巨大ウサギ肉のバーベキューは、まあまあ美味かった。
住民たちも喜んでいたし、結果オーライだろう。
だが、やはり俺の舌は、王宮の洗練された料理の味を忘れられない。
(やっぱ王宮の飯が一番! あの肉、あのジュース……早く帰りたい!)
俺は後片付けを(主にレオナルドと騎士たち、そして元気を取り戻した住民たちに)任せ、一刻も早く王都へ帰還すべく、翼を広げた。
最短距離で帰るには、やはり空路だ。
今回は服が燃えるようなヘマはしない。
そう決意し、俺は勢いよく大空へと舞い上がった。
「よーし、さっさと王宮に戻るぞ!!!」
ぐんぐんと高度を上げていく。
地上の景色がみるみる小さくなり、眼下には雲海が広がる。
風を切る感覚が心地よく、気分が高揚してくる。
「おおっ、めっちゃ高い! 景色いいな! これが鳥の気持ちかー……いや、ドラゴンの気持ちか?」
調子に乗って、さらに高度を上げていく。
空の色が、鮮やかな青から深い紺碧へ、そして次第に黒みを帯びていく。
空気が薄くなり、気温が急激に下がっていくのを感じる。
だが、不思議と息苦しさも寒さもない。
これがドラゴンの力か、と妙な感心をしていた、その時だった。
ふと、以前の記憶が蘇る。
あの、オークション会場から意図せず空高く跳び上がってしまった時のことだ。
(あれ……? このまま行ったら……)
見上げると、空はもはや漆黒。
星々の輝きが、地上で見るよりも遥かに強く、そして近く感じられる。
美しい。
だが、それと同時に、底知れない恐怖が背筋を這い上がってきた。
(もしかして、このまま宇宙に放り出されたら……どうやって戻るんだ?)
翼は空気がなければ意味がない。
推進力を得る手段も、方向転換する方法も分からない。
永遠にこの冷たい暗闇の中を漂い続けることになるのでは?
考えた瞬間、全身の血の気が引いた。
(や、やば……!!!)
「うおおおお!!! こわいこわいこわい!!! 俺は地上に帰りたい!!!」
パニックに陥った俺は、なりふり構わず必死で翼を動かし、急降下を開始した。
眼下に広がる大地だけを目指して、ただひたすらに落ちていく。
途中、視界の端に何か神々しい光の建造物――天界とかいうやつだったのかもしれない――が映ったような気もしたが、もはや確認する余裕など微塵もなかった。
ただただ、地面が恋しかった。
どれくらいの時間が経ったのか。
ようやく見慣れた王宮の姿が視界に入った時には、俺は完全に涙目になっていた。
「ひぐっ……怖かった……」
鼻をすすりながら、ふらふらとおぼつかない足取りで王宮の中庭近くに着陸する。
精神的な消耗が激しく、立っているのもやっとだった。
そこへ、俺の帰還に気づいたのだろう、王女様が侍女を伴って駆け寄ってきた。
その顔には心配の色が浮かんでいる。
「姫様……!? どうなされたのですか!? そのようなお顔で……何かあったのですか?」
王女様の優しい声を聞いた瞬間、俺の中で何かがプツンと切れた。
理性が吹き飛び、本能がむき出しになる。
「宇宙……こわい……」
俺は、わっと声を上げて王女様に飛びつき、その華奢な体に全力で抱きついた。
(おそとこわい……母さまぁ……)
なぜか、そんな幼児退行したかのような感情が湧き上がってくる。
ドラゴンの本能なのか、あるいはただの精神的ショックなのか。
理由は分からないが、今はただ、この温かくて安心できる存在にすがりつきたかった。
「俺、おうちにひきこもるぅ……」
子供のようにしゃくり上げながら、俺は王女様の胸に顔をうずめた。
王女様は一瞬驚いたようだったが、すぐに優しく俺の背中を撫でてくれた。
「まあ……大変でしたのね。もう大丈夫ですわ。ここは安全なあなたの「おうち」ですから。ゆっくりお休みください」
その声と温もりに包まれて、俺の恐怖心は急速に薄れていく。完全に安心しきった俺は、そのまま侍女たちに支えられながら、王宮の中へと運ばれていった。
気づいたときには、俺はふかふかのベッドの上で、シーツを頭まで被って王女様の膝枕に収まっていた。
「おそとこわい……宇宙こわい……」
ぷるぷると震えながら、時折鼻をすすりつつ、ひたすら王女様に甘え続ける。
王女様は困ったように微笑みながらも、優しく俺の頭を撫で続けてくれた。
(母さまぁ……あったかい……ここにいる……)
やがて俺は、膝枕の心地よさと安心感に身を委ね、深い眠りに落ちていった。
それから数日間、俺は完全に引きこもりモードに突入した。
王女様がそばにいるときは何事もなかったかのように振る舞うが、一人になると途端に空を見上げるのが怖くなり、屋根のある場所を意識的に選んで過ごすようになった。
窓の外を眺めることすら避ける始末だ。
「姫様、すっかりお城に馴染まれましたね……」
「最近、まったく飛び回らなくなりましたわ」
王宮の使用人たちはそんな俺を見て囁き合っていたが、違う! 俺は馴染んでるんじゃなくて、空が怖ぇんだよ!!! と内心で叫ぶ日々だった。
そんな引きこもり生活を送っていたある日、ようやく体調が回復した国王から、謁見の間に来るようにとの呼び出しがかかった。
正直、面倒くさいことこの上ないが、無視するわけにもいかない。
俺は重い足取りで謁見の間へと向かった。
玉座に座る国王は、以前の疲労困憊ぶりはすっかり消え、いつもの威厳を取り戻していた。
だが、その表情はどこか真剣だ。
「竜の姫君。息災そうで何よりだ」
国王はまず、労いの言葉を口にした。
「さて、まずは此度の魔王軍の動きについてだが……対抗するため、我が国は周辺諸国との同盟を強化する必要があると考えている。その一環として、各国との婚姻政策を積極的に進めるつもりだ」
(婚姻政策? 王族や貴族の結婚ってやつか)
俺はぼんやりと話を聞いていた。
「当然、我が娘――王女も、その対象に含まれる」
その言葉に、俺の心臓が妙にざわついた。
(王女様が結婚……? なんか……嫌だな……)
理由は分からないが、もやもやとした感情が胸に広がる。
だが、俺が人間の、それも他国の王族の結婚に口を出すのは筋違いだろう。
俺は黙って話の続きを待った。
国王は一度言葉を切り、今度は少し表情を和らげた。
「それと……悪魔討伐への謝礼と、王女への贈り物への礼が遅れていた件についてだが……」
「おお、それ! 俺に何くれるの?」
報酬の話となれば別だ。
俺は目を輝かせて身を乗り出した。
「うむ。姫君がどのような立場でいるかによって、渡せるものの種類が異なる。爵位や土地を与えるべきか、あるいは持ち運べる財宝か……それとも、そなたの身の回りの世話をするための臣下や従者を渡すべきか……」
国王の提案に、俺はうーんと唸る。
(爵位とか土地とかもらっても、管理とか面倒くさそうだし、絶対投げ出す自信がある。財宝だけもらっても、この世界で何が買えるのかも分からん。人をもらっても、生活費とかどうすんだ? そもそも俺、一人で好き勝手やるのが性に合ってるし……)
「……今のこの快適な生活が、もう最高の報酬ってことでよくね?」
俺が本音を言うと、国王は苦笑した。
それでは王としてのメンツが立たないのだろう。
「まあ、よい。急がずとも良い。何が欲しいか、あるいは必要か、決まったら朕に教えてほしい」
「……おっけー!」
俺はひとまず、この話を保留にすることにした。
そして、国王はもう一つの重大な話を切り出した。
「近いうちに、朕は新たな王妃を迎えることになる」
「ほえ?」
「魔法大国との同盟を強固にするため、正妃として迎え入れるのだ。彼女はかの国の王族であり、強大な魔力の持ち主でもある」
国王がその王妃の名前を告げた瞬間、謁見の間にいた大臣や騎士たちの顔色が変わった。
どよめきと共に、どこか興奮したような、あるいは畏怖したような視線が交錯する。
(なんか、すごい美人で、しかもヤバい人っぽい反応だな)
俺は特に深く考えず、「へー」くらいの気持ちで聞いていた。
なんか白雪姫っぽい王女様と、魔法と、後妻。
どこかで聞いたような組み合わせだが、まあ関係ないだろう。
その時だった。
「陛下! 王妃様が、まもなく王宮にご到着されるとのことです!」
伝令の騎士が駆け込んできて報告した。
(お、噂をすれば。どんな人か、ちょっと見てみたいかも)
俺は少し興味が湧いて、新しい王妃を出迎えるために中庭へと向かうことにした。
そして、王宮の中庭に、まばゆい光と共に一人の女性が降り立った瞬間――俺は、息を呑んだ。
「すっげーーー!!!」
そこにいたのは、明らかにただ者ではない雰囲気を纏った絶世の美女だった。
艶やかな長い黒髪は夜の闇を溶かし込んだようで、滑らかな白い肌は月光のように輝いている。
切れ長の瞳は理知的でありながら妖しい光を宿し、形の良い唇は蠱惑的な微笑みを浮かべていた。
そして何より、その抜群のスタイルを惜しげもなく強調するような、大胆なデザインのドレス。
深いスリットからは滑らかな脚線美が覗き、胸元も大きく開いて豊かな膨らみをアピールしている。
「ゲームに出てくる露出度たけー魔女みたいだ!!! かっこいい!」
俺は思わず目をキラキラさせて、その姿に見惚れてしまった。
憧れ8割、そして元男としての感覚からくる性的な興奮が2割。
そんな感じだろうか。
王女様とは全く違うタイプの、成熟した大人の色香に、俺は完全に魅了されていた。
――後で王女様から「あの時の姫様、ちょっとだけ気持ち悪かったですわ」と真顔で言われて凹むことになるのだが、その時の俺は知る由もない。
しかし、俺以外の周囲の反応は少し違った。
事情を知らない王宮の使用人たちは、俺が新王妃に見惚れている(ように見える)様子を見て、
「まあ、姫様があれほど見惚れていらっしゃるなんて……」
「きっと、美しさだけでなく、素晴らしいお人柄の方なのだろうな……!」
などと囁き合い、新王妃に対する好感度を(勝手に)爆上げしていた。
だが、当の王妃本人は――俺の視線に気づいた瞬間、その美しい顔からサッと血の気が引いた。
驚愕と、それ以上の恐怖の色が、その瞳に浮かんでいる。
(な、なぜ高位竜がここに!? まさか、私の企みがすでに露見しているというの!? そんなはずは……!)
怯え、混乱する新王妃と、キラキラした憧れの目で見つめる俺。
(なんか、思った以上に魔女っぽいな!!! いいぞもっとやれ!)
俺の勘違いと、王妃の恐怖。二つの感情が交錯する、不穏な出会い。
新たな波乱の幕開けを予感させながら、俺はただ、その妖艶な美しさに見入っていた。