神殿の扉をくぐり、外に出ようとした、その時だった。
「……あれ?」
背後から、微かな呻き声が聞こえた。
振り返ると、そこに立っていたのは――
「……勇者?」
さっきまで、あんなに元気そうだった生意気勇者が、今にも倒れそうな様子で、壁に手をついていた。
その顔は青ざめ、額には脂汗が滲んでいる。
「おい、どうした? どこか悪いのか?」
俺が駆け寄ると、彼女は苦しげに顔を上げた。
「……っ、別に、何でもないわよ。ちょっと、立ちくらみがしただけ……」
「嘘つけ! 全然顔色悪ぃぞ!」
俺がそう言うと、彼女はますます顔を歪めた。
「……っさい! だから、何でもないって言ってんでしょ!」
「……」
明らかに、何かを隠している。
だが、彼女が言いたくないことを無理に聞き出す趣味は、俺にはない。
「……まあ、言いたくねぇなら、別にいいけど」
俺がそう言うと、彼女は少しだけホッとしたような顔をした。
「……ありがと」
そして、すぐにいつもの強気な表情を取り繕う。
「それより、早く行くわよ! こんなところでぐずぐずしてたら、日が暮れちゃうわ!」
「はいはい」
俺は、彼女を気遣いつつも、足並みをそろえて歩き出した。
神殿からの帰り道。
いつもなら、軽口を叩き合いながら歩く俺たちだが、今日は、どちらも口数が少なかった。
俺は、さっきから、何度も彼女の横顔を盗み見ている。
(……やっぱ、なんか変だ)
彼女の様子は、どう見ても普通じゃない。
時折、体がふらつくように見えるし、呼吸も荒い。
さっきから、何度も、自分の胸元を押さえているのも気になる。
(……もしかして、あの剣のせいか?)
脳裏に、あの禍々しい魔剣の姿が浮かぶ。
そして、その剣が、神剣へと姿を変えた時の、あの異様な光景。
(……まさか、あの剣、こんな形で勇者に影響を及ぼしてるとか……?)
不安が胸をよぎる。
だが、それを口に出すのは、何故かためらわれた。
そんな俺の様子に気づいたのか、彼女が、少しだけ声を潜めて言った。
「……ねえ」
「ん?」
「……あの剣、もしかしたら、ちょっと、ヤバいかもしれない」
「……やっぱり、そう思うか?」
俺が尋ねると、彼女は小さく頷いた。
「ええ。……なんていうか、あれを持つようになってから、体の中を、熱くて、強い何かが駆け巡ってるような感じがするの」
「熱くて、強い何か?」
「ええ。……最初は、それがすごく心地よかったの。力が湧き上がってくるみたいで、何でもできる気がした。……でも、今は……」
彼女は言葉を切り、自分の胸元をぎゅっと握りしめた。
その表情は、苦悶に歪んでいる。
「今は、時々、それが暴走しそうになるの。まるで、私の体を乗っ取ろうとしてるみたいに……」
「……!」
俺は息を呑んだ。
まさか、あの剣に、そんな危険な力が秘められていたとは。
「……もしかしたら、あの剣は、あんたの力を引き出す代わりに、何かを奪ってるのかもしれない」
俺がそう言うと、彼女は自嘲気味に笑った。
「ふふっ、まさか。……私が何かを奪われるなんて、ありえないわ。私は、最強の勇者なんだから」
「……強がるなよ」
「強がってなんかないわよ! 私は、ただ……」
彼女は、言いかけて言葉を詰まらせた。
そして、俯き、小さな声で呟いた。
「……ただ、少しだけ、不安なだけ……」
その声は、震えていた。
俺は、初めて見る彼女の弱さに、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。
(……こいつ、こんな顔もするんだな)
いつも強気で、生意気で、俺を挑発してくるような彼女。
そんな彼女が、今、目の前で、震えている。
その事実が、俺の心を、妙にざわつかせた。
「……そっか」
俺は、彼女の隣に立ち、そっと肩を抱き寄せた。
「……大丈夫だ。俺がついてる」
「……っ……ありがと」
彼女は、小さく呟き、俺の服の裾を、ぎゅっと握りしめた。
その時、ふと、脳裏に地母神様の言葉が蘇った。
『……あんたの力は、強すぎる。下手をすれば、守りたいものを、うっかり壊してしまうかもしれない……』
(……まさか、地母神様は、このことを……?)
様々な疑問が頭を駆け巡る。
だが、今は、そんなことを考えている場合じゃない。
俺は、目の前の、震える小さな勇者を、そっと抱きしめた。
「……大丈夫だ。俺が、絶対、お前を守る」
「……うん」
彼女は、俺の胸に顔を埋め、小さく頷いた。
その時、俺は、初めて気づいた。
彼女の体温が、いつもより、少しだけ高いことに。
「……地母神様に、聞いてみるか」
俺は、呟くように言った。
「え?」
「あの剣のこと。……地母神様なら、何か知ってるかもしれないだろ?」
「……そうね。そうしましょう」
彼女は、俺の腕の中から顔を上げ、少しだけ、いつもの元気を取り戻したようだった。
俺たちは、再び、神殿へと足を向けた。
夕暮れの光が、神殿を赤く染めている。
その荘厳な姿は、まるで、これから起こるであろう嵐の前の静けさのようだった。
俺たちは、無言で、神殿の巨大な扉の前に立つ。
そして――
「……地母神様! ちょっといいですか!?」
俺は、扉に向かって、大声で叫んだ。
ギィィ……という重々しい音と共に、扉が開かれる。
中から現れたのは、以前と変わらない、フランクで、どこか気の抜けたような地母神様だった。
「やあ、いらっしゃい。……って、あれ? どうしたの? そんなに慌てて」
「……これ、見てくれ!」
俺は、地母神様に、あの神剣を突きつけた。
「一体何なんだよ、この剣は!?」
「……あら、それはまた、随分とご立派な剣ねぇ」
地母神様は、目を丸くして、剣をまじまじと見つめた。
「……って、そういうこと聞いてんじゃねぇよ! こいつ、なんかヤベェんだよ! 勇者の体の中で、暴走しそうになってる!」
俺が叫ぶと、地母神様は、少しだけ、真剣な表情になった。
「……ちょっと、見せてみなさい」
彼女は、俺の手から剣を受け取ると、その刃先を、そっと指先でなぞった。
その瞬間、彼女の体が、微かに震えた――気がした。
「……やっぱり」
女神様は、小さく呟いた。
「……やっぱりって、何だよ?」
「……この剣、元は魔剣ね。でも、あんたの力で、相殺されてるみたいね。……むしろ、あんたとの相性は、抜群に良い、って言えるかも」
「……俺と?」
「ええ。……あんたの力は、この世界を構成するエネルギーと、よく似てるの。……だから、魔剣の呪いを中和し、逆に、その力を引き出してる、ってわけ」
「……ふぅん?」
言われている意味はよく分からなかったが、とにかく、俺とこの剣は、相性が良いらしい。
それは、なんとなく、分かった。
だが、それと、勇者の異変とは、一体何の関係があるのだろうか?
「……じゃあ、勇者のアレは、一体何なんだよ? なんであんなに苦しそうなんだ?」
俺がそう尋ねると、女神様は、少しだけ、言い淀んだ。
そして、重い口を開く。
「……それはね、その子(生意気勇者)が、あんたに『異動』したからよ」
「……は?」
移動……異動!?
「……どういうことだよ?」
「そのままの意味よ。勇者は、神に選ばれ、力を与えられた存在。2重に力を受け取るのは無理なの」
地母神様が俺と生意気勇者を交互に見る。
「籍だけこっち(地母神)に残ってるからおかしな感じになってるのね。えーっと、はいこれでよし」
生意気勇者は混乱したまま、顔色が急に良くなっていく。
「……どういうこと?」
俺は訳が分からないまま説明を求める。
「つまり、勇者は、あんたの……従者になったってこと」
「……」
俺は、目の前の女神の言葉を、なかなか理解することができなかった。
「……ちょ、ちょっと待て! それって、マジで言ってんのか!? そんなこと、一言も聞いてねぇぞ!」
俺が叫ぶと、地母神様は、悪びれもなく肩をすくめた。
「あら、言わなかったかしら? まあ、細かいことは気にしない気にしない」
「細かいことじゃねぇだろ! 大問題だろ!」
「ふふっ、まあ、落ち着きなさいって。……勇者は、あんたの初めての従者。……あんたも、勇者を、大事にしてあげなさい」
「……」
俺は、言葉を失った。
地母神様の言葉は、あまりにも唐突で、そして、重すぎた。
「……ま、そういうこと。……じゃあ、私はこれで」
地母神様は、ひらひらと手を振り、光の中に消えて……何故か慌てた様子で戻ってきた。
神剣に向けた目つきは別人のように厳しくて、俺は思わず唾を飲み込んでいた。