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第4話 キャラメルの箱

結局、朝まで眠れなかった。気がつくとカーテンの隙間から光が漏れている。仕方なく重たい体を起こし、カーテンを開けた。  

窓から見えるのは、いつもと変わらない家並みだ。子供の頃から何一つ変わっていない。変わったことといえば、隣の外壁が、ベージュからオフホワイトに塗り替えられたことぐらいだろう。

ぼくはシャワーを浴び、歯を磨いた。鏡に映る自分の姿を改めて見る。生気のない目、下がった口角、これではいけないことくらい分かっている。でも笑えることなんて、この世にあるのだろうか。本当に心から笑える時が、ぼくに訪れるのだろうか。もちろん、ただその時を待っていても仕方がないことも分かっている。ぼくは鏡の中の自分に、言い聞かせる。


「前に進むしかないんだから」


呪文のように二度繰り返し、洗面所を出た。

今日は講義もないし、バイトも休みだ。朝食兼昼食にカップ麺を食べた。午後は本を読んで過ごすつもりだったが、眠気が今になって襲いかかってくる。本の文字が、ゆらゆらと揺れ、ちっとも頭に入ってこなかった。ぼくは少し横になった。

めずらしく夢を見た。

親父とドライブをする夢だ。白いバンの後部座席にぼくは座り、少し開けた窓から入る風にまどろんでいる。運転席には親父が。そして助手席には、母親らしき人の姿があった。ぼくは母親の顔を見ようとサイドミラーを覗き込む。だけどぼんやりとして見えない。ぼくは車に揺られながら、ただ楽しそうに笑う母親の声を心地よく聞いていた。幸せな、まどろみだった。

目を覚ましたぼくは、コップ一杯の水を飲んだ。いつのまにか陽は傾き、少し肌寒くなっていた。くしゃみをひとつ、ふたつとして、昨日花音にもらったポケットティッシュを開け、鼻を噛んだ。


花音との約束の時間が迫っていた。何を着ていこうか、暑くもない寒くもない秋の入り口は、着るものにいつも迷う。あれでもないこれでもないと迷った挙句、いつもの白いTシャツに紺色の長袖シャツを羽織り、ベージュのチノパンを履いた。花音の前で格好つけても仕方ないだろう。昨日会った時は、ヨレヨレの黒いTシャツ一枚だったのだから。


ぼくは早めに家を出た。約束の公園に着いたのは、約束の30分前、ぼくのデジタル腕時計には6時30分と表示されていた。

ぼくはベンチに腰掛ける。ジャングルジムと滑り台、遠くにアスレチック見える。大きな公園だ。僕たちも子供の頃遊んだ公園だ。夏は水飲み場で水風船を膨らまして、投げ合って遊んだっけ。ジャングルジムで鬼ごっこをしていて、頭をぶつけた花音が泣いたっけ。時々隣のクラスの太一郎と正哉が加わることもあったっけ。人気者だったあいつらに、なんでぼくたちと友達になってくれたのかと聞いたら「ただそこにいたから」って答えたっけ。

全てが美しく優しく存在した。そんな時代がぼくにもあったのだ。


「ごめん。待った?」


突然の花音の声に驚く。


「いや、全然」

「あ、うそー」


花音が笑う。ぼくもつられて少しだけ笑った。


「うそ。めちゃくちゃ待った」

「やっぱり。だってヒゲが伸びてるもん」

「え?」


しまったと思った。朝あんなに鏡を見ていたのに。ぼくは隠すように口元に手を当てた。


「冗談だよ、冗談」


また花音が笑う。「なんだよ」とぼくは肩を撫で下ろした。花音はぼくの隣に座った。ほんのり甘い匂いがした。

おもむろに花音がトートバッグから、黄色いキャラメルの箱を取り出した。


「これ、懐かしいでしょ。わたしまだ食べてんだよね。昔はみんなで分け合って食べてたのに、一人だとさ、気づくとベトベトになっちゃうんだよね」


花音がぼくに一粒、銀紙に包まれたキャラメルをくれた。


「ありがと」

「……優一も、好きだった」

「うん……」


やはり優一の話になる。忘れたい、でも忘れてはならない。語れない、でも語りたい。ぼくたちはきっと同じ気持ちだったのだと思う。中学生の頃のぼくたちは、不器用すぎて、そばにいるのに互いに距離を置き、高校になって、とうとうバラバラになってしまった。花音は進学校へ行き、ぼくは家から一番近い高校へ。太一郎と正哉は野球推薦でスポーツ名門校へと進んだ。ぼくの中には、消化されず溜まったままの過去だけが残された。


「優一はさ、キャラメル絶対に噛まないの。いつも右のほっぺ膨らませて、時々転がしてまたほっぺに戻すんだよね」

「よく見てるね」

「だってさ、いつまで経っても無くならないんだもん優一だけ」

「ぼくはすぐ噛んじゃって」

「先に食べ終わって、羨ましそうに優一見てた」

「うん」


高校生活がどうだったかとか、今の仕事のこととか、聞きたいことがたくさんあったのに、優一に心をとらわれている。


「優一、生きてると思う?」


花音が核心をつく。


「正直なとこ、わからないじゃない」


ぼくはキャラメルを強く握りしめる。


「わたしはね、生きてるって信じたい」

「それってさ、つまりは、ダメかもって思ってるってこと?」

「違うよ。信じてる。それだけだよ。恵斗はどうなの?」

「ぼくは……信じてるけど、でももう、いないんじゃないかって思うことが増えてきたんだよね」

「そうなんだ……」


残念そうに花音がうつむく。ぼくは正直に、そして理性的に話そうと思った。


「こんなこと思っちゃいけないかもしれないけどさ、あまりにも時間が経ちすぎてるし、なんの手がかりもないなんてさ」


ぼくの言葉にすぐに花音が反応する。


「でも誰かに連れて行かれたとかさ。そしたらどこかで今も生きてるかもしれないじゃない」

「でも、それだと苦しいじゃん。かわいそうじゃんあまりにも」

「そうだけどさ……。でも生きててほしい」


思ってもない言葉が口をついて出る。


「そんなの、死んだほうがマシだよ……」

「やめてよそんな言い方」


ぼくは黙ってうつむいた。手の中でキャラメルが温まっている。なぜあんなことを言ったのだろう。僕は本心で言ったんじゃない。言い訳を自分自身にする。だって今まで苦しかったじゃないか。生きていくって苦しかったじゃないか。優一もそうだとしたら、そんなのあまりにも残酷じゃないか。

花音は鼻から大きく息を吐き、キャラメルを一粒、口に放り込んだ。しばらくキャラメルを口の中で転がして、そしてわざと話を逸らすかのように、口調を変えて言った。


「そうだ。同窓会あるんだってさ。行く?」

「行かないよぼくは」

「どうして即答?」

「だってさ、ぼくは嫌われてるでしょ。親父が優一に何かしたって、まだ思ってる奴もたくさんいると思うし」

「そっか。ひどいよね。家に送り届けただけなのに」

「その後姿を消したんだ。仕方ないよ」

「でもお父さん、そんな人じゃない。会って話せば分かるのに」

「それってさ、会って話さなきゃ分からないってことだから」


花音がフッと笑う。


「ああ言えばこう言うね、恵斗って。全然変わってないの」


キャラメルの箱をクルクル回しながら花音は残念そうにそう言った。よく見ると、花音は薄いピンク色のマニキュアをしている。花音はちゃんと、大人になったのかもしれない。そう思った。



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