ぼくは時計が読めない。
その事実を自覚したのは小学生の時だった。
算数の授業でのことだ。
おもちゃの時計をくるくる回しながら、先生の言った時刻に針を合わせていく、そんな簡単なことが、ぼくにはできなかった。
数字がぐにゃりと歪みはじめ、まるであの有名な絵画のように、ぼくの視界はうねりはじめる。まるで遠い世界に放り出されるかのように、ぼくの意識が遠のいていく。針はどんどんと回る速度を早め、ぼくを置いてけぼりにするのだ。
こんな簡単なこともできないんだ。
ぼくは途方に暮れ、そして自分に失望した。
隣の席に座る優一は、とっくに先生の言った時刻に針を合わせ、メガネに息を吹きかけているというのに、ぼくはおもちゃの時計に弄ばれているみたいに、あわあわと手を動かし続けていた。もちろん、正解なんてするはずもなく、ただただ自信を失っていったのだ。
それは今も変わらない。大学の教室の壁にはアナログの時計が掛けられているし、バイト先の居酒屋にだってそれはある。
駅へ行っても公園に行ってもデパートに行っても、そこにあるのはアナログの時計だ。
ぼくは時計を見ないように、なるべく視界に入らないように、いつも下ばかり見ている。
大学に入って二度目の秋がやってこようとしていた。夏の湿っぽいアスファルトの匂いは消えて、涼やかな風が吹きはじめた。ぼくの鼻は敏感にイネ科の植物に反応しはじめて、朝窓を開けると、必ずと言っていいほどくしゃみが止まらなくなる。
今朝もくしゃみを連続で二回、そのあと鼻をかんで、またくしゃみを二回した。そんなことを繰り返しているうちに、朝はあっという間に過ぎていき、部屋に置いてあるデジタル時計がもう8時20分になっている。ぼくはポケットにティッシュを詰め込み、慌てて家を飛び出す。それが最近のぼくのルーティンになっていた。
家を飛び出すぼくに、背後から父の声が飛んでくる。
「気をつけろよ! 無事に帰ってこいよ!」
いつまでも子供扱いされるようで、ぼくはその言葉を毎日スルーしている。
交差点の近くで、キャッシュローンのティッシュを配っている男がいた。気だるそうなその人は、気だるそうにぼくにティッシュを差し出した。
ぼくは道端でポケットティッシュを必ず受け取ることにしている。鼻をかむためというのもあるが、高校時代、ティッシュ配りをしていた経験から、受け取ってあげないといけないと、そう思い込んでいた。
そんなある日のことだ。
バイト先の居酒屋「まんぼうの里」に向かう途中で、ティッシュ配りの女の子を見つけた。交差点の向こうで、多くの人に無視されながら、声を出し続けている。この間見た、気だるそうな男とは大違いだった。
「よろしくお願いします。」
その声は、交差点の反対側のぼくに向けられているのではないかというくらい大きな声だった。
秋にさしかかったとはいえ、日は強く照りつけている。女の子の髪が、明るい色に輝いている。
ぼくは放っておけなくなって、信号が青になるのを待ち、彼女の元へと向かった。そして彼女の配るポケットティッシュを、うつむいたまま静かに受け取った。
ぼくは多分、少し笑みを浮かべていたと思う。人の役に立てたようで、満たされた気持ちになっていた。彼女もこれで少しでも早く、仕事を終われるかもしれない。ぼくはいい気分でバイトに向かえる気がしていた。
「恵斗? 恵斗じゃない?」
「え?」
ぼくはその声に振り返った。そこにいたのは、さっきのティッシュ配りの女の子だった。なぜぼくの名前を知っているのかと、一瞬たじろいだが、すぐにその真っ赤な頬を見て、思い出した。
「花音…?」
その子はにっこりと笑い、
「やっぱりそうだ。久しぶり」
そう、静かに言った。さっきまでの威勢のいい声とは違って、秋に似合う、カサついた声だった。