辺りが少し暗くなってきた。名前も知らない虫の鳴き声がする。
「ねえ恵斗」
「ん?」
「優一の家さ、最近草ボーボーなの知ってる?」
「ああ、そう言われれば」
「お母さん、妹さん連れて出て行っちゃったらしいよ」
「そうなの?」
「別れたみたい」
「妹、柚葉ちゃんだっけ?」
「うん」
「今何歳かな」
「16だと思うよ」
「16か」
優一の妹の柚葉ちゃんとも、もうずいぶんと会っていない。きょうだい仲はとくべつに良かったわけではないが、優一は時々、柚葉ちゃんの話をすることがあった。自転車に乗れるようになったとか、ブロッコリーが好きだとか、他愛もないことだけれど。柚葉ちゃんは優一の後をついて回るようなタイプではなかった。どちらかと言えば人見知りで、恥ずかしがり屋で、ぼくたちとは挨拶を交わす以外、積極的に関わろうとはしなかった。スーパーで見かけても、母親の後ろに隠れてしまうような子供だった。
「どうしてんだろうね、今」
「元気だといいけど」
「うん」
ぼくらの間に重たい空気が流れる。花音はキャラメルの箱をトートバッグに片付け、そして膝をポンと叩いた。
「ねえ、お腹すかない?」
「ああ、そう言えば」
「ねえ、二人きりで大丈夫? もし彼女とかいるなら」
「いや、いないよ」
「じゃあ大丈夫だね。わたしもいないから」
「そっか」
ぼくはなんだか安心して、顔を上げた。
「何食べたい?」
そう訊く花音の背後に時計があった。花壇の中にポツリと立っている。その時計は白く光り、かすかに点滅している。小さな虫が数匹集まっている。
ぼくはじっと、なぜかじっとその時計を見てしまった。
「イタリアンとか中華とか、少しいけば色々あるけど」
花音の背後で時計の針が回り始める。数字がぐにゃりと歪み始める。ぼくは目を逸らすことも忘れ、その時計を見入る。空腹のせいだろうか、寝不足のせいだろうか、ぼくは時計から目を離せなくなっていた。
ひどい眩暈が起きる。花音の顔まで歪んでくる。
「恵斗? 恵斗?」
ぼくの顔を覗き込む花音が暗くなっていく。虫の声がやたらと耳の中で響き、ぼくはもう、時計の中に引き込まれそうになっていく。
「ねえ聞いてる? 恵斗ってば」
黒い絵の具を目の前に垂らされたみたいに、視界がどんどんと暗くなっていく。そして大きくうねり始める。そしてブチっと、現実が途絶えた。ぼくは思わず目をつぶった。
眩暈がおさまり、ゆっくりと目を開ける。
変わらない公園の風景。だかさっきまで目の前にいた花音の姿が見当たらない。それだけではない。歩いていた人たちも、遊具で遊んでいた子供達の姿も消えていたのだ。虫の声まで消えている。
静寂の中、ぼくは辺りを見回した。その時である。
「恵斗?」
透き通った声が背後から聞こえた。ぼくは聞き覚えのあるその声の方に、ゆっくりと体を向けた。
そこに立っていたのは、優一だった。
十歳の、あのままの優一だったのだ。小柄で細くて、切り揃えた前髪にボタンダウンのシャツ。間違いない。優一だ。
「優一……」
「やっと会えた」
優一の目がきらりと光った。ぼくは今、何を見ているのだろう。何度か目をこすり、もう一度目の前の少年に目をやる。優一だ。優一なんだ。
「もう会えないかと思ったよ」
「でも……よく、わかったね」
「だって、全然変わってないもん恵斗って」
「そっか……」
優一は特に驚いた様子もなく、平然と立っている。ぼくは何が起きているのか理解ができず、困惑した。花音と話しているうちに眠ってしまったのだろうか。いや時計を見てしまったせいで、頭の中が混乱して幻覚を見ているのだろうか。夢だ。タチの悪い夢に違いない。
「夢なんかじゃないよ。これは現実だ」
ぼくの思っていることを見透かすように、優一は言った。返す言葉が見つからなかった。手に持ったままのキャラメルが、少しだけ柔らかくなっているのが分かる。
「いつか恵斗が見つけ出してくれるって、信じてたよ」
「でも、どういうことなの? 何がどうなってるの。花音や他の人たちはどこに行ったの」
矢継ぎ早にぼくは訊く。
「落ち着いてよ恵斗。ちょっと時間の狭間にいるだけじゃないの」
「時間の狭間?」
ぼくは余計に困惑する。
「ここには時間なんて存在しない。ぼくは時を止めたんだ」
「時を?」
ぼくは花壇の中の時計に目をやった。時計の針がピタリ、止まっていた。ぼくは時計をじっと見て、長い針も短い針も、秒針も、止まっていることを確かめようと、もう一度丹念に時計を見た。
「あ、待って!」
甲高い優一の声が響いた。時計の針はぐるぐると回り出し、数字がぐにゃりと歪み、ひどい眩暈に襲われた。目の前の優一が黒く塗りつぶされていった。
「ねえ待ってよ!」
その声と同時に、ぼくは元の世界へと戻った。
目の前に花音がいる。ぼくの顔を覗き込んでいる。遊具で楽しそうに遊ぶ子供や、犬の散歩をする人が見える。虫の声が響いている。
「ねえちょっと大丈夫?」
「え?」
花音の声にほっとした。胸が少し苦しかった。ぼくは息を整え、花音の腕を思わずつかんだ。
「優一が! 優一がいたんだ!」
「え?」
花音は驚いたような、疑うような顔をした。