に包まれて。
(ああ、風呂って、最高だな……)
異世界生活への期待と、何より食と風呂への深い満足感と共に、俺の意識は完全に途切れた。