花音の枯れた声に振り向いたぼくは、花音の頭のてっぺんから足の先まで、一瞬にして見た。小学生の頃と変わらない丸い顔が、紺色のスカートスーツの上にある。キャッシングローンのティッシュが入ったカゴを持ち、少し恥ずかしそうに口を開いた。
「似合ってないでしょ」
「そんなことない」その一言が出てこなかった。ぼくは花音の黒いパンプスを見たまま、口籠った。
「本当は大学行ってたはずだったんだけどね、わたし、親とうまくいかなくて、家、飛び出しちゃったんだよね」
「そうだったんだ」
「うん」
ぼくたちの間に、涼しい風が吹いた。
「でも、よくぼくだって気づいたね」
「うん。だって、うつむいた横顔、見慣れてたから」
「そっか」
「恵斗、全然変わってないね」
「自分ではわからないけど」
「変わってない」
僕たちの間に、また風が吹く。
僕たちは黙ったまま、交差点で立ち尽くしていた。車の行き交う音が耳についた。
重い口を開いたのは、花音だった。
「まだ、見つからないんだってね」
「え?」
ぼくは顔を上げる。
「優一」
「あ、うん……」
「わたしこうやってティッシュ配りながら、通り過ぎる人の中にいるんじゃないかって、気づいたら探しちゃってる。優一のことだから、きっとメガネかけてるかなとか、相変わらずシャツはインしてるのかなとか思ったりして。でもさ、思い出すのは子供の頃の優一の姿なんだよね」
「うん……」
ぼくの中でも同じだ。優一は、10歳のままの姿だ。切り揃えた前髪にメガネ、ボタンダウンのシャツをズボンの中に入れ、茶色いベルトを締めている。それがぼくの見た優一の最後の姿だから。
「もうすぐ10年だって。早いよね」
「うん」
「望みだけは捨てないでいるんだ、わたし」
「ぼくもだよ。優一はどこかで生きてる、そう信じてる」
ぼくは声を絞り出した。
優一の話をしたのも久しぶりのことだ。家でももう、その話は出なくなった。忘れたわけではない。思い出すのもつらければ、思い出せるものが少なくなってきていることもまた、つらかったからだ。
「話すの嫌?」
花音がぼくの顔を覗き込む。
「そんなことないよ」
きっと花音もつらい。ぼくにはわかる。
優一が姿を消した夜、最後にその姿を見たのは、ぼくとぼくの父親、そして花音だったからだ。
「わたし、この街出ようと思ったんだよ? でも、離れられなかった」
花音は低い声でそう言った。
ぼくも同じだ。出ようと思えば、大学へ進学する時に出られたはずだ。でもこの街に、起き忘れた過去がある。その事実が重くのしかかって動けなかった。
「ねえ、わたしさ、これ配り終わらないと帰れないからさ、夜、また会えないかな。話したいことがたくさん、たくさん溜まってるんだよね」
「ぼくもだ」
ぼくは間髪入れずにそう答えた。
「あ、でも居酒屋のバイトが終わるの遅いんだ。明日、空いてない?」
「明日、夜の7時なら」
「うん。7時、7時に会おう」
そうして僕たちはLINEを交換した。花音からのひとこと目はこうだった。
(会えて嬉しかった)
ぼくは迷わず返した。
(ぼくもだよ)
そしてぼくはバイト先へと向かい歩き始めた。背後からまたあの威勢のいい声が聞こえてきた。
「よろしくお願いします」
ぼくは少し歩いて振り返る。花音の姿は小さくなって、紺色の影に変わっていた。
時間が経ち過ぎた気がする。僕たちだけが大人になり、優一のことを置き去りにした気分だ。だけど毎日は流れていく。一日一日が過ぎて過去になっていく。それがこんなに苦しいことだなんて、子供の頃は考えもしなかった。
優一のことを、また語りたい。語らなければならない。そう思った。
ぼくはバイトへ行く前に、スマホのカレンダーに予定を書き込んだ。
(花音と会う)
その一文が、とてつもなく大きな未来に思えた。