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第16話 日常と非日常の境界

「はい、次の討伐報告はこちらへ! 報酬は魔石の大きさと種類で変動しますので、お待ちくださいね!」

「はーい、クエスト依頼書の提出は、こちらの箱に入れておいてくださいね」


 カウンター越しに、次々と書類を捌いていく。

 朝から晩までギルドの中は、怒号と活気に満ちていた。

 焦げた肉と汗臭い男たちの匂いに混じって、インクと古い紙の匂いが鼻腔を刺激する。

 誰もが声を荒げ、食事をかき込み、依頼書をぶつけてくる。


「リリカは相変わらず手際がいいな! 先輩のエレンよりよっぽどだよ!」

 豪快に笑いながら声をかけてくるギルドマスターに、先輩が抗議の声を上げるのが聞こえた。

「マスター、また変なこと言わないでください! リリカさんの才能は素晴らしいですけど、私だって頑張ってます!」


 先輩の困ったような声に、思わず笑みをこぼした。

「ふふ、エレン先輩もマスターも、いつもありがとうございます! 私も、ようやくこの仕事に慣れてきたところなので!」


 確かに、てんてこまいな毎日だ。

 だけど、市役所の窓口で培った事務処理能力と最高の笑顔をフル活用できている。

 忙しいのは大変だけど、この世界で自分の居場所を見つけられた気がして、なんだか充実感があった。


   *


 そんな慌ただしい日々の中、自然と視線が向かってしまう冒険者がいた。

 あの日、粗暴な男から助けてくれた少年だ。

 最近は決まって毎日、ギルドに顔を出すようになっている。


「おい、見たかよ。今日もレイが来たぜ」


 近くで休憩していた冒険者の一人が、隣の男に肘で小突いた。

 そのひそひそ話が耳に届く。

「ああ、また高ランククエストの依頼だろう? こないだの『狂乱のオークキング』も、一人で片付けたんだろ? 本当に化け物かよ」

 別の冒険者が、エールを一口飲んで続ける。

「無駄口一つ叩かねぇのに、仕事だけは速いときたもんだ。ギルドでもあっという間に評判になったな。下手なベテランよりよっぽど頼りになるぜ」

「なんでも、王都でも期待の冒険者……勇者候補らしいぞ?」

「ほんとかよ? あの若さで……」


 カウンターに立ったレイは、無表情で魔石と報告書を差し出した。

 報告書からわずかに視線を上げ、瞳を捉えてくる。その瞬間、胸の奥が、小さくざわつくのを感じた。

 瞳の奥には、どこか深くて、真っ直ぐな光が宿っているように見えた。

 まるで、ずっと昔から知っているような、不思議な感覚が湧き上がってくる。


「あの……レイさん。いつも高ランククエスト依頼、お疲れ様です。本当に、すごいですね」


 精一杯の笑顔で言葉をかけたが、声が少し上ずった。

 クールな佇まいと、滅多に言葉を発しない寡黙さに、正直どう接すればいいのか、まだ掴みきれない。それでも、見ていると、なぜか心が落ち着くのだ。


「あら、リリカ。顔が少し赤いんじゃない?」

「えっ!? そ、そんなことないですよぉ!」


 隣のエレン先輩が、ひそかに顔を覗き込む。私は慌てて顔を背け、首を振った。

 レイはそんなやり取りをじっと見つめていたが、わずかに目を見開き、そして、フッと口角を上げた。

 それは、彼が初めて見せた、本当に微かな笑みだった。


「……ああ」


 短く答えると、再び報告書へと視線を戻す。ペンを握り直し、その小さな笑顔の残像を胸に、作業に集中しようと努めた。

 その時だった。

 レイが、報告書を返しながら、ふと私の頬に視線を向けた。そして、ごく自然な仕草で、指先がすっと伸び、私の頬をかすめた。一瞬の、ひんやりとした感触。

 ……キュンとした。顔が熱くなって真っ赤になった。


「見ただろ? レイが触った途端、あの受付嬢、カッと頬を染めてるぜ」

「まったく、レイ様も罪な男だよな。無意識で、女を落としてやがる」

 休憩スペースにいた冒険者たちが、ひそひそと笑い声をもらすのが耳に届く。


「あ、あの……レイさん、少しだけ待ってね。今、報告書をまとめるから」


 とっさに最高の笑顔を浮かべた。

 市役所にいた頃から、困った時はとりあえず笑顔、と体が覚えている。レイのような寡黙な相手には、事務的な対応だけでなく、少しの気遣いが大切だと感じていた。受付嬢として、彼の望むものにきちんと応えたい。

 てきぱきと書類を捌く間も、カウンターの向こうから視線を感じる。背筋が伸びる。だが、嫌な感じではない。むしろ、不思議な居心地の良さがあった。


「……ああ。別に急ぎはしない」


 声はクールだが、どこか気遣いを感じるような、かすかな優しさが含まれているように聞こえた。その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 報告書を書き上げ、彼の名前が書かれた欄を確認する。「レイ」。シンプルなその文字が、胸にストンと落ちてきた。


「レイさん……」


 そう呼んでみたくて、思わず口に出していた。


「あの……レイさん。今日もありがとうございます……」


 私の言葉に、レイは、先ほど見せた微かな笑みとは異なる、これまで見せたことのないほど、わずかに目を見開いたように見えた。クールな表情は崩さなかったけれど、瞳の奥に、ほんの少しの驚きと、今まで見たことのない、優しい光が宿ったように感じた。


「……ああ」


 短く答えるとカウンターから離れ、テーブル席についた。


          ―― つづく ――

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