「待ちなさい!!!」
凛とした、しかしどこか聞き覚えのある威厳に満ちた声が響いた。
声のした方を見ると、謁見の間の入り口に、一人の神官が立っていた。
見覚えのある顔だ。
以前、国王と一緒に悪魔討伐を手伝ってくれた、あの時の真面目そうなおっちゃん。
だが、纏う法衣は以前よりも格段に豪華になり、その佇まいには疑いようもなく指導者としての風格が備わっていた。
彼が、今やこの国の宗教勢力のトップである「大神官」に昇進していることは、一目で分かった。
(おっちゃん、久しぶり! なんか偉くなったんだな)
俺が内心でそんなことを考えていると、大神官は俺と、俺に剣を突きつけ(たまま固まっている)生意気勇者の間のただならぬ空気を一瞬で察したらしい。
彼は迷うことなく俺に向き直ると、その場で深く、深く頭を下げた。
「竜の姫君。この度は、我が神殿に属する勇者が礼を欠き、王宮にてこのような騒ぎを起こしたこと、心よりお詫び申し上げます」
その謝罪は完璧だった。言葉遣い、声のトーン、頭を下げる角度、どれをとっても非の打ち所がない。
下手な貴族の謝罪よりも、よほど真摯さが伝わってくる。
(ほほう、やるじゃないか。この国の貴族よりよっぽど礼儀をわきまえてるな)
俺の中のドラゴンの本能的な何かが、彼の完璧な作法に妙な感心を覚えるほどだった。
しかし、そんな大神官の態度に、生意気勇者が慌てて振り返った。
「お、おい!! 神官様! なんであなたが謝るんだよ!? 悪いのはこいつだろ! この国を乗っ取ろうとしてる邪竜なんだぞ! 神殿を騙してるんだ!」
まだそんなことを言っている。
まったく、この勇者は見かけによらず(?)頑固で、思い込みが激しい。
だが、勇者が大神官に気を取られ、俺への警戒が一瞬解けた、その隙を見逃す俺ではなかった。
「よし、確保っと」
俺は素早く動き、空気も読まずに生意気勇者の背後に回り込むと、その両腕を背中側でがっちりと掴み、動きを完全に封じた。
「なっ!? ちょ、おま――!? いきなり何すんだ! 離せぇぇぇ!!」
勇者が必死に抵抗し、暴れる。
だが、竜である俺の力の前では、赤子の手をひねるようなものだ。
俺は抵抗する勇者が持っていた剣を軽くひったくると、「ほらよ」と近くで呆気に取られていた騎士にポイと投げ渡した。
そして、最後に――。
パァン!!!
静かな謁見の間に、やけに乾いた音が響き渡った。
俺は、勇者の尻――短パンの上からではあるが――を、傷が残らない程度の力加減で、しかし結構な勢いで、思いっきり平手打ちしてやったのだ。
「い、いだぁぁぁぁぁっ!!!」
勇者が、素っ頓狂な、そして非常に情けない悲鳴を上げて飛び跳ねた。
顔は羞恥と痛みで真っ赤になり、目には涙が浮かんでいる。
俺はそれを見て、ニヤリと笑った。
(ふん、少しは反省したか? 人の話も聞かずにいきなり襲いかかってきやがって)
その後、騒ぎを聞きつけた王女様もやってきて、ようやく本格的な事情聴取が始まった。
場所を移し、応接室のような部屋で、俺、涙目の生意気勇者、そして大神官が向かい合って座る。
王女様が冷静に仲裁役を務めてくれた。
「それで、勇者殿。改めて事情をお聞かせいただけますか? なぜ姫君を邪竜だと?」
王女様に促され、生意気勇者はまだ少しむくれながらも、しぶしぶと口を開いた。
「……俺……いや、私は、国外で修行をしていたんです。それで最近戻ってきたら、神官様がいきなり『竜の姫君は王国の客人であり、我々が敬意を払うべき存在だ』とか言い出して……」
勇者は俺を睨みつける。
「でも、他の国じゃお前の評判、最悪だったんだぞ!? 街を気まぐれに破壊する邪竜だとか、人間を見下す災厄だとか! だから、神官様が騙されてるんだと思って、助けに来たんだ!」
なるほど。
要するに、早とちりと思い込みで突撃してきた、と。
大神官が静かに、しかし諭すように言葉を添える。
「……おそらく、姫様と我が国の評判を落とし、両者の関係を裂こうとする何者かによる、悪質な情報操作でしょう」
「魔王軍側では姫君を『暴君』として吹聴し、魔王軍と敵対する同盟側でも『制御不能な危険存在』と見なす声があるのは事実です」
「しかし、それらは姫君の一側面、あるいは誤解に基づいたものに過ぎません」
(ふーん、俺ってそんなふうに言われてんのか)
俺は腕を組んで考える。
(まあ、確かにくしゃみでオークション会場半壊させたり、落下して盗賊のアジト潰したり、超高速飛行で服全部吹っ飛ばしたり、ゴーレム戦でドレス燃やしたり、思い返せばロクなことしてねぇな……。『災厄』ってのは、あながち間違いでもないか?)
妙に納得してしまった。
「で? 俺が邪竜じゃないってことは、もう分かったか?」
俺が尋ねると、勇者はまだ若干不満そうだったが、大神官と王女様の話を聞き、そして目の前の俺(さっき尻を叩かれた恨みは残っているだろうが)を見て、さすがに自分が勘違いしていたことを認めざるを得ないようだった。
「……まあ、分かったわよ……。悪かったわね、いきなり襲いかかったりして」
ぶっきらぼうに、しかし一応謝罪の言葉を口にした。
(よしよし、これで一件落着……か?)
和解(?)ムードが漂い始めた、その時。
俺はふと、素朴な疑問を大神官にぶつけてみた。
「そういえばさ、おっちゃん……いや、大神官。あんたのとこって、どんな神様を祀ってるの? この国で一番偉い神様とかいるのか?」
宗教に関する知識が現代日本の一般常識レベル(つまりほぼゼロ)の俺は、何の悪気もなく、純粋な好奇心から尋ねた。
その瞬間、部屋の空気が再び、ピシリと凍りついた。
王女様も大神官も、一瞬言葉に詰まり、視線を交わしている。
(え? 俺、またなんか地雷踏んだ? もしかして、宗教の話って、異世界では超デリケートな話題だったりするのか!?)
俺が内心で冷や汗をかいていると、大神官は俺の顔を一瞬じっと見つめた後(……なるほど、この方は本当に何もご存じないのだな。ある意味、純粋というか……恐ろしいというか……)とでも言いたげな、複雑な表情を浮かべた。
そして、まるで子供に教え諭すかのように、穏やかな態度で丁寧に説明を始めてくれた。
「現在、この国の宗教は表向き一つに統一されておりますが……その歴史は複雑でして」
「水面下では、どの神を主神として崇めるかで、いくつかの派閥に分かれて争ってきた過去がございます。魔王との長きにわたる戦いがあるため、現在は表立った争いは避けられておりますが……」
大神官は言葉を選ぶように続ける。
「ちなみに、私が属する組織、そしてこの王国で特に古くから厚く信仰を集めているのは、万物を育む大地と、豊かな恵みをもたらす豊穣を司る『地母神』様でございます」
(地母神? 大地の女神か……)
その言葉を聞いた瞬間、俺の頭の中で、とんでもない勘違いと、それに基づく壮大な感謝の念がスパークした。
(地! 地面! 地面といえば……重力だ! そうか! 俺があの時、宇宙に飛び出さずに地上に戻ってこれたのは、この地母神様が、その偉大な力、すなわち重力で俺を引っ張ってくれていたおかげなんだ!)
完全に間違った解釈だが、俺の中ではそれが真実となった。
あの時の恐怖体験が、地母神への絶大な信仰心(?)へと昇華されたのだ。
「マジか! 地母神様! 超ありがてぇ!! 俺、あの地母神様にめっちゃ感謝してるんだよ! 重力がなかったら俺、今頃宇宙の塵になってたかもしれねぇ! いやマジで!」
俺は興奮して立ち上がった。
「よし! 俺、今すぐその地母神様の神殿に行って、最大限のお礼と、今後の重力への熱い期待を伝えてくる!!」
そう宣言する俺を見て、王女様は「まあ……」と少し複雑そうな顔をしている。
大神官は「おお、それは素晴らしい!」と嬉しそうに微笑んでいる。
そして生意気勇者は、「(自分の父親が、よその子を異常に可愛がっているのを見るような)なんだかなぁ……」という、非常に微妙な表情を浮かべていた。
俺はそんな三人の反応など気にせず、大神官に神殿の場所を聞き出すと、すぐさま王宮を飛び出した。
地母神を祀る神殿は、王宮からさほど遠くない場所に、荘厳な姿で建っていた。
俺は神殿に到着するなり、他の参拝客(俺の姿を見て腰を抜かしていたが)を押し退けるようにして、巨大な地母神像の前に進み出て、勢いよくひざまずいた。
「地母神様! いつも重力をありがとうございます!」
俺は心の底からの感謝を込めて、真剣に祈りを捧げ始めた。
「戦って死ぬイメージは全く浮かばないけど、速度出しすぎて宇宙に飛び出すイメージならいくらでも浮かんでくるんです!」
「だから重力マジ大事! 今後の重力もマジでよろしくお願いします! 俺のことなんか、もっともっと重くしてくれても全然構いませんので!!」
(おそらこわい……じめんがんばって……!)
俺の中のドラゴンの本能(?)も、全力で地面への感謝と応援の念を送っている。
その、あまりにも純粋で、強烈で、そして根本的に間違っている祈りの力は、俺自身の持つ神竜としての規格外の素質と共鳴し、天界にいる本物の地母神の権能に、予期せぬ影響を与え始めていた。
俺の体が、淡く、しかし神々しい光にゆっくりと包まれていく。
「おお……姫様が……なんという神々しいお姿に……!」
後から追いついてきた大神官が、畏敬の念に打たれて震える声で呟く。
(お? なんか光ってるな。地母神様が俺の祈りを聞き入れてくれたのかな? やっぱいい神様じゃん!)
俺自身は、そんな呑気なことを考えていた。
しかし、この瞬間、俺の存在そのものが変質し、種族が『ドラゴン』から『神竜(見習い)』へと、無自覚のうちに進化を遂げていたのだ。
――その事実に気づいているのは、はるか天界で「え? なんで重力担当じゃない私に、こんな重力関連の力が流れ込んでくるの!? ていうかこの祈り、なんか方向性おかしくない!?」と、一人で混乱と困惑の極みに達していた地母神、ただ一人だけであった。