父親は、静かに話し始めた。あの日、バンを優一の家の前に停め、優一を降ろして、発車したところまでは、ぼくたちの知っている通りだった。そのあとぼくたちは花音を家に送り届け長屋に帰ってきたところも、ぼくは知っていた。ただ、父親は、優一を降ろすとき、優一の様子が、いつもと違ったことが気になっていたらしい。
「いつもなら、おじぎをするんだよ俺に向かって。でもあの日は、俺の目を見て、『さようなら』って言ったんだよ。今考えると、何かを言いたげな様子だった気がするんだ」
「何か?」
「何かは分からない。でも助けて欲しい、そう訴えているように、俺には見えたんだ。なのに俺は、その信号をちゃんと受け止めなかったんだよなあ。気のせいかもしれないって、都合のいい方に捉えた。ひょっとしたら、俺に気を許すようになって、おじぎなんてしなくなったのかなって」
親父は目を伏せ、湯呑みをギュッと握った。
「あの時、一声かけてやってればなあ」
「お父さんのせいじゃないですよ」
花音が間髪入れずに言う。
「わたしたちだって、その信号を受け取るべきだった」
「でもねえ花音ちゃん。大人には大人にしかできないことがあるんだよ。あるいは、大人だからこそしなければならないことが。俺の責任は重大なんだよ」
花音もぼくも、言葉に詰まる。(親父が責任なんて感じなくてもいい)そう思った。
「そうだ。あの時の記事、置いてあるけど、見るか?」
「え?」
「切り抜きだよ。俺も気になってな、集められるだけ集めておいたんだ。中にはゴシップ記事もあるけど、今のお前たちなら、もう大丈夫だろう」
花音が覚悟を決めたような低い声で答える。
「ぜひ、見せてください」
父親は「分かった」と言い、席を立った。しばらくしてお菓子の紙箱を持って戻ってきた。懐かしい緑色のクッキーが入っていたやつだ。父親は箱の蓋を開けた。
「こんなに?」
新聞やら雑誌やらの切り抜きが、折り重なって入っていた。
──忽然と消えた? 少年の謎──
そんな見出しが目に止まった。
「くだらないのもある。中にはさ、俺が優一君を殺して、自分の子供と入れ替えた、なんてのもあるよ。まったく、俺は自分の子供で十分満足してるってのに、子供の出来が悪いから、ひがんで実行したなんて言うんだから、たまんないよなあ」
当時の親父の苦難がうかがえる。カメラのフラッシュがたかれるのを、ぼくも覚えているくらいだから、父親はもっと鮮明に、覚えているに違いなかった。
「ねえ、これ」
花音が一枚の新聞記事をぼくに見せた。ぼくはその記事を読もうと身を乗り出した。思いのほか花音の近くに顔を寄せたものだから、花音が「おっと」とぼくを避けた。
「あ、ごめん」
「いいのいいの、気にしないで」
ぼくは記事に目をやった。『手がかりなし』と書かれた記事は、こう続いていく。
──少年は、家の前にいたことは確かだろう。警察犬もその匂いを追っている。だが、家の前でその匂いは消え、足取りはそれ以上掴めなかった。
「これってさ、家の中に入ったってことですよね」
「んーそうだと思うけどねえ。ただ、優一君のお母さんから電話があったんだよ。うちの子がまだ帰ってこないって」
「その話、警察にもしたんでしょ?」
「したよ。だから俺が疑われたんだ。本当は車から降ろしてなどいないんじゃないかって。あるいは一度降ろしたあと、もう一度乗せたんじゃないかって」
「でもわたしたちがいたから、それはないのに」
「子供の証言は当てにならないって、そういうことだった」
「ひどい」
でも家に入ったのだとしたら、優一が言うように、お父さんかお母さんに殺されたのだろうか。だとしたら、優一の母親は、嘘の電話をわざわざかけてきたと言うのか?
「恵斗、どうかしたか?」
「あ、いや……」
「でも、なんで二人とも、急に知りたいと思ったんだ?」
花音が促すようにぼくを見た。ぼくは思い切って、優一と会ったことを打ち明けた。父親はしばらく黙ったあと、腕を組み、口を開いた。
「恵斗、お前は臆病だが、臆病であるがゆえに下手な嘘はつけまい。俺はお前を信じる」
ぼくはほっとした。分かってくれる人が、目の前に二人もいる。それが何よりも嬉しかった。
「でも恵斗、危険だな、時間の狭間に行くなんて」
「私もそれは心配だよ」
「ちょっと疲れるだけだよ。ほんの数秒、息を止めたみたいな、そんな感じかするだけだから」
「そうか。でも本当のことを知りたければ、他に会う人がいるんじゃないかな」
「……優一の父親とか?」
「いや、お父さん、今入院してるって話だ。少し気を病んでね。そんな人に会いには行けまい」
「じゃあ……」
「住所なら、確か……」
父親は電話の横に置いてあるメモ帳をペラペラとめくった。
「あった」
そこには優一の母親の住所が書かれていた。
「今なら何か、冷静に話してくれるかもしれない。正直、俺は会うのは怖いけどな」
ぼくはその住所をスマホで撮影し保存した。
「会いに行こう」
花音が言う。
「会わなきゃ行けない気がする。優一にも、今のお母さんの様子、伝えてあげたほうがいいと思うし」
「そうだよね」
あの日以来、優一の家族とは会っていない。妹の柚葉ちゃんも、きっと高校生になっている。きっと柚葉ちゃんも、抱えているものがあるはずだ。ぼくたちは会いに行く決心をした。
花音が父親に礼を言って、靴を履いた。
「あまり力にはなれなかったけど」
父親がそう言うと、花音は首を大きく横に振った。
「一歩、前進です。わたしにとっても、多分……」
と、花音はぼくを見た。
「え? ぼく? ……まあ、そうだね。ぼくにとっても、一歩前進かな」
花音はフッと笑い「素直じゃないんだから」と言った。
ぼくは花音を駅まで送って行った。花音は子供じゃないんだから大丈夫と言ったけど、花音に何かあったらと思うとゾッとした。何が起きても、おかしくないんだから。何が起きても、ぼくはもう、友達を失いたくなかったから。
駅で花音は「また連絡する」と言い残し、手を振って歩いて行った。ぼくは少し、名残惜しさを感じた。
家へ戻る途中、優一の家の前に通りかかる。荒れた庭がさっきよりも暗く、木々がおおい茂っているように感じて、ぼくは怖くなり、走り出した。