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第6話 もう一度会いたい

「優一がいたんだよ! 前髪も声も、確かに優一だった! シャツもインしてたし、それに気難しいこと言ったりしてさ。優一だよ。本当に優一がいたんだ!」

「ねえ落ち着いて。今どこにいるの?」

「それは……」


ぼくは辺りを見回した。優一の姿はなく、虫の声が響いている。


「ねえ、ゆっくり話さない?」


心配そうに花音が言う。


「うん」


花音とぼくは、公園を出ることにした。ぼくはさっきまでいた場所を何度も振り返った。確かにいた。確かにいたんだ。


公園を出たぼくらは、繁華街を抜け、裏路地にある町中華の赤い暖簾をくぐった。

店は混んでいたが、テーブル席が一つ空いていた。僕らはそこに座り壁に貼られたメニューを眺める。調理場の上に時計がかけられている。ぼくはそれを見ないように、うつむいた。賑やかな店の中でも、秒針の音が響いて聞こえた。


「何にする?」


二人きりでご飯を食べるなんて初めてだ。


「わたし、チャーハンと餃子にしよっかな」


決めきれないぼくは、迷った挙句、花音と同じ、チャーハンと餃子にした。花音は店員を大きな声で呼びんだ。


「チャーハン二つに餃子二つ、お願いします」


店員は水の入ったコップを二つ置いて行った。


「で、最近はどうなのよ」

「え?」

「大学で何勉強してんの?」

「ああ、ロシア文学だよ」

「ロシア文学? また小難しいの選んだね」

「ぼくも後悔してる」


フフッと花音が笑う。


「でも恵斗らしいね。昔から分厚い本読んでたもんね」

「でも成績はイマイチ。向いてないのかもなって」

「後ろ向きだね相変わらず」

「でも、花音はどうして? 花音はさ、絶対美大に行くと思ってた」

「どうして?」

「いや進学校に行ったから不思議には思ってたよ。でも子供の頃から絵を描きたいって言ってたしさ、パラパラ漫画とか上手かったし、実際美術の成績良かったじゃない」

「うーん、そうなんだけどさ」


花音の唇がぴくりと動いた。


「お母さんが反対だったんだあ。芸術でどうやって食べていくのって。あなたにはちゃんと働いて、幸せになってほしいって。それずっと聞かされてるうちにさ、わたしもそうだよなって思ってきてさ。美大目指すの、怖くなっちゃって」

「そうだったんだ」

「で、とどめの一言、なんだと思う?」

「何?」

「優一君は、行きたくてもいけないのよって」

「ああ……」

「だからさ、いい大学入って親を安心させようって進学校に行ったんだよね」


確かに優一なら進学校に進み、有名大学に入っていたことだろう。優一は、保護者たちの間でも評判が良かった。礼儀正しく人当たりもいい。挨拶もきちんとするし、おまけに秀才。親ならば、自分の子供がこうならばいいのにと、一度ならず二度三度と思ったことがあるだろう。


「でもわたし、遅めの反抗期来てさ、大学入試の時、答案用紙、白紙で出してやったの」

「え?」

「ハハッ。絶対に受かるわけないでしょ? その代わり、答案用紙の裏に、めっちゃ綺麗な男の子の横顔描いたんだあ。タイトルは『大人になったあの子』」

「そっか」

「純粋に、絵が描きたかったし、やりたいことやらない方が、優一に失礼でしょ」


「おまちどうさまです。餃子二人前です。チャーハンすぐ持ってきますんで」


ぼくらの前にこんがりとよく焼けた餃子が運ばれてきた。


「うわー美味しそう。食べよ食べよ」


花音は割り箸を二つ取り、ぼくに一つ手渡した。花音は餃子を一つ取り、タレにちょんとつけ、口に放り込んだ。


「熱いでしょ」

「あっつーい。でも美味しい」


ぼくはおかしくなって笑った。ぼくも餃子を取りタレに潜らせた。


「わたしさ、お金貯めて美大に行く」


口いっぱいに餃子を頬張ったまま、花音は言った。


「だからさ、ティッシュ配りでもなんでもやってやるんだあ。金融に勤めるとは思ってもなかったけどね」

「偉いね、花音」

「偉くなんてないよ。自分に正直なだけ」


ぼくは人を避けるように生きてきた。やりたいことなんてなかったし、ロシア文学を選択したのだって、なんとなくだった。自分がなんだか恥ずかしくなった。花音はきっとやり遂げるに違いない。ぼくはいつか、花音の絵を見ることができるのだ。ノートの隅に描いたパラパラ漫画ではなく、大きなキャンパスに描いた、花音の絵を。

そうこうしているうちに、チャーハンが二つ運ばれてきた。花音はレンゲで米の山を崩しながら、


「で、でだよ」

「ん?」

「優一は何か言ってた?」

「ああ」


ぼくは二つ目の餃子に伸ばした手を引っ込めた。


「それがさ、時間の狭間にいるって言うんだ」

「時間の狭間?」

「時間を止めた、とかなんとか。ぼくもどういうことだろうって思ったけど、でも事実なのかもなって」

「どうして?」

「優一、あの時のまんまでさ、本当に一人、ポツリと取り残されてるような気がしたんだ。時間の狭間に、置いてきたような気がして」

「んー。それってさ、恵斗がそう思ってたから、そう言ってるような気がしたんじゃないの? つまり、恵斗がそう言わせてるっていうか」

「そうなのかな」

「だってね、恵斗がぼーっとしてるの、ほんの数秒だったもん。そんな会話ができるような長さじゃなかった」

「そうなの?」

「うん。すぐに戻ってきた感じ」

「リアルだったんだけどなあ……」

「リアルに優一のこと、心配してるから。忘れたことないじゃん、わたしたち」

「まあね」

「まあ、見たいものを見たってことじゃないのかな」

「だったらもう一度会いたいよ」

「だね。もしまた会ったらさ、わたしがよろしく言ってたって伝えてよ」

「いいよ」


ぼくは餃子を口に放り込んだ。口の中で肉汁が溢れ出す。熱さはもう和らいでいた。優一にも食べさせたい、そう思ったら、鼻の奥がつんと痛くなった。


「もう一度会いたいんだ」

「うん」

「もう一度」


ぼくは涙をこらえる。もう一度会えるなら、本当に会えるなら、今度はちゃんと話がしたい。まだ返してない漫画を返して、誕生日プレゼントのお礼をちゃんと言って、眉尻の小さな傷の理由をちゃんと聞きたい。取り戻したい、全てを。もう一度……。


「そうだ」

「ん?」

「もう一度、会いに行けばいいんだ」

「え?」

「もう一度、時間の狭間に行く。そうすればいいんじゃないか」

「何言ってるの恵斗」

「時計だよ。ぼくの苦手な時計。それがあれば」


そうだ。調理場の上でさっきから針の音が響いているじゃないか。


「ぼく、もう一度、会いに行ってみるよ」

「はあ?」


ぼくは立ち上がり、調理場の方は歩き出した。花音がぼくを止めようと近づいてくる。逃げるように、あの場所へ逃げ込むように、ぼくは時計の前へ行き、ぐっと睨みつけるように文字盤を見た。

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