日が沈み、今日のクエスト受付も終了……。
「ふあ~……しみる~……」
シチューのスプーンを口に運んで、私はとろけそうな声を漏らした。
「今日の賄い、ちょっと豪華じゃない? パンは焼きたて、シチューは野菜も肉もたっぷり入ってて……これ、牛かな? 異世界牛?」
ひとりでうなずきながら、スプーンをもう一口。とろりとしたルーが舌に絡んで、体の芯まで温まる。
「……って、あれ?」
ふと視線を向けた先、カウンターに座ってるレイさんの姿が目に入った。
「え、うそ。レイさんが、まだ帰ってない……?」
彼が食堂で長居しているのを見るのは初めてだった。しかも、ひとりでエールを飲んでる。横顔は相変わらず綺麗で、まるで彫刻みたいに整ってる。
「レイさんって、お酒飲むんですね?」
思わず声をかけてみると、彼はグラスを傾けたまま、こっちをちらっと見る。
「……まぁ、たまには……、こういうのも、いい」
ぽつりとこぼされたその言葉に、私は思わず笑顔になった。
「へぇ、珍しいですね。てっきり、クエスト終わったらすぐ帰る人だと思ってた」
「……まあ、いつもはそうだ」
彼は短く答えて、エールをまた一口飲む。その仕草が、なんだか気が抜けたようで、ちょっとだけ「人間らしい」感じがして嬉しかった。
「ね、よかったらコレどうぞ。今日のパン、めちゃくちゃ当たりなんですよ」
私は皿の上から、焼きたての丸パンを一つ差し出す。表面は香ばしく、中はふかふか。ギルドの厨房で一番人気のメニューだ。
レイは一瞬、戸惑ったように目を見開いた。でも無言でそれを受け取り、かじる。
「……うまいな」
「でしょ!? 今日のコックさん、本気出してるんですよ。シチューも味がしっかりしてて……あっ、レイさんはスープ派? パン派?」
「……食えるなら、どっちでも」
「……そ、そっか」
そっけないけど、なんか楽しそうに見える……のは、私の気のせい?
――そんな穏やかな時間をかき消すように、奥の方から男たちの笑い声が聞こえてきた。
「おい、そっちの鹿肉、焼きすぎてんぞ! ったく、今日もギリギリで帰ってきたってのに……」
「お前の投げた火球がでかすぎるんだよ、魔物よりビビったわ」
見れば、隅のテーブルで疲れた顔の冒険者たちが、皿を空にしながらジョッキを掲げている。声は大きいが、どこか安堵が混じっていて、日常の喧騒に近い。
「ああいうの見てると、なんだかんだ皆このギルドを拠点にしてるんだなって感じますよね……」
私は自分のスプーンを一度止めて、食堂の全体を見渡した。
窓際では、ひとり静かに食事をとる弓使いの青年が、半分眠そうな目でパンをかじっている。あっちの角では、剣士と僧侶の二人組が地図を広げ、何か明日の予定を話し合っているようだった。
「……この喧騒が、落ち着く」
隣でレイがぽつりとつぶやいた。エールのグラスを手に、どこか遠くを見つめるように。
「ですよね。なんだかんだ、こういうのが『日常』って感じで、安心します」
そんな小さな笑いが浮かびかけた頃。
レイがグラスに残ったエールを飲み干し、ふと、遠い目をしながら呟いた。その声は、ギルドの喧騒に紛れてしまいそうなほど小さかったけれど、なぜか私の耳にははっきりと響いた。
「……最近、街道の奥だけじゃない。森全体で魔物の活性化が著しい。そろそろ、ギルド全体で大規模な討伐隊を組むべき時だろう」
その言葉に、背筋に冷たいものが走った。ギルドが常に忙しいのは、確かに魔物の討伐依頼が多いからだ。だがそれは「日常の範囲」だとばかり思っていた。レイの口から語られる「森全体」「大規模な討伐隊」という言葉は、これまで感じていた漠然とした不安を、具体的な形にして突きつけてくるようだった。
「ふむ、レイよ。珍しく人間らしいことをしておるのう」
奥のテーブルでワインをくゆらせていた小柄な少女――否、齢不詳の魔法使いセラが、杯を掲げながら言った。
「街道の奥だけでなく、森全体で魔物の気配が濃くなっておる、とな?」
「……ああ。ギルドの依頼量が倍増してる。俺たちだけで捌ききれる範囲じゃない」
「まーた、世界の危機かよって話だのう……」
「でも、討伐依頼って、最近は多少多くても『日常』って感じだったじゃないですか? そんなに異常なんですか?」
私はパンをちぎりながら思わずこぼした。
「……魔物の質が変わってきている。単なる個体の強化ではない。群れの統率、攻撃パターン、動きに『知性』が出始めている」
「なぬ。それは……」
セラがワイングラスを机に置く音が、コンッと乾いた音を立てる。
「それは、つまり……古代種か、あるいは……『侵食』?」
レイは何も言わなかった。ただ、視線だけで肯定した。
「……なんか……、関係ないって顔してませんか?」
私がちょっと頬を膨らませて言うと、彼はちらりと目を動かして言った。
「……関係ない。俺がやることは変わらない」
「えぇ……(困惑)、今の流れでその返し!? もうちょっと会話つなげましょうよ!」
思わずツッコミを入れる私をよそに、セラがひとつ、肩をすくめて言う。
「愛想のなさは相変わらずじゃな。だが、貴様がそう言うならば、真偽は我が目で確かめてやろう」
そう言って彼女は再びワインを口に含み、静かに杯を傾けた。
「……ほんとに、ひどい状況なんですね?」
私は震える声で問いかけた。
「――ああ。俺は、この世界の魔物を殲滅する。それが、俺の使命だ」
その言葉に、私はスプーンを握る手を止めた。あの「炎のような瞳」。この人……どこかで……。
彼の顔に、既視感が走る。でも思い出せない。喉元に引っかかる、もどかしい記憶。
私は、テーブルに突っ伏したまま、上目遣いでレイを眺めていた。彼の横顔は、変わらず無表情で、何を考えているのか読み取れない。ただ、その静けさの奥に、不穏な空気が張り詰めているのが、肌で感じられた。
――バァァァン!
「な、なに!?」
ギルドの扉が、勢いよく開け放たれた。まるで、誰かが体当たりでもしたかのような、荒々しい音。吹き荒れる雨風が、ギルドの床に泥をまき散らし、店内に冷気を送り込む。突然の音に、ギルドにいた全員の動きが、ぴたりと止まった。
レイはグラスを置いた。ロリっ子魔法使いも、ワイングラスから目を離し、一瞬、私たちと視線を交わす。互いの瞳が、警戒と、そして予感を語り合った。
その時、奥の事務室から、エレン先輩が顔を覗かせた。
「どうしたの、こんな時間に……!」
そこに立っていたのは、一人の冒険者だった。
全身を返り血と泥で汚し、顔は青ざめ、口からは荒い息が漏れている。片腕は不自然にぶら下がり、見るからに重傷なのが分かった。その瞳は、恐怖に大きく見開かれ、虚ろな光を宿している。
「た、助けてくれ……!」
その冒険者の口から、辛うじて絞り出された悲鳴のような言葉に、ギルドの誰もが息を呑んだ。雷鳴が轟く外の雨音も、その時のギルドの静けさには勝てない。張り詰めた緊張感が、肌をチリチリと刺激する。
「森が……森が、おかしい……あいつらが……っ!」
絶望に染まったその声は、ギルドに張り詰めていた漠然とした不安を、一気に現実の危機として突きつけた。
全身に、冷たい鳥肌が立つ。これは、ただ事じゃない。
ギルド中が凍りつく。
レイは立ち上がり、セラもグラスを置いた。
ギルドの空気が、ピン、と糸が張り詰めるように固まっていた。
―― つづく ――