ギィィ……と不快な金属音が響き、淀んだ邪気が中から溢れ出してくる。
息を止め、警戒しながら内部へと足を踏み入れると、そこは想像以上に広く、そして……陰惨な空間だった。
巨大なドーム状の天井は高く、壁には脈打つ血管のような不気味な紋様が刻まれ、床には干からびた血痕のようなシミが無数に広がっている。
空気は重く冷たく、腐臭と、魂がすり減るような負のオーラが満ち満ちていた。
まるで巨大な生物の体内か、あるいは地獄の一丁目に迷い込んだかのようだ。
「ここが……」
生意気勇者が息を呑む。
その声は微かに震えていた。
無理もない。
この空間にいるだけで、精神力がゴリゴリ削られていくような感覚がある。
広間の壁際には、おびただしい数の檻が並べられていた。
鉄格子で作られた粗末なものから、禍々しい光を放つ結界で閉ざされたものまで様々だ。
そして、その檻の一つ一つに、力なく横たわったり、虚ろな目で壁を見つめたりしている、人間やエルフたちの姿があった。
「ああ……!」
エリアーヌ姫が、悲痛な声を上げる。
彼らの多くは、かつて地上で勇者や聖女と呼ばれた者たちなのだろう。
だが、今はその面影もなく、ボロボロの衣服を纏い、その体には痛々しい拷問や、悍(おぞ)ましい人体実験の痕跡すら見える者もいる。
長い年月、この絶望的な場所で囚われ、希望を打ち砕かれ続けてきたのだ。
俺たちが助けに来たことに気づいても、彼らの瞳に光が戻ることはなかった。
「酷い……あまりにも酷すぎる……!」
美ショタ勇者が、怒りと悲しみで拳を握りしめる。
レオナルドも、同行してきた魔法使いたちも、言葉を失い、ただ目の前の惨状に唇を噛み締めていた。
そんな中、エリアーヌ姫が、何かに導かれるように広間の奥へと駆け出した。
彼女の持つペンダントが、これまでで最も強く、激しい翠色の光を放っている。
「姫様!?」
俺たちが慌てて後を追うと、彼女は広間の最奥、ひときわ厳重な、紫色の結界が張られた水晶のような檻の前で立ち止まった。
その檻の中には、一人のエルフの女性が静かに座っていた。
長い銀髪は色褪せ、その身を包む衣服も擦り切れているが、それでもなお、気高く、美しい雰囲気を失っていない。
ただ、その表情は深くやつれ、瞳は固く閉じられている。
「リリアーナ様……! ああ、リリアーナ様……!」
エリアーヌ姫は、涙ながらに檻に駆け寄り、結界に手を伸ばす。
しかし、バチッ!と紫色の火花が散り、彼女の手は弾き返されてしまった。
「くっ……!」
その声に気づいたのか、檻の中のエルフ――リリアーナが、ゆっくりと顔を上げた。
長いまつ毛が震え、翠色の瞳が薄く開かれる。
その瞳は、長い間の消耗で光を失いかけていたが、目の前のエリアーヌ姫の姿を捉えた瞬間、一瞬だけ、驚きと、懐かしさと、そして深い悲しみが入り混じったような、複雑な色が宿った。
だが、それもほんの一瞬。
彼女は再び力なく目を閉じ、動かなくなってしまった。
「リリアーナ様! しっかりしてください!」
エリアーヌ姫が必死に呼びかけるが、反応はない。
「ククク……」
その時、広間の奥から、粘つくような、嘲るような笑い声が響いた。
見ると、広間の最奥に設(しつら)えられた、骨と黒曜石でできた禍々しい玉座のような場所に、一体の巨大な悪魔が悠然と座っていた。
そいつが、この「牢獄」の主か。
ゆっくりと、悪魔が立ち上がる。
身長は3メートルを優に超え、全身は黒光りする鋼のような甲殻で覆われている。
背中には巨大な蝙蝠(こうもり)のような翼が広がり、頭部には捻じくれた山羊のような角。
そして何より異様なのは、その胴体から伸びる、おびただしい数の腕だった。
ざっと数えても十数本、いや、もっとあるかもしれない。
それぞれの腕には、血に濡れた巨大な戦斧、鋭い鉤爪(かぎづめ)がついたガントレット、蛇のようにしなる呪いの鞭、そして不気味な輝きを放つ髑髏(どくろ)の杖などが握られている。
燃えるような赤い双眸(そうぼう)が、俺たちを値踏みするように見据えていた。
底知れない悪意と、獲物を見つけたかのような愉悦の色を浮かべて。
「ようやく辿り着いたか、哀れな虫けらどもよ。わざわざ死に場所を探しに来るとは、ご苦労なことだ」
悪魔は、その多腕をゆっくりと動かしながら、低い、響くような声で言った。
「貴様が、囚われた英雄たちを……!」
レオナルドが、怒りに声を震わせ、大剣を構える。
「いかにも。我はこの城塞の主、百腕のザルゴス。魔王様に仇なす愚かな英雄どもを、ここで嬲(なぶ)り殺しにし、その魂と力を我が糧とすることこそ、我が喜びよ」
ザルゴスはそう言うと、腕の一本で檻の中のリリアーナを示した。
「特にそこのエルフなどは、極上の逸品だ。かつては生意気な勇者だったらしいがな。永きに渡り抵抗し続けたその気高い魂も、今や我が玩具(おもちゃ)同然よ。クハハハ!」
下卑た笑い声が、広間に響き渡る。
「リリアーナ様を……エルフの誇りを弄びおって!」
エリアーヌ姫が、涙を拭い、怒りに燃える瞳でザルゴスを睨みつける。
「あなたのような存在、わたくしが浄化します!」
彼女は杖を構え、弱まった精霊の力を振り絞る。
「ふざけたこと言ってんじゃないわよ!」
生意気勇者も神剣を構え、切っ先をザルゴスに向ける。
「その汚い腕、全部切り落として、あんたをここから叩き出してやる!」
「僕だって……戦います!」
美ショタ勇者も、恐怖を振り払い、震える足で一歩前に出る。
俺たちの怒りと決意を感じ取ったのか、ザルゴスは心底楽しそうに笑みを深めた。
「クハハハ! 威勢だけは良い! 気概やよし! では、その矮小(わいしょう)な希望ごと、まとめて叩き潰してくれるわ!」
ザルゴスが複数の腕を一斉に振りかざした! 戦闘開始だ!
「はあっ!」
「せいっ!」
レオナルドと生意気勇者が同時に斬りかかる! しかし、ザルゴスは戦斧の腕と鉤爪の腕で軽々と二人の攻撃を受け止め、さらに別の腕から呪いの鞭をしならせて反撃してくる!
「ぐっ!」
「きゃっ!」
二人は咄嗟に回避するが、鞭の先端が鎧を掠め、火花が散る!
「光よ!」
エリアーヌ姫が光の矢を放つが、ザルゴスは髑髏の杖をかざし、闇の障壁で容易く防ぐ!
「無駄だ、小娘! この魔界において、精霊の力など無力!」
「くそっ!」
俺も突進し、ザルゴスの胴体めがけて拳を叩き込む! 手応えはあったが、硬い甲殻に阻まれ、致命傷には程遠い!
「フン、神竜とてこの程度か!」
ザルゴスは複数の腕で俺を掴もうとしてくる!
俺はそれを素早く回避し、距離を取る。
強い! こいつ、マジで強いぞ!
多腕による同時攻撃と防御、そして強力な魔法。
隙がほとんどない!
「僕だって!」
美ショタ勇者が、ザルゴスの死角から剣を突き出す!
だが、ザルゴスは背後の腕でそれを掴み取り、そのまま彼を壁に向かって投げ飛ばした!
「がはっ!」
美ショタ勇者が壁に叩きつけられ、ぐったりとその場に崩れ落ちる!
「ははは! どうした、どうした! もう終わりか、虫けらども!」
ザルゴスは余裕綽々で高笑いを続ける。
俺たちは明らかに押されていた。
このままじゃジリ貧だ。
「くっ……!」
生意気勇者が歯を食いしばり、神剣に更なる力を込めようとする。
レオナルドも、深手を負いながらも、必死に前線を支えている。
その時だった。
ザルゴスが、嘲るようにエリアーヌ姫の目の前にある、リリアーナが囚われた檻に向かって、呪いの鞭を振り上げた!
「まずは、その大事な祖先から、目の前で嬲り殺してやろう!」
「やめてぇぇぇ!!」
エリアーヌ姫が絶叫した、その瞬間――!
彼女の首にかけられたペンダントが、これまでとは比較にならないほど眩い、翠色の光を放った!
ドクンッ!
まるで心臓が脈打つかのように、ペンダントから強大な精霊の力が溢れ出し、エリアーヌ姫の体を包み込む!
彼女の瞳が、強い決意と、そしてどこか古(いにしえ)の力を宿したかのように、鋭く輝く!
「な、なんだこの力は……!? 小娘、貴様……!」
ザルゴスが、その尋常ならざる力の奔流に、一瞬怯んだように後退する!
「祖先の……リリアーナ様の力が、わたくしに……!」
エリアーヌ姫は、自らも驚きながら、しかしその力を制御するように杖を構えた。
彼女の周囲には、緑色の風と光の渦が巻き起こっている!
「これ以上、好きにはさせません! 光よ! 邪悪を打ち払え!!!」
彼女から放たれたのは、もはや弱々しい精霊魔法ではない。
森羅万象の力を凝縮したかのような、巨大な光の奔流! それが、ザルゴスに真正面から直撃した!
「グオオオォォッ!?」
ザルゴスは、その浄化の力に焼かれるように苦悶の叫びを上げ、その巨体を大きく後退させる! 光は同時に、傷ついた仲間たちにも降り注ぎ、その傷を癒し、消耗した魔力をわずかに回復させた!
「今です、皆さん!」
エリアーヌ姫が叫ぶ!
だが、その声は力を使い果たしたかのようにか細く、彼女自身、膝から崩れ落ちそうになるのを必死で堪えていた。
祖先の力を一時的に引き出した代償は、あまりにも大きかったのだ。
「小娘がァァァ!!!」
光の中から現れたザルゴスは、その甲殻の一部が焼け焦げ、複数の腕に傷を負っていた。
しかし、その瞳には、屈辱と、それ以上の激しい怒りと殺意が、狂気のように燃え盛っていた。
「よくもこの私に……! もはや手加減はせん! 貴様ら全員、ここで魂ごと塵にしてくれるわ!!!」
ザルゴスが、これまで以上の邪悪なオーラを全身から放ち、その全ての腕に武器と魔法を構える! まさに絶体絶命! 仲間たちは満身創痍、エリアーヌ姫は戦闘不能!
(くそっ……! やるしかねぇか!)
俺は、ゴクリと喉を鳴らし、目の前の絶望的な状況と、仲間たちの顔を見渡した。
そして――覚悟を決めた。
力のセーブ? 周囲への被害? そんなもん、知るか! 今、ここでやらなきゃ、全員死ぬ!
俺は、百腕の悪魔ザルゴスを真正面から睨みつけ、体中の力を、喉の奥へと集中させ始めた。