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第1話 奇妙な聖女

 トリコロールが尾翼に踊る白い飛行機が、東京中央国際空港に降り立ったのは、11時のことだった。

 最後列の窓側の席に座っていた少年の、アンバーとライトブルーのオッドアイの瞳には、12時間の長旅の疲れは見えない。年に1回だけながら、日本とフランスを往復するのは、既に10回を超えた。

 トリコロールのシャツにネイビーのUVカットパーカーを羽織り、手には紅い三日月のチャームのブレスレット。最後に降りた、シルバーの外ハネショートヘアの少年は、スマートフォンを開いてイミグレーションに並ぶ。

「着いたよ」

とメッセージを打った少年が取り出したパスポート、それに刻まれた名前はLUNA。


 こうして空港に迎えに行くことは初めてのこと。展望デッキに立つ少女は、最愛の少年を乗せた飛行機が、轟音を立てて着陸する光景に安堵する。

 シンボルと云える、ダークブラウンの肩丈ボブカットを揺らしながら、デニム調のミニスカートとセーラー服、その上からデニムジャケットを羽織った彼女は、オレンジ色のティアドロップのチャームを遇ったブレスレットに一度視線を落とすと、踵を返した。


 到着口の自動ドアが開くと、最愛の少女が見える。

「澪!」

「流雫!」

2つの声が重なり、そして距離が一気に近付いた。


 少年の名前は、宇奈月流雫。流雫と書いてルナと読む。日本人の父とフランス人の母の間に生まれ、ラテン語で月を意味する名前を付けられた。

 パリで生まれた後、フランス西部のレンヌに引っ越し、今は理由有って自分だけ、日本人として帰化した上で日本にいる。両親はレンヌで旅行代理店を営み、多忙な日々を送っている。

 その時に当てられた字は、ルナが生まれた日に因む。パリは雨が降っていて、窓ガラスを雨粒が流れていたことに着想した、と母アスタナ・クラージュは言っている。

 そして今は、故郷フランスからの帰り。2週間ぶりに踏んだ日本の地で、最愛の少女、室堂澪むろどうみおの出迎えを受けた。

 複雑で特殊な経緯で知り合った2人は、今や相思相愛の恋人同士。一言で言えば、互いに安心して背中を預けていられる。

「おかえり、流雫」

「ただいま、澪」

と、微笑みながら言葉を交わした2人は、空港でランチタイムにしようと決めた。レストランフロアへ踵を返そうとする流雫は、しかし立ち止まる。

「流雫?」

と澪が名を呼ぶが、流雫は

「あれ……」

とだけ声に出す。

 ……ブロンドヘアを左右で三つ編みにした少女。青のブラウスに白ケープを羽織っている。恐らくは、2人と同じぐらいの年齢か。

 流雫の席はエコノミークラスだったから、最後に乗る上に機内の最後列。それ故、それより前に乗った全ての人の顔を、一通り見ている。そして、ファーストクラスに座っていて、一瞬だけ目が合った。蒼い瞳が印象的で、それはフライトの半日前に別れた母を思い出させた。

 しかし、その周囲で些細な違和感が漂うことに気付く。

「……待ってて」

とだけ言い残して踵を返す流雫の目に、寸分前までの優しさは無い。それが、端的に今の日本を表している。

 待ってて。そう言われた澪は、しかしその後を追うべく、踵を上げた。


 ……2023年8月、その最後の週末に起きた東京同時多発テロ事件、通称トーキョーアタック。空港と渋谷を標的とした惨劇は、日本の安全神話が最早過去のものである現実を、1億人に突き付けた。

 それは流雫と澪にとっても例外ではないが、特に流雫には今でも忌まわしい記憶として焼き付いている。かつての恋人を殺されたからだ。ただ、それがきっかけで2人は出逢い、今この瞬間が有る。

 人を愛することに戸惑い、ようやく愛することを覚え始めた矢先に襲われた悲しみ。その絶望に沈む僕を救済するために、あの日この世界から切り取られた少女が掛けた、最初で最後の魔法……流雫にはそう思える。


 少女の背後にいる男女の観光客は、折り畳まれたタオルを持っている。ショートヘアの女の方が先に足を速め、距離を狭める。その挙動に流雫は気付いていた。

 人形のように整った少女の顔に、タオルが押し当てられる。声を上げ、その場に崩れる少女。

「誰か!」

その英語ではない言葉に条件反射を示すように、

「待て!!」

と、流雫は声を張り上げた。

 少女から離れた女はそのまま走り去ろうとする、しかし地面を蹴った澪の方が速く、目の前に現れる。

「ちぃっ!!」

大きく舌打ちする女は、咄嗟にショルダーバッグから黒い銃を取り出す。それの動きに反応した澪は、黒いショルダーバッグから、シルバーの銃を取り出した。


 ……トーキョーアタックを機に、日本国民に銃の所持と使用が認められるようになった。条件は、高校生以上。そして、正当防衛が成立する場合にのみ、護身目的であること。

 今では、国民の半数以上が銃を持っている計算になる。だが、テロや凶悪犯罪の抑止力としての手段は、時には犯罪を起こす武器になる。そして、今。

 6発のオートマチック銃と云う統一の仕様だが、銃そのものは3種類から選べる。違いは見た目とサイズと口径だ。そして、澪が持つのは最も小型で軽量のもの。火薬の量も少なく、威力は最も弱いが、反動も小さく扱いやすいのが最大の特徴だ。

「あの子に何をしたの!?」

と澪は問う。その返答は銃声だった。

 大口径特有の爆発音が反響する、しかし標的の少女は倒れない。2人分右を飛び、澪の背後の壁に銃弾が刺さる。そして女が反動で腕を後ろに持って行かれる、その瞬間を刑事の娘は逃さなかった。

「はっ!!」

一気に懐に飛び込んだ澪は、銃身をがら空きの脇腹に叩き付ける。

「ぐっうっ!!」

その呻き声と同時に女が落とした銃を蹴飛ばす澪は、腕を掴んで後ろに回し、後ろ首に銃を突き付ける。

「何をしたの!?答えなさい!!」

睨む目付きでの問いに、返事は無い。一瞬だけずらした澪の視界に、最愛の少年が映る。

 ……流雫の出国直前、澪は彼から銃を預かっていた。銃を持つ資格証さえ有れば、撃たなければ他人の銃に触っても問題無い。澪はガンメタリックの銃身を取り出し、

「流雫!!」

と叫びながら宙に投げた。


 ジャンパーを着た男は、予想外の邪魔者にタオルを投げ捨てる。湿った音を立てた白いフェイスタオルに、少女が近寄る。顔を拭きたい。

「触るな!!」

流雫はフランス語で叫び、同時に飛んできた銃身をビーチフラッグスの要領で掴むと、その流れに乗せてスライドを引き、タオルを銃身で弾く。

「流雫!?」

その様子に澪は驚きの声を上げる。

「澪!バイナリー!!」

流雫は声を張り上げる。その言葉に、澪は一瞬身震いする。それと同時に、女が無理に力を入れ、澪を押し退けて立ち上がった。

「何すんだ!!」

そう叫んだ女が、フェイスタオルに向かう。

 「触るな!!」

そう叫んだ流雫は、咄嗟に女の足下を撃つ。火薬の量は少なく、威力には劣るが静音性に優れる。しかし威嚇は通じず、ついに女がタオルを掴んだ。

「邪魔するな、ガキ!!」

男は言い、大口径の銃を手にする。しかし、流雫は苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。それは、銃を向けられたからではない。

 「っ!!」

澪は女の手に銃を向け、撃った。小さな銃声の直後に

「ぎぃぃっ!!」

一際低い声を上げながら、タオルを手放した女はその場に崩れる。銃弾が刺さった手の甲からは地が滴り、手放したタオルが汚れていく。

「てめぇ!!」

男が叫ぶが、流雫は

「洗面所へ!!このままじゃ死ぬ!!」

とだけ叫び返した。その瞬間、女は

「がふっ!!」

と血を吐き、その場に倒れる。

 「……助からない」

そう言った流雫に、澪は足を震わせる。

「澪!!」

そう叫んだ流雫は、仕方なくケープで顔を拭くブロンドヘアの少女に

「離れて!!」

と叫びながら、澪の手を掴んで引っ張る。しかし、ボブカットの少女は力が入らず、その場に崩れる。

「澪……!」

と名を呼びながら抱き寄せ、胸板で最愛の少女の視界をシャットアウトさせる流雫。

 何が起きたか判らない男は

「おい!!」

と叫び、女に近寄る。

 触るな、と流雫が怒鳴る前に、男は女の手を掴んだ。不快な湿り気がその皮膚に触れる。

「やめっ……!!」

叫んだ流雫の声が途切れ、虚しく反響する。……男の発症は、その数秒後だった。

 ……帰国早々、最悪。しかし、自分と澪が無事だったことに、流雫は辛うじて安堵する。そして、謎の少女も。

 半目を開ける少女が視界の端に映るが、その光景にその場で気を失う。騒然とする空港で、流雫は澪の頭を撫でながら、新たな脅威と謎に纏わり付かれる予感を抱いていた。


 空港署に連行されたカップルに

「帰国早々、災難だな」

と声を掛ける中年の刑事は、室堂常願むろどうじょうがん。澪の父親で、テロ専従の刑事として普段は臨海副都心の臨海署にいる。事件の一報を受けて空港へ駆け付けると、愛娘がいたのだ。

「どうして……」

とだけ声を上げる。

 数時間前、リビングでは微笑を絶やさかった一人娘は、今恋人の隣で数時間後に訪れる世界の終わりを知らされたように沈んでいる。

 机の下で手を握る2人の手首を、改めてブレスレットが飾る。3日だけ離れた互いの誕生日プレゼントは、2人にとっての御守りのようなものだ。

 ……それだけで、何が有っても屈しないと誓える。だが、人が悶える様子を目の当たりにするのは、流石にダメージが大きい。

「……バイナリー兵器……」

と流雫は言った。

 バイナリー兵器。猛毒の化学物質の前駆体をそれぞれ持ち運び、犯行直前に混合する。危険物質を安全に持ち運べるメリットが有る。一国の重要人物が暗殺された際にも使用された。

 あの不審なタオルの持ち方から、流雫はそうだと直感した。そして、男女の反応を見る限り当たっていた。

 恐らくは、タオルに塗られたものが何かも知らないまま、ただ何者かの命令のままに犯行に及んだ。そして手に付着した物質が化学反応を起こし、何が何だか判らないまま絶命した。

 澪が銃を撃って手放させたが、それでも手遅れだったほどの即効性を持っていた。あの時、フランス語で叫んでいた少女がタオルで顔を拭いていれば、既に彼女はこの世にいない。

 ……誰でもいいなら、自分も澪も狙われていたって、当然他の人が標的だって不思議ではない。だが、ピンポイントであの少女が狙われた。逆に言えば、狙われるだけの地位が有る。

「彼女、何者なんだ……?」

と流雫は呟く。

 あの場所に居合わせたから、彼女は死ななくて済んだ。だが、自分たちは無関係ではいられなくなった。

「病院で手当を受けているが、命に別状は無い。だが、通常じゃ有り得ない手口で狙われた。……彼女はもうすぐ署に送られてくる。悪いが、同席してやってほしい」

そう言った恋人の父親に、流雫は頷いた。正しくは、頷くしかなかった。


 自分たちの取調が終わり、隣の部屋に入った流雫は、少女と目が合う。1秒、互いの瞳を見つめ合う……何処かで会ったような気がした。しかし、少女は

「近寄るな……!」

と声を上げる。

 怪訝な表情を浮かべた流雫の目に、首のネックレスが映る。チャームは、金と赤の八芒星。……その瞬間、彼女の拒絶の理由が判った。

「……同席は無理だ、澪だけならできるけど」

と言って踵を返した流雫に、澪が頷く。その理由を察したベテラン刑事は、休憩所の場所を教えられた。

 紙コップに注がれたアイスココアを口にする2人。

「……近寄るな、か」

と話を切り出した流雫に、澪が続く。

「あのフランス語?」

ボブカットの少女は、あの三つ編みの少女の態度が引っ掛かっていた。助けた相手を威嚇する態度……誰から見ても異様だと判る。

 「あのネックレスを見れば、仕方ないとは思うよ」

と頷きながら言った少年の言葉に、澪は声を上げる。

「え?」

「……あのネックレス、太陽騎士団のだから」

と流雫は言った。


 太陽騎士団。フランス革命直後、フランスで生まれた宗教団体。創世の女神ソレイエドールを崇める。かつて、この教団が絡む事件に遭遇したことで、一通りどんな組織か、流雫と澪は知っている。

 その教典に出てくる女神のうち、唯一異端なのが破壊の女神テネイベール。悪魔に陵辱された炎の戦女神が産み落とし、最後はソレイエドールのために凄惨な死を遂げる。

 教典に描かれた絵によると、その瞳も紅と蒼のオッドアイ。流雫のそれと同じだった。無論、彼が現代に転生した女神だから……ではなく、単なる偶然に過ぎないのだが。

 そのテネイベールに関する解釈を巡っては、信者同士でも大きな論争にもなっている。

 そして彼女は、破壊の女神を忌むべき存在とする見方の持ち主。そうでなければ、恩人と云うべき流雫へ見せた態度の説明がつかない。

「……もし、彼女が狙われた理由が、信者だとするなら……」

「信者どころか、教団の重要人物……」

と流雫は言う。

 見た目は自分たちとほぼ同世代。それが、国際線のファーストクラスに1人で乗っていた。その時点で普通ではない。そして、普通じゃないから狙われた……。

「流雫に懐けば、色々聞き出すのは簡単だろうけど……」

「拒絶されてるからね……」

そう言った2人は、同時に深く溜め息を吐くと、取調室へ戻ることにした。


 空港島を後にした2人は、渋谷へ向かった。渋谷駅前のハチ公広場、その片隅に慰霊碑が建っている。流雫と澪はその前に立つ。

「美桜」

「美桜さん」

2人は同時に、或る少女の名を口にした。

 欅平美桜けやきだいらみお。流雫のかつての恋人。同級生と2人で東京に出掛け、渋谷でトーキョーアタックに遭った。その同級生は無事だったが、美桜はほぼ即死だった。

 流雫がその一報を耳にしたのは、空港襲撃の目撃者として連行された、空港島の警察署を出た直後だった。あの狂ったように泣き叫んだ日を、流雫は今でも思い出す。

 澪は夢で、美桜に逢ったことが有る。トーキョーアタックから1年が経とうとしていた日の夜のことだ。

 人の死の上に成り立つ恋愛を喜ぶべきなのか……。流雫を愛していると断言しながらも、その悩みを抱えていた澪を肯定した美桜は、彼女に流雫を託した。

「流雫のこと、頼むよ。澪」

と。その言葉を、澪は鮮明に覚えている。忘れられない、忘れられるワケがない。いや、忘れてはいけない。

 彼女にそう言ってほしい、その願望から生まれた言葉に過ぎないとしても、その言葉が何時も澪を後押しした。だから、今までテロの脅威に屈すること無く戦ってきた。

 ……事有る毎に、2人はこの場所に立つ。そして、美桜に誓う。互いにとっての生きてきた証と生きる希望を、明日からも護ると。

 同時に頷いて、踵を返す2人。不意に、その並んだ背中に微笑む彼女の気配を感じた気がした。


 恋人を地元に残したブロンドヘアの少年は、モンパルナス駅からの直行バスの人混みに、早くも疲労困憊の様相を露わにした。

 ブルターニュ地方の中心都市からTGVに揺られ、バスに乗り換え、漸くロワシーに建てられた巨大空港、シャルル・ド・ゴールまでやって来た。そして数時間後には飛行機に乗る、それも12時間。

 彼がよく知る元フランス人の少年は、その長旅を毎年続けているのだから、それが地味に凄いことだと思い知らされる。

 ブルーの瞳で見上げた、シエルフランスのロゴが並ぶ出発便案内。その中程、東京のスペルに目が止まる。

 ……朝のニュースで、その東京の空港で殺人未遂事件が起きたと報じられていた。彼は無意識に、ルナと名乗る少年にメッセージを入れる。飛行機が定刻通りなら、遭遇している頃だからだ。すぐに返事が返ってきた。

「無事だよ、僕もミオも」

そのフランス語の文字列に安堵したが、しかし空港で白昼堂々と犯行に及ぶ連中には呆れるばかりだ。尤も、自分には無関係な話だが。そう思いながらも、一言毒突かなければ気が済まない。

「相変わらず、厄介な国だな……日本と云うのは」

と。

 キャリーを預ける必要が有る少年は、シエルフランスのカウンターでアプリのデジタル搭乗パスを開く。パリ発東京行き、その下に表示される名は、日本風にはこう読めた。

 アルス・プリュヴィオーズ。


 レンヌの街で生まれ育ったアルスは、太陽騎士団から派生した宗教、血の旅団の信者。そしてルナ……流雫とはレンヌで知り合った。彼が里帰りしている最中の話だ。

 今は、流雫を誰より信頼している。その日本人にとって、アルスは澪の次に、そして男同士としては誰より仲がよい。尤も、流雫の交遊関係そのものが、手で数えきれるほどだが。

 日本に帰る流雫と同じ飛行機でもよかったが、生憎の満席。だから翌日のフライトにせざるを得なかった。

 搭乗ゲート前のベンチに座るアルスは、腕時計に目を向ける。出発まで、あと1時間。この待ち時間が妙に長いことに更なる疲労を感じていると、スマートフォンが鳴った。


 流雫は今日は、澪の家に泊まる。両親も恋人を歓迎している。

 2人きりで過ごす夜。しかし、昼間のことを忘れることはできない。

「あの少女……誰だったんだろ……?」

と言った澪に、スマートフォンを握った流雫は、時計を見て言った。

「専門家に話してみようか」


 「アリス・メスィドール」

空港のベンチでコーラを飲んでいた、流雫曰く専門家は、通話相手にそう答えた。しかし、先に一言言わなければ気が済まない。

「どうして日本はこうも危険なんだよ?」

と。

 「僕と同世代の少女で、太陽騎士団の上の立場で、フランス人。それらしい人、いる?」

と流雫から投げ掛けられた問いに、アルスは数秒もしないうちに誰を指しているか判った。

 アリス・メスィドール。太陽騎士団の西部教会を統べる名家の長女として、レンヌで生まれ育った。流雫や澪、アルスと同い年。学校には通わなかったが、自宅で英才教育を受けていた。だから、同い年ながらアルスやアリシアは会ったことが無い。

 そのメスィドール家は今では総司祭となり、アリスは聖女として崇められている。

 「……何か気になるのか?」

そう問われた流雫は、簡単に経緯を説明する。その滑らかなフランス語は、彼のルーツがフランスであることを象徴していた。

「お前への態度は、仕方あるまい。感心しないがな」

とアルスは言った。だが、それより引っ掛かることが有る。そもそも……。

「金色と赤のネックレス……?まさか、聖女メスィドールが日本にいるのか!?」

 教団の上級職だけが身に着けられるネックレス、その色で階級が判る。そして赤は、最上級……総司祭一家の証しだった。

 ニュースでは、犯人はその場で毒に接触してほぼ即死だったと報じられている。しかし、その被害者については報道されていない。だから、聖女が狙われたことは今流雫からの連絡で初めて知った。このフランス人にとっては、不可解でしかない。

 「……じゃあ、先刻見たのは誰だ……!?」

と言ったアルスに、流雫は

「……え?」

と声を上げた。

 アルスは先刻、上級会員専用ラウンジに向かうアリスとすれ違った。スーツを着た男を2人、秘書兼ボディーガードとして連れていた。それも、確かに聖女の証のネックレスを着けていた。

 ……メスィドール家の娘はアリス1人だけ。1歳下に弟がいる。弟が変装して来日することは、まず有り得ない。そうする理由が無いからだ。

「……誰なんだよ……」

とアルスは呟く。彼の困惑は、流雫にとっても珍しいことだった。

 不意にフランス人の耳に、東京行きの搭乗案内開始のアナウンスが聞こえた。

「……今から飛行機だ。明日、東京でな」

と言ったアルスに、流雫は

「うん、明日ね」

と滑らかなフランス語で返し、スマートフォンを耳から離し、思わず口に出す。

「……聖女が2人……?」

 澪はその声に、先刻のフランス語の会話の中身が、僅かながら判った気がした。

「……同じ人が、2人いるってこと……?」

「昼間の少女、アリスと云うらしいんだ。数時間前、アルスも彼女をパリの空港で見てる」

「……聖女って、宗教の最重要人物だよね?影武者だったりして……」

と澪は言った。影武者だとしても疑問は有る。ただ、恋人の部屋で頭を抱えても何かが判明するワケでもない。

「……明日、アルスも来るから、全てはその時かな……?」

と流雫は言った。そう、明日も空港に行くことになっている。それも、出迎えるのは2人だけではない。


 「澪!流雫!」

と2人の名を呼ぶ、ダークブラウンのショートヘアの少女に、澪は

「詩応さん!」

と呼び返して手を挙げた。品川駅で合流した3人は、これから空港へ向かう。

 伏見詩応ふしみしの。名古屋に住む太陽騎士団の信者。同い年の2人とは、彼女の姉の死をきっかけに知り合った。そして、その真相を追って共闘してきた。澪が同性で誰より慕う相手でもある。

 元陸上部で、ボーイッシュな風貌にその名残が有る。デニムパンツにシャツの服装が、そのことを引き立たせていた。

「流雫も相変わらずだね」

「伏見さんも」

と言葉を交わした2人に、澪は微笑む。

 消える命を看取ることしかできなかったと嘆く流雫は、詩応を苛立たせた。吹っ切れたと思っていたかった悲しみを、吹っ切れていない……その現実を突き付けたからだ。

 流雫に何時かの自分を見ているようで、だから流雫のことは苦手だった。ただそれも、次第に相容れるようになる。そして今は、普通に話せるだけの間柄だ。それが、シルバーヘアの少年の恋人にとって喜ばしい。

「それじゃあ、行く?」

と流雫は言った。


 パリからの飛行機は、30分遅れで着いた。それでも、1万キロ近い長距離国際線なら遅れなかった方だと、流雫は思っている。

 見覚えが有るブロンドヘアの少年を

「アルス!」

と最初に呼んだのは流雫だった。

「ルナ!」

と名を呼び返して近付くアルスに、流雫は

「3日ぶりだね」

と声を弾ませる。普段滅多に会えない間柄だから、3日ぶりでも嬉しい。

 その様子を、澪と詩応は微笑みながら見つめる。何だかんだで、流雫も年頃の少年なのだと。

「プリンセスと騎士様か」

アルスが英語で言うと、口角を上げる詩応の隣で澪は

「プリ……」

とだけ呟きながら、一気に顔を真っ赤にする。

 ……そうだ、アルスは人を撃沈させるのが得意だった。澪はそのことを忘れていた。

 自分から恋人だの何だのと言うのは平気だが、他人から言われることに耐性が全く無い。そして、集まった3人全員がスナイパーだ。そう、最愛の流雫でさえも。

 「ところで、シノは何故トーキョーへ?」

とアルスは問う。撃沈したままの澪の隣で、詩応は答えた。

「聖女様が来日すると云うから」

 今日と明日、聖女アリス・メスィドールが東京で演説するのだ。自分と同い年で教団の最高峰の地位に立つ者を一目見たい、と云う興味本位から、詩応は1人早朝の高速バスで東京へ出向いた。


 血の旅団は、太陽騎士団の過激派をルーツとする。

 流雫の人生を大きく変えたパリクリスマス同時多発テロ、通称ノエル・ド・アンフェルを太陽騎士団の仕業に見せ掛けて引き起こした。

 今はパンデミックによる国家の危機を機に、祖国フランスのためにと互いに手を取り合っているが、その歩み寄りを批判する者は互いに少なくない。

 詩応はアルスに最初こそ敵意を向けたが、彼に力を貸してほしいと頼まれ、その手を取った。真の敵が同じで、その思惑を潰すことが日本のため、そう言われると、詩応に選択肢は無かった。

 そして今は真の敵と戦った者同士、蟠りは無い。それどころか、互いに味方だ。

「昨日僕が此処で見たのは聖女」

「俺がド・ゴールで見たのも聖女」

その2人の男子が続くフランス語に、怪訝な表情を浮かべながら詩応が英語で

「は?……どっちかが見間違いなんじゃ?」

と被せる。

 ……見間違い。ネックレスの件は別として、それが最も簡単な理由だ。ただ、どうしてもそうは思えない。流雫は

「そう思いたいけどね……」

と答えるのが精一杯だった。


 4人は空港のフードコートで手頃なランチを堪能した後、渋谷へ向かった。詩応だけが出席できる大教会でのイベントの前に、4人で行きたい場所が有ったからだ。

 流雫がアルスに、東京のトゥール・モンパルナスと紹介した地上230メートルの屋外展望台、シブヤソラ。流雫と澪が東京の夜景と云う名のイルミネーションに祝福されながら、恋人同士として結ばれた場所。それだけに、このカップルにとっては一種の聖地のようなものだった。

 大都会の景色を見下ろす4人、その右端にいるアルスは

「シノ」

と隣のショートヘアの少女を誘い、2人から離れる。

 ……例えるなら、静かに灯り続ける、しかし何が有っても消えないキャンドルの火。流雫と澪の恋愛を火に例えるとそうなる。詩応もアルスも、その点は同じだった。2人を見ているだけで、何か微笑ましく羨ましくなる。

 だがそれより、アルスは彼女に話さなければならないことが有る。

「……何だい?」

と、英語で詩応が話を切り出した。

 「先刻の話だ。……俺とルナが見たのは確かに聖女だ。どっちも、あの一家だけのネックレスを着けてたからな」

「護衛がいなかったなら、ルナが見たのが偽者じゃ?ネックレスも精巧な贋作……」

「そうだとして、何故そうする必要が有る?しかも日本に1人でいるんだ」

と問うたアルスに、詩応は何も言えなかった。

 普通じゃ有り得ないから疑いたい、しかし見間違いなんかではないことは、2人の表情から判る。

「もし影武者なら、同じ国にいる必要が無い。日本にいるべき理由が有り、片方がスピーチしている裏で、もう片方が本来の目的を果たそうとしている……、それなら説明が付くがな」

「だが、本来の目的が何にせよ、あの装束じゃ目立つ。まるで自分を狙えと言っているかのようだ」

と続けたアルスに、詩応は

「……何が、どうなって……」

と困惑の表情を露わにする。数秒だけ言うのを躊躇ったが、アルスは口にした。

「日本ではどう伝わっているか知らないが、太陽騎士団は、今フランスではちょっとした問題になっている。その影響だとしても不思議じゃない」


 流雫が祖国の地を踏んだ次の日、レンヌで事件が起きた。発端は、その3ヶ月前から燻っていた、太陽騎士団の内部問題だ。

 メスィドール家の当主が総司祭に就任したのは、新年を迎えたと同時だった。しかし、就任をよく思わない連中も当然ながらいる。大きな理由は、一家の名誉とプライドだ。それが、宗派同士の確執として表面化したのだ。

 西部教会の中心となるレンヌでは特に、それが激しかった。メスィドール家のルーツだからだ。血の旅団の穏健派の信者であるアルスとその恋人の一家も、同じ街に住む身としてその一件は気になっていた。


 「ハイ、ルナ」

アルスの隣で、セミロングの赤毛の少女はそう言った。一度だけビデオ通話で顔を見た、アルスの恋人だ。

 アリシア・ヴァンデミエール。アルスとは幼馴染みから発展した。 オリーブカラーのシャツを着ている。流雫は彼女とは初対面だが、最初に

「サンキュ、アリシア」

と言った。彼女の助けが有ったから、宗教を隠れ蓑にした日本乗っ取りを阻止することができた。その恩は、今でも忘れていない。だから、ハイよりサンキュが先に出てくる。

 3人はカフェに入り、デッキでラテを口にする。前々からそうだとは思っていたが、やはりアルスはアリシアに敵わない。それは2人の遣り取りを見ていて判る。


 2歳の頃にパリからレンヌに引っ越した流雫には、幼少期から何度か遊んだ少女が1人だけいた。ブロンドヘアのボブカットが印象的だった。名前も覚えている。雨を意味する、プリィだった。

 ただ、4年後日本に移住して以降、流雫は美桜と知り合うまで同世代と話すことは皆無だった。だから、昔から仲睦まじい目の前のフランス人カップルが少しだけ羨ましく感じる。だが、それ以上に今は澪がいる。


 流雫の視界の端で、何かが動く。

「どうした?」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                              

とアルスが問うと同時に、ラテを飲み干して席を立つ少年。その目線の先を追ったアルスは、道路の反対側に建つ太陽騎士団の教会に目が止まる。

「最近、少し不穏な動きが有る。ブルターニュ一帯、注目している」

とアルスが言った、と同時に目の前に止まった黒いタクシーがオレンジ色に光った。

「伏せ……っ!!」

とフランス語を叫ぶより早く、爆発音が周囲の空気を切り裂く。

 悲鳴と怒号が飛ぶ中、流雫は店の消火器を手にすると踵を返した。

「ルナ!!」

と叫びつつも、アルスとアリシアはそれに続いた。


 微風でも風向きは判る。その風上に立つ流雫は消火器のハンドルを一気に引く。

「ルナ!!」

2人の声が聞こえる。同じように消火器を持って近寄る。

「自爆テロ……?」

「そこまでやるか……!?」

とフランス人2人が声を上げながら、消火剤をひたすら掛けていく。

 教会から、ネイビーのスーツを着た数人の男が飛び出してくる。その瞬間、数発の銃声が聞こえた。

「フランスでも……!」

流雫は日本語で呟き、音が聞こえた方向に目を向ける。道路を逆走する黒いワンボックスからだ。流雫は道路に飛び出すと、クラクションを鳴らすワンボックスに対峙する。

「ルナ!!」

アルスが叫ぶ。オッドアイの瞳に怒りが宿る少年にとって、それがシグナルだった。

 「たぁぁっ!!」

消火剤が尽きた消火器を、ハンマー投げの要領で投げながらカフェへ向かって走る流雫。ワンボックスのフロントウィンドゥに弾かれたが、避けようとしてタクシーの手前の街灯柱に突き刺さって止まった。

 車のドアが開き、1人の男が飛び出してくる。黒いジャケットを羽織っている。

 此処はフランス、銃を持てない。だから丸腰で戦うしかない。武器は簡単なパルクールと、咄嗟の判断力だけ。

「タクシーもお前のグルか?」

そう問う流雫への答えは、服装に似つかわしくない機関銃の銃口だった。

「ルナ!!」

と叫んだアリシアに、男は銃口を向ける。流雫は地面を蹴り、ショルダーバッグを振り回した。ダメージは軽いが、そもそも自分で仕留める気は無い。

 「このガキ……!」

男が声を張り上げるのと、流雫がステップを刻むのは同時だった。

 小柄な流雫の武器は、その身軽さ。車に例えれば、コンパクトな軽量スポーツカー。そして、俊足の詩応でさえも撹乱される上下の動き。だが、銃を持った男相手に1人だけは不利だ。

「ルナ!!」

アルスはアリシアから消火器を奪い、飛び出す。

「アルス!?」

その声は、ブロンドヘアの少年には届いていない。


 「アルス!?」

視界の端に現れる少年に一瞬驚く流雫は、手首に唇を当てる。ブレスレットへのキス、それは無事への祈り。

「ルナ!!ほら!」

アルスは言いながら、消火器を流雫に渡す。

「もうすぐ警察が来る」

とアルスは言った。それまでの時間稼ぎだ。

「誰だ!?」

その声にアルスは、

「ルージェエールに護られし戦士」

とだけ答えた。

 血の旅団が崇めるのは、炎の戦女神ルージェエール。太陽騎士団の教典では、悪魔に陵辱されテネイベールを産み落とし、最後は処刑される。その名は、一部の信者にとって忌むべきものだ。

「ルージェ……!?この邪教が!!」

そう声を張り上げた男の銃口が、アルスに向けられる……より寸分早く、銃身の先端を金属の筒が殴った。鈍い音が響き、機関銃の向きが変わる。

 「俺にとっちゃ、お前こそ邪教だ」

と言い放つアルス。相手の怒りを焚き付けるには手段を選ばない。

「まずはお前からだ!!」

そう叫んだ男は、アルスに銃口を向ける。

「アルス!!」

「気にするな!!」

アルスが流雫に叫び返した瞬間、男が引き金を引く。リズミカルに鳴るハズの銃声は、閃光と爆発音に掻き消された。

「うぉあああ!!」

男が銃を手放し、右手を強く押さえる。

 アルスの一撃で、機関銃の先端が僅かに凹んでいた。それが弾詰まりを招いたのだ。

 しかし、男の目から殺意は消えない。流雫が動いた。ワンボックスのフロントを使って跳ぶ。

「後ろだ!!」

と、アルスが叫ぶ。その声に振り向く男の顔面を、消火器が捉えた。

「はぁっ!!」

「ごっ……!!」

鼻を砕かれ、首の骨が折れそうなほどに頭を後ろに飛ばされた男は、そのまま倒れた。馬乗りになったアルスは、両手を喉仏に押し付ける。

 「がっふっ……!」

「この国に泥を塗る奴は、同胞だろうと容赦しない」

悶える男にぶつけられるアルスのフランス語には、軽く殺意さえ感じられる。

 警察車両のサイレンが聞こえたのは、その直後だった。警察官が駆け付けると、アルスは意識が朦朧とする犯人を引き渡す。

「……くそ……っ」

と声を上げたアルスは、唇を噛む。

 その隣に立つ流雫は険しい目付きで、連行される犯人を見つめている。

 ……着ていたのは太陽騎士団の信者の制服、ネイビーのスーツではなかった。信者であることを隠そうとしたのか、或いは誰かが雇ったヒットマンなのか。だが後者だとすると、高校生2人に簡単に叩きのめされるほど弱い理由の説明が付かない。

「……アルス」

と名を呼んだ流雫は、思わずその身体を抱き寄せた。

 ……アルス・プリュヴィオーズは、少し生意気が似合う。ただ、今は祖国と故郷の安全を脅かすテロへの怒りに囚われている。2人が無事だった完全勝利をハイタッチで喜ぶ気になどならない。

 何時かの自分を見ているような気がした流雫の身体は、無意識に動いていた。今の彼を受け止めてやれるのは、アリシアを除けば自分しかいないからだ。

 そのアリシアは、元フランス人の少年を見つめながら安堵の溜め息をつく。ブロンドヘアの恋人が、この少年の味方だと断言する理由が判る。

「アルス!ルナ!」

と呼んだ赤毛の少女は2人に近寄り、2人の肩を軽く叩いた。


 「……ニュースで少しだけは知っていたけど……」

と詩応は言った。まさか流雫も遭遇していたとは知らなかった。

「もし本来の目的が日本に有ったとして、それが何か。フランス国内での問題を解決する鍵が、日本に有るのか……?」

とアルスは言う。

 ……聖女を生で見ることができるのは光栄なこと。だがその裏で、大きな問題が蠢いている。

「……シノの楽しみに水を差すことになったが……」

「いいさ。ルナやアルスが遭遇しているのなら、アタシも黙っていられないから」

と詩応は言った。

「……頼む」

と言ったアルスは、詩応から展望台の端にいる2人に目を向ける。詩応もそれに続いた。


 澪は流雫から、フランス滞在中に何が有ったか、一通り聞いていた。詩応とアルスが話していることは、当然知っている。ただ、2人の答えは決まっていた。何が起きても屈しない、4人の誰も殺されない。

 ブレスレットが手首を飾る2人の手、その先端で指が絡む。東京の景色を映す4つの瞳の深淵には、押し寄せる悲壮感すら打ち消す凜々しさが宿っていた。


 スーツの男を連れた聖女アリスは、他の乗客とは別の到着口から出ると、止まっていた黒い高級車に乗って、空港島を後にする。目的地は渋谷、太陽騎士団日本支部の大教会。

 男からこの後と明日の予定を聞かされる聖女は、終始無表情のままタブレットに並ぶ文字に集中する。今夜の原稿だ。

 簡単な修正を終えたアリスは、シャルル・ド・ゴールで見たブロンドヘアの少年を思い出した。

 ……同じ飛行機に乗り合わせ、そして東京の空港でシルバーヘアの少年と会った。隣にいる少女2人が誰かは知らないが、恐らくはグルだろうか。

「……血の旅団が日本にいる……厄介だわ……」

アリスはそう呟き、タブレットの画面をオフにした。不意に、押し殺した感情が押し寄せる。聖女としての立場では制御できない感情が。

 ……プリィ、お前は何処にいる……?


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