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第3話 優一のこと

花音と別れたあと、バイトへと向かう。居酒屋「まんぼうの里」は、表通りから路地に入ったところにある、小さな居酒屋だ。店長の安川さんと、バイトのぼく、二人きりでやっている。本当はバイトなんて必要ないのではないかと思うほど、安川さんは手際よく仕事をこなしていく。注文を受け、料理を作り、配膳し、洗い物を隙間にする。ただぼくは、言われるままに、その手伝いをしている感じだ。いや、むしろ足を引っ張っているのではないかと思う。それでも安川さんは、父の昔からの友達ということもあり、ぼくを雇い入れてくれた。少し外の世界を知った方がいいというのが理由だったらしい。

ぼくは「まんぼうの里」と書かれた暖簾を出した。すぐに客がやってきた。あっという間に、20席ほどの小さな居酒屋は満員になった。

ぼくは二十歳になったとはいえ、酒の匂いにはどうも慣れることができない。酒を呑み声が大きくなる人も、涙もろくなる人も苦手だ。ぼくは客の相手をあまりしたくないというのが本音だった。キッチンで料理の盛り付けをしたり、洗い物をしている方が幾分か気が楽だった。

だけど今日はそれさえもままならない。頭の中は花音と再会したことの喜びと、再会したことで甦った過去の記憶でいっぱいになっていたからだ。


「おい、心ここに在らず、だな」


安川さんがキッチンですれ違いざま呟いた。


「え?」


安川さんはぼくの顔を見てフッと笑った。

安川さんは子供の頃からの知り合いだが、一度も怒っているのを見たことがない。


「彼女でもできたか」

「違います!」


思わず大きな声が出た。花音は彼女でもなんでもない。ただ、分かり合える大切な人なのだ。

安川さんは笑いながら言う。


「ムキになるな。そんなことわかってるよ」

「え?」

「彼女なら、そんな浮かない顔はしない」

「あぁ……」

「いつでも聞いてやるから、今は仕事をするんだな」

「はい……」


ふと見ると、シンクに洗い物が溜まっていた。ぼくは丸い皿をぐるぐるとこすり洗っていく。自分でもわかるくらいに、うわの空だ。次々と皿が溜まっていく。泡がはねてぼくのTシャツを濡らしても、気にならなかった。ぼくの頭の中は、優一のことでいっぱいだったからだ。


優一。中務優一。

10歳の姿のままの優一がチラついて、優一の透き通った声が耳に響き、ぼくは苦しくなった。


家に帰り着いたのは、午前1時過ぎだった。親父はまだ起きていた。ぼくが玄関を静かに開けると、部屋からぬっと顔を出し、


「おかえり」


そう言った。ぼくは小さく「ただいま」と返し、自分の部屋へと入った。

暗い部屋にデジタル時計が緑色に光っている。ぼくは風呂にも入らす、ベッドに寝転んだ。


中務優一。

10歳だった優一。勉強が得意で、いつも問題を早く解いてはメガネに息を吹きかけていたっけ。そしてハンカチで磨いていたっけ。時計の授業の時、おもちゃの時計に手こずっていたぼくを馬鹿にするクラスメイトとは違って、ぼくの隣で、ぼくに見えるように時計の針を動かし、


「真似るといいよ」


とひとこと声をかけてくれたっけ。

ぼくは優しかった優一の姿に、思わず涙が出た。ぼくは大切な友人を、多分失ったのだ。多分。


「時計、苦手なの?」

「うん」


上り棒の裏側で僕らはよく話した。


「そっか。ぼくはのぼり棒が苦手だ」


そう言って、優一はのぼり棒に手をかけた。そして棒に細い足を絡め、登り始めたが、すぐにストンと落ちてしまう。何度かそれを繰り返し、


「ほらね」


と笑って見せた。ぼくもつられてニコリと笑った。


「誰にでも苦手なものはあるって、父さんが言ってた。岸原さんはたまたまそれが時計だったってだけだよ。超不便だろうけど、いつでもぼくが教えてあげるから」


ぼくの目の前は明るくなった。優一の切り揃った前髪が風に揺れていた。眉毛のはじに小さい頃にぶつけたのか、小さな傷跡があった。


「あー前髪があ」


優一は手櫛でまっすぐな前髪を直した。その姿がおかしくて、ぼくは大声で笑った。


「恵斗でいいよ、中務さん」

「そっちこそ、優一でいい」


ぼくたちは、友達になった。


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