怒りに翼を任せ、俺は全速力で飛んでいた。
眼下には見慣れぬ大地が広がっている。
これが、あの絶品ジュースと極上肉の故郷か。
(待ってろよ、俺のジュース! 俺の肉! 今、助けに行くからな!)
食い意地が張っていると言われようが構わない。
美味いものは正義であり、それを脅かす存在は悪だ。
俺の中では、そういうことになっている。
やがて、目的地上空に到達した。
高度を下げて眼下を見下ろすと、そこは想像以上に悲惨な戦場だった。
黒煙が立ち上り、剣と剣がぶつかり合う甲高い音が響き渡る。
明らかに魔王軍のものと思われる黒い鎧を纏った騎士たちが、粗末な装備の兵士たち――おそらくはこの地の防衛隊だろう――を一方的に蹂躙していた。
防衛隊の兵士たちは必死に抵抗しているが、練度も装備も違いすぎる。
次々と倒され、あるいは捕虜にされているようだ。
遠くでは、葡萄畑らしき場所や、牧場の柵のようなものが燃えているのが見える。
(間に合った……いや、ギリギリか? あれが俺のジュース(の原料)や肉を脅かす奴らか! 許さん!)
腹の底から怒りがこみ上げてくる。
こんな奴らに、俺の至福の時間を奪わせてたまるか。
「よし、さっさと蹴散らしてやる!」
俺は戦場に介入すべく、雄叫びを上げながら魔王軍のど真ん中めがけて急降下を開始した。
圧倒的な力で一瞬にして終わらせてやる!
と、思ったのだが。
ビュンビュンビュンビュン!!
俺の接近に気づいた魔王軍の弓兵たちが、一斉に矢を放ってきた。
空を黒く埋め尽くすほどの矢の雨だ。
「おっと!」
咄嗟に空中で身を捻り、回避しようと試みる。
だが、数が多すぎる。
避けきれなかった十数本の矢が、俺の体に吸い込まれるように命中した。
パスンッ! パスンッ!
鈍い音が響く。
被弾した感触はある。
(……ん? 痛くないぞ? デコピンされた程度か)
どうやら俺の体は、矢程度では傷一つつかないらしい。
ドラゴンの鱗(あるいは皮膚?)は想像以上に頑丈なようだ。
(よし、矢は効かねぇ! ならば、このまま突っ込む!)
俺は矢の雨を無視し、魔王軍の中心部で指揮を執っている、一際禍々しいオーラを放つ黒騎士――指揮官だろう――を狙って、さらに加速した。
「まずは頭を潰す!」
指揮官は俺の接近に気づき、冷静に黒い剣を構えた。
その動きには一切の無駄がない。
明らかに手練れだ。
シャキン!!
俺が拳を叩き込もうとした瞬間、指揮官の剣が一閃した。
それは、単なる剣技ではない。
魔力か何かを纏った、鋭く重い一撃。
「ぐぉっ!?」
完全に動きを読まれていた。
回避しようとしたが、間に合わない。
ズバッ! バキィッ!!
剣閃が俺の胴を掠め、さらに返す刀で腕を浅く切り裂いた。
(痛くはないが、鬱陶しい!)
致命傷には程遠いが、確かに斬られたという感触がある。
くしゃみブレスや落下衝撃には無傷だったのに、こいつの剣は俺の防御を貫通するのか。
(こいつ、強い!? さっきの悪魔より全然やるじゃん!)
予想外の抵抗に、俺は一瞬怯んだ。
単純なパワーやスピードだけでは押しきれない相手だ。
真正面から殴り合うのは、どうやら相手の土俵らしい。
(一旦引くか!)
俺は強引に翼を羽ばたかせ、指揮官から距離を取る。
指揮官は追撃してこない。
代わりに、周囲の黒騎士たちに指示を飛ばしている。
「逃げるか、小賢しい竜め……! 全軍、囲んで仕留めよ!」
(逃げる? 違うね)
俺は上空で態勢を立て直しながら、ニヤリと笑った。
(人間風情が……いや、違うな。人間だって強い奴は強い。それは認める。なら、こっちはこっちの得意分野で勝負させてもらうぜ!)
ドラゴンといえば、その圧倒的な巨躯とパワー、そして――空を翔るスピードだ!
俺は後退するフリをして高度を下げ、地上の黒騎士たちが追撃してくるのを確認する。
騎馬兵たちが槍を構え、一斉にこちらへ向かってくる。
よし、かかった!
俺は一気に翼を羽ばたかせ、地面スレスレの低空を猛スピードで飛行開始した!
ドォォォォォォン!!!!
空気が爆ぜるような轟音が戦場に響き渡った。
俺の体が音速を超えたのかどうかは分からないが、少なくともそれに近い速度が出ているのは確かだ。
音速の壁をぶち抜き、俺の周囲に衝撃波が発生する。
俺が通過しただけで、その衝撃波が津波のように魔王軍の兵士たちを薙ぎ払っていく。
「な、なんだ……!?」
「竜が……速すぎる!!」
「ぐわあああ!!」
兵士たちが次々と吹き飛ばされ、地面に叩きつけられる。
弓兵が慌てて矢を放つが、もはや俺の速度に追いつけるはずもない。
魔法使いが何かを詠唱しようとするが、その前に衝撃波に巻き込まれて詠唱が中断される。
さらに、騎馬兵たちの馬が、轟音と衝撃波に驚き、パニックを起こして暴れ始めた。
「う、馬が! 制御できない!」
「落とされる!」
統率を失った騎馬隊は互いにぶつかり合い、落馬する者が続出する。
後方にいた荷馬車も衝撃で次々と横転し、戦線は完全に崩壊、大混乱に陥っていた。
「卑怯者め!! まともに戦え!!!」
指揮官が怒り狂いながら叫んでいるのが聞こえる。
だが、どうすることもできないだろう。
俺に傷一つつけられず、逆にこちらの起こす衝撃波だけで部隊が壊滅していくのだから。
やがて、生き残った兵士たちは完全に戦意を喪失し、震えながら俺を見上げていた。
「ば、化け物だ……」
「勝てるわけがない……! 逃げろ!」
指揮官はギリッと歯ぎしりしながらも、現実を認めざるを得なかったのだろう。
拳を握りしめ、苦渋の表情で叫んだ。
「……撤退だ!! 全軍、撤退!!」
その号令を合図に、魔王軍の残存兵力は、略奪品も何もかも放置して、蜘蛛の子を散らすように逃げ出していった。
あっという間に、戦場には静寂が戻る。
(勝った)
俺はゆっくりと降下しながら、ほっと息をついた。
思ったより苦戦したが、結果的には圧勝だ。
これで俺のジュースと肉は守られた。
勝利の余韻に浸っていた、その時。
(……ん?)
妙な感覚があった。
風が、やけに肌に直接当たる気がするのだ。
俺はふと、自分の姿を見下ろした。
そして――愕然とした。
(あ)
服がない。
さっきまで着ていたはずの、王宮で用意されたばかりの美しいドレスも、騎士にもらったマントも、跡形もなく消え去っていた。
おそらく、先ほどの超高速飛行による猛烈な風圧で、全て吹き飛んでしまったのだろう。
つまり、今の俺は――
「全裸じゃん俺!!!!!」
俺はその場で頭を抱え、羞恥と焦りでしゃがみ込んだ。
ヤバい。
これはヤバい。
戦闘に勝ったのはいいが、この格好はまずすぎる。
戦場だから今は誰も気にしていないかもしれないが、このままの姿で生き残った防衛隊の兵士たちや、ましてや村人なんかに会ったら、とんでもないことになる。
変態ドラゴン姫(♂)として噂が広まるかもしれない!
(どうする!? なんか布! 落ちてるマントとか、ボロ布でもいいから何か着るものを!)
必死で周囲を見回すが、都合よく服や布が落ちているはずもない。
焦れば焦るほど、どうしようもない状況に絶望感が募る。
途方に暮れて、うずくまっていた、その時。
ドドドドド……!
遠くから、必死な馬蹄の音が聞こえてきた。
それも一騎だけ。
顔を上げると、地平線の向こうから、見覚えのある騎士がこちらに向かってくるのが見えた。
「姫様ーーー!!!!」
その声は、騎士団長レオナルドのものだった。
彼が乗っている愛馬は泡を吹き、限界ギリギリの様子だ。
レオナルド自身も鎧は汚れ、息も絶え絶え。
おそらく、俺が飛び出した後、必死で追いかけてきたのだろう。
人間としては驚異的な速さだが、それでも俺の飛行速度には遠く及ばなかったはずだ。
「はぁ……はぁ……姫様……ご無事……では、ないようですね……」
ようやく俺のそばまでたどり着いたレオナルドは、馬上で肩で息をしながら、俺の全裸姿を見て絶句した。
その顔には疲労と、若干の呆れの色が見て取れる。
彼はそれでも騎士としての務めを果たそうと、震える手で鞍に括り付けていた包みを差し出した。
「お、王女様より……お届けものです……。もしもの時のためにと……予備のドレスを……」
「おお!! レオナルド! あんた最高だ!! 助かる!!!」
俺は涙目でその包みを受け取った。
まさに地獄に仏、いや、全裸にドレスだ!
レオナルドとその愛馬の、限界を超えた頑張りに感心しつつ、俺は彼が見ている前で着替えるわけにもいかず、少し離れた岩陰へと駆け出した。
「……姫様、こちらでお着替えを……いや、もう何も申しません……ごゆっくり……」
レオナルドは何か言いかけて、力尽きたように馬上からずり落ちそうになりながら、静かに目を伏せた。
こうして、俺の初めての(?)本格的な空中戦は、想定外の苦戦と、さらに想定外の全裸という結末を迎え、とりあえずは勝利に終わった。
……代償は、ドレス一着と、レオナルドの体力だった。