新宿を後にした5人は、臨海副都心へ向かった。流雫が東京で最も好きなエリアの一つだ。その一角の商業施設アフロディーテキャッスルは、流雫と澪が初めて顔を合わせた場所でもある。
澪から誘ったデートは、直前に起きたテロで台無しにされた。しかし、それが有ったから澪は流雫の力になると決めた。言い換えれば、今の2人が始まった場所だ。その和食レストランに入り、手頃なメニューを頼んだ5人は、端の座席に陣取る。
……レンヌの太陽騎士団教会前で起きた襲撃事件の犯人は、未だその動機を話していない。プリィは言った。
「……あのレンヌの襲撃は、西部教会に対する反発だと思ってるわ……」
「イコール、メスィドール家か」
「そう。そしてただでさえ、メスィドール家は血の旅団を敵対視している。その信者に救われたことは、面白くないハズよ」
とプリィは言った。
……あの襲撃事件でもそうだった。犯人を仕留めた流雫とアルスに向けられた目は、しかし険しいものだった。
別に承認欲求のために動いてはいないが、誰一人褒めも労いも無かった。それどころか、血の旅団に助けられたことに忸怩たる思いすら抱えているように、アルスには思えた。
命より教団のプライドが優先される。太陽騎士団の欠点は、教会にもよるがその危うさを孕んでいることだ。特に西部教会は、その傾向が強い。
流雫とアルスに近寄ったアリシアは溜め息をつき、周囲に顔を向けると
「だから、アンタたちの求心力は下がる一方なんだ」
と毒突いた。
「恩を仇で返すとは……」
と詩応は言う。同じ教団の信者として、ただ呆れるばかりだ。
「ノエル・ド・アンフェルの因縁は根深いからな。まあ、俺が言う資格は無いが」
と言ったアルスに、流雫は問う。
「まさか、犯人はクローンの秘密を知ってる……?」
「ただそれなら、口止め料で脅すだけで十分だろ。100万ユーロは堅いだろうし」
とアルスは言う。そうしなかったと云うのは、つまり……。
「正義の鉄槌を下す気でいた……?」
と流雫は言った。
「聖女と総司祭の座から、メスィドール家を排除するためにか?」
と問うアルスに先に反応したのは、元フランス人の少年ではなかった。
「……有り得る……わね」
と言ったプリィの言葉を遮るように、料理が運ばれてきた。まずは熱いうちに堪能するだけだ。
初めて使う箸に苦戦しながらも、初めての和食を愉しめたプリィを、大観覧車トーキョーホイールに誘ったのは流雫だった。正しくは、
「折角だし、流雫とプリィで乗ってきなよ」
と澪が仕組んだものだ。
先刻の言葉が未だに引っ掛かってはいるが、それはそれ。折角日本に来ているのだから、彼女には少しぐらい楽しいことをさせてやりたい、と思った。それが、かつて一緒に遊んだ少年と2人きり、密室で過ごす15分間だった。
シースルーゴンドラのドアにロックが掛けられると、プリィは
「……ルナにとって、ミオはどんな人?」
と問う。頬を引っ叩かれ、その直後に自分の手を取り、そして今は自分の恋人と2人きりになることを認めた。喜怒哀楽と態度の変化の大きさ……その感受性が気になる。
「ソレイエドールよりも尊い、かな」
と流雫は答える。
「何時だって僕を受け入れて、僕の力になって。何度ミオに救われてきたんだろう……」
「でも私は先刻……」
「プリィが思ったことは、間違ってない。テロで殺された恋人の仇討ちで、その真相を暴くなんて。普通に生きてる限り、まず有り得ないことだからね」
と流雫は言った。彼女のためのフォローではなく、本当にそう思っただけだ。……だからこそ、自分を全肯定して受け入れる澪を、流雫は自分の命よりも大事にしたかった。
「ミオがいなきゃ立ち上がれないほど、僕は強くないから」
「ルナは十分強いわ」
とプリィは言った。
「強くないと、立ち向かえないわよ」
「……ミオやシノ、それにアルスがいるから、僕は戦えた。自分が死ぬことより、3人が殺されることが怖いよ」
そう言って、眼下に広がる東京の景色に目を向ける流雫。無邪気な年頃の少年が、何故命懸けでテロと戦わなければならないのか。プリィは流雫が不憫でならなかった。
此処でソレイエドールの教えを説いて布教するのが、プリィの本来の立場であり役目。信仰で安心や安全を手に入れられる、と。だが、それが今は愚行でしかないことを、頭では判っていると思いたい。
「ルナ……」
「だから、強いのはみんながいるから。だから、みんなを護れるようになりたい」
そう言って微笑を浮かべた流雫の目に、プリィは吸い寄せられそうになる。
破壊の女神テネイベールに似た、アンバーとライトブルーのオッドアイの持ち主、流雫。10年以上前、未だルナだった頃の面影を残しながらも、頼もしく見える。彼と再会できたことは、やはりソレイエドールの導き……プリィにはそう思えて、思わず優しい微笑を零し、流雫の目線の先を捉えた。
流雫がレンヌを離れたあの日に止まった時間が、再び動き始めた気がした。
「2人きりにしちゃって、よかったのかい?」
と詩応が問う。3人は近くのベンチに座っていた。
「流雫にとって、プリィにとって何がベストなのか……。あたしの頭じゃ、これが精一杯ですから」
と言った澪は、ペットボトル入りの紅茶を飲みながら一息つく。
「その言い方、澪らしいな」
そう言った詩応の瞳が捉える澪の微笑に、思わず微笑み返す詩応。澪は本来、こう云う気遣いを自然にできて、自分の手柄にしない性格だ。
「幼馴染みに、ルナを奪われるとは思っていないのか?」
と、詩応の隣にいたアルスは冗談交じりに問うたが、澪は表情を微塵も変えず、
「ルナは、必ずあたしに戻ってくる。ルナの恋人は、世界であたしだけですから」
と答えた。こう云うことを平気で言えるのが、澪の強さでもある。但し、同じ事を他人から言われると容易く撃沈するのだが。
……アルスが少し意地悪な質問をぶつけたのは、不意に感じ取った不穏を確かめたかったからだ。己が過剰反応を示すようになっているだけなのか……否。
「ミオ、シノ……」
と2人の名を呼ぶアルスは、しかし何よりも流雫とプリィが気懸かりだった。2人はゴンドラの上……地上に降りてきても、動線は限られる。
「どうしたんだい?」
と詩応が問うと、アルスは言った。
「プリィを逃がす……」
「逃がす?」
と詩応は問い返す。
「追っ手がいるようだ」
と答えたアルスに、詩応は周囲を見回す。少し離れたところにいる、大学生ぐらいのカップル風の男女2人。黒いショートヘアの男と、ブラウンのセミロングの女。
先刻レストランに入る時に見掛けたが、今流雫とプリィがトーキョーホイールに乗っている間、列に並ぶワケでもなく3人を見ている。時々スマートフォンに目を向けるのは、何者かと連絡しているからだろう。
「恐らくあれだ」
「後を付けていたのか……」
「思い過ごしだといいが、こう云う時の直感は当たるものだ」
「……同じく」
とぼやく少女の隣で澪は、流雫が乗ったゴンドラを見上げた。
……シースルーゴンドラは、2人の乗客に東京の景色を一望させる仕事をあと1分で終える。それから降りたばかりのプリィを逃がす、その役目は流雫に任せるしかない。
折角のムードに水を差すのは忍びない、しかし躊躇していられない。同時に立った3人の端で、澪はスマートフォンを握った。
「プリィ……」
降りる準備を始めた流雫は、そう名を呼んだ。澪の言葉が招いた、寸分前とは正反対の表情に、フランス人の少女は微笑を殺した。
通話状態のままのスマートフォンを、ブルートゥースイヤフォンにリンクさせた流雫の右耳に、イヤフォン越しに澪の声が聞こえる。片耳だけ挿すのは、反対の耳で周囲の音を聞き取るためだ。
テレパスではない2人のカップルにとって、これが互いを知る上でのベストな選択。
「……プリィは僕が護る」
そう言った流雫に、プリィは複雑な表情を浮かべた。
僕はプリィを助ける、そう言ったルナは頼もしく見える。しかし、こうなったのは自分が日本にいるからだ。動きを察知され、狙われている。自分のために、ルナが危険な目に遭う……。そのことが、一種の罪悪感となって押し寄せる。
「……ルナ……」
と不意に出た声に
「もう誰も殺されない」
とだけ返した流雫の目に、戦士としての凜々しさが宿る。
……バスティーユ広場でノエル・ド・アンフェルに遭遇したあの日から15年、流雫はテロに囚われ続けている。そして、自分の身を護るために銃を使ったと云う事実が、感覚として甦る限りは、解放されることは無いと思っている。
その贖いと救いを澪に求めている……と言われれば否定しない。痛々しく思われようと、それが現実だからだ。
流雫が窓の外に目を向けた瞬間、地上がオレンジ色に光り、轟音が空気を切り裂く。
「プリィ!!」
流雫は咄嗟にプリィを押し倒す。ゴンドラが大きく揺れるが、アクリルのボディパネルはヒビが走る程度で済んだ。
「ルナ!?」
突然のことに困惑するプリィ。流雫は大きな溜め息をつくと身体を起こす。そして
「澪!?」
と口元のマイクに向かって叫んだ。
幾つか並んだ端のベンチにいた男が、黒いスーツケースを置いたまま自販機へ向かっていく。そしてスマートウォッチを自販機にかざした瞬間、爆音と同時に樹脂製のボディが裂け、中から炎が噴き出した。
「シノ!!ミオ!!」
アルスが叫ぶのと、2人の女子高生が走り出すのは同時だった。爆風に僅かに背中を押されながら離れる3人、しかしフランス人は観覧車の降り口を駆け上がり、制止しようとする係員を振り切って、流雫とプリィが乗ったゴンドラのロックを外した。
「行け!!」
とドアを開けながら叫んだアルスに頷いた流雫は、プリィの手を引く。
「テロだ!避難させろ!」
とアルスは係員に英語で叫んだ。
「何故彼女を狙う!?」
詩応は声を張り上げながら、銃を取り出す。流雫や澪のそれより一回り大きい中口径の銃は、少し反動が大きい分威力は有る。尤も、動きを止めることに特化した使い方では射程距離が長くなることが唯一の利点だが。
「彼女が何をしたの!?」
と澪は続いた。しかし、その声に反応は無い。
「答える必要は無い、か……」
と詩応は呟く。しかし、それは半分間違っているとボブカットの少女は思った。
聖女アリスは、全てを知っている上で答える必要は無いと詩応に言った。しかし、目の前の男女は、空港で遭遇した2人と同じでは……。
……早朝のニュースで少しだけ流れていたが、空港でプリィを襲撃して死亡した男女は、動画投稿サイトで配信される新番組の企画に関わっていたことが判明した。
スタッフが指示した人物を狙って、悪戯を仕掛けると云うもので、担っていたのは仕掛け役。前払いの報酬だったらしい、札束1冊分の現金が入った封筒がそれぞれの遺留品から見つかっている。尤も、その番組自体がダミーだったが。
関係者を名乗っていた人間の全てと連絡が取れなくなっていて、警察が実態の解明に全力を挙げている。澪の父も、母の室堂美雪曰くその捜査で昨日は家に帰ってこなかったらしい。
答えようとしても、狙う理由すら知らされていない……。それが実態だろう。
「誰からの指示なの!?」
と澪は問う。指示……その言葉に、詩応は
「澪!?」
と名を呼ぶ。
「多分、目的なんか知らされていない……。この爆発も、恐らくは……何も……」
そう言った澪の隣で、詩応の顔が引き攣る。
「澪!」
流雫の声が聞こえた。
「流雫!プリィを逃がして!」
「澪は……!」
「詩応さんもいる……死ぬワケないわ」
と言った澪は、左手首のブレスレットにキスをする。最愛の少年への祈り……この手に流雫を感じる、だからあたしは屈しない。
「……判った」
とだけ言った流雫は、プリィの手を引く。
……地元ではないが、何度もデートで訪れている。それ故、この周辺の地理には詳しい。後は彼女の体力がどれほどなのか。
プリィを独りにさせられないが、男女と対峙する澪と詩応に不安は無い。あの2人のコンビネーションは目を見張るものが有るからだ。
澪が小口径の銃を取り出すのと、男女が中口径の銃を取り出すのは同時だった。
「詩応さん……」
と澪が声に出すと、
「偽物は何処だ!!」
と男が叫んだ。……聖女の偽物、つまりはプリィか。
「アンタたちに答える理由は無いね!」
と詩応は言葉を返す。それは、対峙する男女を苛立たせるには効果的だった。
「生意気な!」
と言った男は銃口を向けながら近寄る。
「吐け!!」
と続けるが、2人は沈黙を貫く。苛立つ男は、遂に引き金を引いた。大きめの銃声と同時に、女子高生の背後の柵が音を立てる。
「次は当てるぞ!」
と男は言った。その返事は、小さな銃声だった。金属音を立てて男の手を離れた銃は、隣の女の足下に転がる。
「くっ!!」
男が睨むボブカットの少女は、銃弾が狙い通りに当たったことに安堵していた。
……先手必勝は報復を生む。それが澪のセオリーだった。
相手が銃口を向けた瞬間に、正当防衛は成立する。そして、当たらなくても撃たれれば、逆に射殺しても罪には問われない。刑事の娘として、澪が常に意識していることだ。そのことを、この男女は忘れていた。
男は銃を拾い、
「死ねぇ!!」
と叫ぶ。利き手ではない方で、片手で握る……それは撃つ方にも、撃たれる方にもリスキーだ。
「詩応さん!」
澪が叫ぶと同時に、2人は反対方向へ分かれた。それと同時に銃声が数発響く。あと2秒遅ければ、1発は当たっていただろう。
「澪!」
とイヤフォン越しに声が響く。
「あたしは無事!」
と返ってきた声に安堵する澪は、しかし流雫の方が気懸かりだった。こっちを仕留めて、詩応やアルスだけでも合流させたい。
……そのアルスは何処?そして、女子高生2人はこの混乱で見失っていた。スーツケースを置いて自販機に向かった男を。
「澪!」
と叫んだ流雫の声に、プリィは思わず身構える。
「ルナ……!?」
「ミオは無事だ……」
と言った流雫が背後を一瞥した瞬間、銃声が響いた。上空への威嚇発砲……!?
大口径の銃を持った、Tシャツの男が1人。澪や詩応が対峙している2人とは別物。
「3人目……!?」
そう呟いた流雫は、踵を返してプリィと男の間に出る。
「何が目的だ!?」
と流雫は声を張り上げるが、やはり答えは無い。流雫は黒いショルダーバッグから銃を取り出す。
「ルナ……!?」
目を見開くプリィに、流雫は言った。
「これしか無いんだ」
人を護るために、人を殺せる武器を手にする。これ以上の皮肉が果たして有るのか。
「その女を渡せ……」
と言った男に、流雫は
「僕が護ってみせる……」
と言い返した。
銃口が流雫に向く。実力行使に出る気か……そう思った流雫のすぐ隣を銃弾が飛んだ。
「ひっ!!」
人形のようなプリィの顔が凍り付く。
……正当防衛、成立。流雫は冷静さを保ったまま、男を睨みながら銃を構える。
「女を渡せば……」
と言った男への返答は、2発の銃声だった。小さな銃弾は男の太腿に刺さる。
「ぐっ!?」
と声を上げた男は前によろける。右足に激痛が走り、力が入らない。
「てめぇ……!!」
と声を上げ、銃を構える男は、しかし身体が大きく揺れて照準を合わせられない。
「くそ……!」
苛立ちだけが募る男の背後に、アルスが駆け寄ってくる。
「ルナ!!」
と声を張り上げたフランス人に、男の顔が向く。しかし丸腰。飛んで火に入る何とやら……。その言事が浮かんだ男は、銃口を向けようとする。だが、それが甘かった。
飛んで火に入るが焼け死なない……それがプリュヴィオーズ家の末裔だ。アルスは小さなメッセンジャーバッグからボトルを取り出し、男の目に吹き付けた。
「ぐぁっ……!目っ……!」
「単なるアルコールだ」
と、膝から崩れ落ちて目の上を押さえる男にアルスは言い放ち、掌大のアルコールスプレーを握り締める。
「血の旅団と云う汚物を見たんだ。目の消毒には最適だろ」
生意気な口調で、アルスは言った。
フランスで起きたノエル・ド・アンフェルを理由に、日本では活動を禁じられている血の旅団。しかし、宗教活動さえしなければ、何の問題も無い。
「ふざけやがって……」
男は僅かに開いた目でアルスを捉える。しかし、次の瞬間アルスの膝が額を捉える。
「がぁぁぁっ!!」
激しい脳震盪を起こした男が、銃を手放してその場に倒れる。アルスが流雫の元に駆け寄ると同時に、流雫は立てられた膝を掴むと、ズボンに血が滲む大腿に銃口を押し付ける。
「何が狙いだ!?」
怒りに満ちた問いは、しかし男には聞こえていない。朦朧とする意識で何か言い掛けるが、声も出ない。
「ルナ……」
恐怖すら感じさせるルナの口調に、プリィは身震いする。
「あれがルナだ」
とアルスは言った。
「お前を護るために、手段は問わない。ルナはそれだけ、お前のために必死だ」
空港の時も、プリィだとは気付いていなかったが、流雫は必死に助けようとした。……愛しい人を失ったことが、人を救いたい原動力。
「ルナが私のために……」
そう呟くプリィは、流雫にテネイベールの面影を見た気がした。尤も、それは偶然オッドアイが同じと云うだけで芽生えた妄想でしかないのだが。
丸腰のアルスとプリィを置き去りにするのは不安だが、澪と詩応が気になる。しかし、アルスは流雫の心理を読んでいたのか、男の喉仏を掴むと言った。
「ルナ、行け」
流雫は男が手放した銃を拾うと、
「アルス、プリィを頼む」
と言い残し、踵を返した。
2対2。しかし銃の口径で不利。アイコンタクトを交わす澪と詩応は、同時に靴音を鳴らした。
「澪!」
と声を上げる詩応に、男の目が向く。
「詩応さん!」
澪の声を掻き消すように響いた銃声、しかしそのボーイッシュな少女の身体に弾痕を残すことはできない。
詩応は銃を構え、引き金を引く。規則的に撃ち出された銃弾は3発、うち1発が男の腕に刺さった。
1発だけだが、動く標的に当てるのは難しい。しかも、首の怪我の後遺症を抱えている。手が震える中では、至難の業でしかない。奇跡に近い、と詩応は思った。
「ぐっ!」
銃ごと患部を押さえる男は、顔を歪めながら詩応を睨む。……幸いもう1人の男がいる、今頃あの女を捕まえているだろう。後は自分が逃げ切れればいい。そう思った男は、しかし大きな誤算をしていた。
イヤフォン越しに聞こえた
「プリィはアルスといる!」
の声に、澪は僅かに安堵を感じる。しかし、油断はできない。
「プリィはアルスといる!」
流雫の声が届いた澪は、しかし男女を仕留めるには至らず、どう凌ぐべきか頭を悩ませている。
「流雫は?」
「戻ってる」
その答えに、澪は
「ダメ!」
と返す。
「でも澪が……!」
その声と同時に、大きな銃声が鳴る。
「澪!」
声を上げた流雫は、目の前の階段を駆け上がった。男女2人は、突然現れたシルバーヘアの少年に気を取られる。警察でないことだけは判るが……。
「誰だ!?」
その問いに答えない流雫は、小口径の銃を下ろしたまま、破壊の女神に似た目で2人を睨む。
「邪魔するなぁ!」
そう叫んだ女は、銃を構える。
「流雫!」
澪と詩応の声が重なる、その瞬間流雫の身体が動く。男女の銃弾は流雫を捉えることができず、銃声だけが虚しく響いた。
「くっ!」
女が声を張り上げると同時に、流雫は踵を返して懐に飛び込んだ。異性に手を出すのは忍びないが、今はそう言っていられない。
力任せに振った銃身は、女の喉仏を捉えた。
「ごぼぉっ!!」
セミロングヘアを揺らしながら後ろに飛ばされた女は、喉を押さえて悶えながら、前屈みになる。銃は持ったままだが、噎せる度に集中力がリセットされ、構えるどころの話ではない。
「こ……の……!!」
女は殺意に満ちた目で睨む。しかし身体はその指示に従えない。苛立ちが女を支配する。
「銃さえ……奪えれば……」
と流雫は呟く。その声がイヤフォンを通じて、澪の鼓膜を揺らす。
「流雫……!」
と澪は声を上げた。
「聖女をどうする気だ!?」
と、馬乗りになったままのアルスは問う。その英語は通じていないが、今更答えが返ってくるとは思わないから、求めてもいない。プリィはその隣で、ただアルスを見守っている。
「何やってる!」
と声が響いた。何と言っているか判らないが、その声色に聞き覚えが有るアルスは少しだけ安堵の表情を浮かべ、顔を上げる。
ブロンドヘアの少年に見覚えが有った声の主は、黒いスーツを着た若めの男。咄嗟に英語で
「ルナは!?」
と問う。アルスは
「あっちだ」
と言い、首をその方向へ向ける。
「此奴を狙ってた奴だ」
と言ったアルスの隣で、男は手錠を取り出す。犯人を手際よく逮捕する光景に
「流石はディテクティブ・ミダガハラ」
とアルスは言い、男は表情一つ変えず
「よくやった」
と返した。
弥陀ヶ原陽介。澪の父、室堂常願の後輩刑事。流雫たちとは面識が有る。何より、流雫が慕っている。刑事が来たからには安全だ、と思ったアルスはプリィに
「怪我は無いな」
と問う。その隣で、フランス人2人に弥陀ヶ原は問うた。
「何が起きた?」
視界の端に流雫を捉えた詩応は、手負いの状態だが殺意だけは衰えない男に目を向ける。何故流雫が戻ってきているかは知らないが、つまり澪の援軍が現れたと云うこと。
痛みに抗い、血塗れの手で銃を握る男。詩応の残りは3発。咄嗟に地面を蹴った詩応は、元陸上部。足には後遺症が残らず、インターハイでも表彰台すら狙えそうだった俊足ぶりは健在だ。
銃を向けようとするも、男は少女の動きについていけない。どうにか腕を上げたが、その先にボーイッシュな少女はいない。詩応はその右隣から腕を掴み、背中の方向に力の限り振り回した。
「がっ!!あああああっ!!」
腕から聞こえる音を掻き消す悶絶の声を耳に残しながら、詩応は自分より大きな身体を地面に倒す。その手には銃が握られていない。それは詩応の踵のすぐ脇に落ちて軽く跳ねた。踵で銃身を蹴った詩応は、馬乗りになって自分の銃を男の顎に突き立てた。
「殺……す気か……?」
その問いに、詩応は
「彼女に危害を与えるなら」
と答える。……正しくは、先刻結託した4人に。そして詩応は問うた。
「聖女を狙う理由は?」
「……理由……?」
その反応に、詩応は手を緩めないまま
「理由も無いのに狙うハズが……」
と言い返す。
「何も……知らん……」
その言葉に、詩応は問い詰めるのを諦めた。恐らくそれで通す気だ。ならば、警察に引き渡すまで男を逃がさない……それだけだ。
シルバーヘアの少年は、後ろ向きにステップを刻み始めた。
「逃げるな!!」
その声を合図に、今度は澪が踵を浮かせた。
「こいつら……!」
そう声を上げる女を睨む少女は、小さな銃を構えて足下を狙う。先手必勝は報復を生む、しかしその報復が導く勝ちも有る。
女の1歩前で床に跳ねた銃弾、しかしそれは女の動きを一瞬鈍らせるには有効だった。そして、澪を撃ち殺しても問題無い、と思わせる。
その標的は一度だけ、不敵な笑みを浮かべる。それが不可解に思えた女は、その瞬間に致命的な誤算を起こした。
流雫は靴のグリップに任せ、鋭角にターンすると同時に跳び上がる。土踏まずが手摺を捉え、そして小柄な身体が宙に舞った。
三角跳びの要領で、女の視界に割り込む流雫。目障り、始末するならこいつから……女はそう思ったが、遅過ぎる。
流雫は咄嗟に銃を構え、引き金を引いた。至近距離の標的は、自分に向けられそうになった銃身。金属同士鈍い音を周囲に響かせると、女の手から銃を引き剥がす。
「あぁっ!!」
その声に続いた澪は、後ろから女の手を掴み、背中に回させる。
「離せ!」
「いいわ。警察が来ればね」
と言葉を返した澪の耳に
「澪!」
と聞き覚えが有る声が響く。少しだけ安堵した澪は、しかしこれからが本当の戦いだと思った。そう、警察による長い戦いなのだ。
3人の犯人は警察に逮捕された。5人は全員無事だったが、喜ぶ気にならない。
臨海署に通された5人は、部屋の都合でフランスにルーツを持つ3人と日本人2人に分かれ、取り調べを受けることになった。2時間掛かったが、プリィとアルスが長かった。
日本語が話せず流雫の通訳が必要だった以上に、狙われた理由に関しても一通り話す必要が有ったからだ。無論、教団の複雑な事情を隠しながらだから、どう言えばいいかは難しいところだったが。
5人が警察から解放されたのは、夕方前のことだった。気を取り直して臨海副都心で遊ぶことにした。特にプリィは、今夜の宿もネックになる。昨日はホテルに泊まったが、毎日そう云うワケにもいかない。
……今日だけは、最愛の少年の隣をプリィに譲る。そう決めた澪は、レインボーブリッジを望むデッキの端に佇む2人を、少し離れたカフェのデッキから眺めていた。
先刻はプリィの頬を引っ叩いたが、今は2人きりになることを望んでいる。だから先刻も、トーキョーホイールに送り出したのだ。
その心変わりは、アルスにとっては不可解だった。女と云うものは複雑だ、とアルスは思ったが、そうアリシアに言えば、それは男が安直な生き物だから、と言い返されるのは目に見えている。
澪は先刻のことには触れず、ただ流雫とプリィを眺める。その表情はどこか微笑ましく、しかし寂しそうで。詩応は、それが気懸かりだった。
「澪……?」
そう名を呼んだ詩応が見たダークブラウンの瞳は、濡れていた。
2人が抱える孤独は、その意味では今まで恵まれてきたあたしには判らない。
「あたしがついてるよ」
その言葉は、今の2人にとって何の力にもならない。
……もっと、2人の力になりたい。どうすれば、そうできるのか。
「……澪は近過ぎるんだよ」
と詩応は言った。
「既に十分過ぎるほど、流雫の力になってる。無力なんかじゃない」
「詩応さん……?」
「それぐらい、見てて判るからね。でも澪は近過ぎて逆に気付かない。ただそれだけ、何時だって流雫と一緒だってことだから、それはそれで微笑ましいけどね」
その言葉に、澪は頬を紅くする。
「プリィの救世主は、澪なのかもね」
と詩応は言った。
……流雫をバカにしたことへの怒りは残っている。しかし、プリィを助けることが流雫を支えることに結び付くのなら、そうするだけの話。
流雫を軸に据えて物事を捉えれば、何も迷うことは無い。あたしは、2人の力になる。
「……ありがと、詩応さん」
澪はそう言って、少しだけ微笑んでみせる。その表情に潜む凜々しい決意を見た詩応は、澪が愛しく思えた。
これだけ、人のために喜怒哀楽を露わにできる、そして立ち上がれる人は、詩応は流雫と澪以外知らない。
「私のために……」
と言ったプリィは、流雫を中心とした4人が自分を護ろうとしていることが、少し不思議だった。そして、それがアルスが言っていた結束の意味だと思い知らされる。
「僕だけじゃ、プリィを護れないから。みんながいて、だから護れた」
と言った流雫の安堵の表情に、プリィは聖女らしい微笑を浮かべ、しかし数秒後には表情を険しくする。
「セブが2人いるなら……何が何でも私のセブを連れ戻したい……」
とプリィは言う。流雫は一つだけ、疑問をぶつけた。
「日本に来た、本当の理由は何なんだ?」
「え?」
「1人でファーストクラスに乗ってるプリィを、僕は見た。ファーストだったのは豪華を選んだワケじゃなく、そこしか空席が無かったから。最後の1席だったりして」
と言ったシルバーヘアの少年に、プリィは
「……確かに最後だったと、父は言っていたわ」
答える。
「日本行きが決まったのはここ数日。だからそうするしかなかった。でも、そうしてでも日本に来る必要が有った。……ただの現実逃避で、そこまでするとは思えないんだ」
「……将来はインターポールに入れるんじゃない?本部、パリだし」
と言ったブロンドヘアの少女は、数秒だけ間を置いて答えた。
「……その通りよ。現実逃避じゃないわ。ただ、セブのクローンまでは知らなかった、それは本当よ」
「……まさか、セブが日本にいる?」
そう問うた流雫に、プリィは頷く。
「セブはアリスの弟として同行しているハズよ。それがどっちのセブかは判らないけど」
「じゃあ、セブを追って?」
その問いに、プリィは首を縦に振らなかった。
「セブを追ったところで、連れ去ることはできないわ。ルナたちが加担するなら、話は別だけど」
「……私が追っているのは……クローンのデータよ」
そう言ったプリィに、流雫は
「え……?」
と、眉間に皺を寄せた。
日本とフランスの科学者が集結して、アリスのクローンは生成された。ヒトクローンにまつわる、世界初の超長期プロジェクト。
聖女候補を死産したメスィドール家の窮状に目を付けた専属の医師が、親戚関係としてレンヌに顔を出したフリュクティドール家の長女からDNAを無断採取し、クローンの生成に踏み切った。
そのアリスが今日まで生きているから、プロジェクトそのものは大成功していると言える。
しかし、人工的に生み出された命への倫理的批判は非常に根強く、クローンの保護のために全てが極秘とされた。公には、クローンなど生成されていない。
日の目を見てはいけない快挙は、一部の科学者にとっては一種の屈辱でしかない。
そして聖女アリスは、生命体としては全面否定されて当然の立場。正しい、自然な形で産まれたことにするしかない。
「その医師は日本人で、クローン計画でもトップだったの。それが、クローンのデータを持ち出したことが発覚したの」
「でも、どうしてプリィが追うんだ?」
と流雫は問う。確かに、当局に関与させては計画がバレるから、そうできなかったことは容易に想像がつくが。
「私……とセブのDNAを悪用され、もしクローンを量産されれば、それは世界に混乱を招く。人工的生命体の社会的な地位や、その命そのものに関わる大きな問題をも引き起こす……その危険性を孕んでる」
「何より、無断採取されただけとは云え、フリュクティドール家にとってはその地位に関わる大問題に発展しかねないわ」
「だから、ファーストクラスを使ってでも、すぐにでも日本に行かなければ……」
「そうよ。全ては教団と一家のため。まさか、ルナと再会するとは思っていなかったけど」
と、プリィは言葉を被せた。
……何故プリィは二度も狙われたのか。日本に行くと云う動きを察知した連中が、口封じにと動いたのか。しかし、あまりにも大掛かり過ぎる。そして何より、彼女は今の流雫の問いに答えていない。
プリィ自身が、わざわざ日本に出向かなければならない理由が、流雫には見えてこない。一家は何故司祭ではなく、聖女候補とは云え未成年の少女を、それもたった1人で日本に行かせたのか。現にプリィは来日早々殺されかけているのだ。
「待て……」
と流雫は呟く。日本語が判らないプリィだが、流雫の表情から、何を言ったのかは何となく察しが付く。
「ルナ?」
プリィが名を呼ぶ。しかし、耳に届いていない。
……疑えばキリが無い。だが、今は全てを疑わざるを得ない。そう、彼女の家族さえも。
……十数秒の沈黙が、何倍にも感じられる。小さな溜め息を吐いて、流雫は言った。
「フリュクティドール家に、怪しい動きが有るとすれば……」
「私の一家を疑うの?」
と、プリィは思わず声を上げる。
「でも、今は全ての可能性を排除できないんだ」
と流雫は言う。そしてスマートフォンを取り出し、耳に当てた。
「ルナ?」
「おはよ、父さん」
と通話相手に言った流雫は、既に起きていた父、正徳に切り出した。フランス時間は7時だが、その頃には既に起きていることを一人息子は知っていた。
「……一つだけ教えて欲しいんだ。……今、日本にプリィが来てる。たった1人で」
「プリィって、あのプリィか!?」
と正徳は声を上げる。
「うん。僕の飛行機と同じだったんだ。……プリィの航空券、父さんが手配した?シエルフランスのファーストクラスで」
と流雫は問う。
プリィが来た時、ビジネスの話は何時も父がしていた。だから今回も、もし手配を掛けるなら父だろうと思っていたのだ。
「いや」
と父は答えた。
「あの一家が日本行きの手配を依頼してきたことは、一度も無い。恐らく、公式サイトを使ったんだろう」
「そっか……」
と言った流雫に、正徳は問う。
「プリィがどうかしたのか?」
「この前飛行機に乗り合わせて、東京の空港で少し話しただけ。懐かしかったけど、1人きりだったから少し気になって」
と流雫は答える。自分の家族を疑う気は毛頭無いが、余計なことは何も言わない方がいい。
流雫は少しだけ父と話し、スマートフォンを耳から離すと、プリィに言った。
「僕の家は、プリィの家に日本行きの航空券を出したことは無いらしい。一家が公式サイトで航空券を出して、その情報を洩らした……?」
「洩らしたって、何処に!?」
プリィの声は、怒りが露わになっている。流雫が家族を疑っているからだ。
彼女にとって、それが全て本当なら悪夢でしかない。だが、流雫が出鱈目なことを言っているとは思えない。
「……何処に、洩らしたの……」
プリィは声のトーンを一気に落とす。こう反応するのは、流雫には予測できていた。
十数年ぶりに会った少女を困惑させる気は無い。しかし、困惑するのは当然だ。全て正しければ、家族を誰も信じられなくなるからだ。
……今のプリィを受け止められるほど、僕は大人じゃない。どうすれば目の前の幼馴染みを救えるのか……。
「……何故プリィが、台場にいると……」
と澪は言った。空港にいたことは別として、まるで彼女の居場所を完全に把握しているようだ。
「常に誰かが監視して、居場所を教えているのか?」
そう言ったアルスに詩応は
「まさか」
と返す。
「もっと簡単な手が有る……ハズ……」
そう言葉を切った彼女が何を思ったか、ボブカットの少女には察しが付いた。そして、それが答えだと思った。
「っ……」
澪は思わず唇を噛む。思い出すのは、軽くトラウマにすらなるほどの苦しい記憶だった。
詩応が意識不明、心肺停止。玄関で母にそう話す父親の声が聞こえた澪は、リビングで泣き叫んだ。
名古屋に帰る新幹線の車内で、詩応は彼女を追っていた連中に首を切られた。手に後遺症が残った程度で済んだのは、奇跡としか言い様が無い。
彼女に渡された教団の手帳に、忘れ物トラッカーが隠され、動きを常に監視されていた。そして、品川から走る密室に乗った詩応は、辛うじて座れた席で、罠に陥ったことに気付かないまま、首から血を流した。
「……トラッカーだ……」
詩応は小さな声で言った。プリィの持ち物に仕組まれているのか?だとすると、一体何に?
「プリィの持ち物……」
と詩応は呟く。
彼女の持ち物は、小さなポーチ1つ。中身は恐らく、パスポートと財布とスマートフォン、そして教典だけだろう。そのどれもに仕組むのは、難しそうな気がする。
「……一つだけ有ります……」
と澪は言った。彼女の持ち物で、唯一絶対に紛失の心配が無いもの。
「何だい?」
そう問うた詩応の目を見る澪は、少し深めの呼吸を置いて言った。
「……ネックレス……」
その言葉に、詩応は目を見開いた。
……プリィの首元を飾るネックレス。彼女が、文字通り肌身離さず身に着けている。命の次に、いや命より大事なアイテム。それなら、紛失や盗難の心配は最も小さい。
「流雫には悪いけど……」
と言い、澪は立ち上がった。
「プリィ!そのネックレスを渡して!」
と、走ってくる澪が言った。
「澪!?」
「いきなり何なの!?」
突然のことに困惑するプリィ、しかし澪は
「渡して!」
とだけ繰り返す。
「澪……!?」
流石に流雫も困惑するが、すぐにプリィに顔を向け
「……僕に渡して」
と言う。
「ルナまで!?何する気!?」
「ミオが渡してと言ってる。……そのネックレスに秘密が有るハズ」
と流雫は言った。澪が、何の理由も無いのに、人のものを奪うような真似はしないからだ。
「これは大事な聖女の証……!」
プリィは頑なに拒否する。しかし澪も譲らない。
「だからよ!それが有るから、居場所がバレてるの!!」
「居場所が……!?」
「空港からの、日本での足取りがバレてる。そうでなきゃ、ピンポイントで狙ってこないわ!」
強い口調の澪の声が、プリィを揺さぶる。流雫は早くなる心臓の鼓動を抑えながら、プリィに問うた。
「……ネックレス、聖女の証として渡されたのは何時頃の話……?」
ブロンドヘアの少女は、言葉に詰まる。
……大事な家族を疑われている。しかし、目の前の2人は自分を貶めたいワケではない。寧ろ、助けたいと思っている。そのために、疑わざるを得ないのだ。
数秒経って、プリィは答えた。
「……1週間前。航空券と同時に」
「その時、何か言ってなかった?」
「……これは、女神がお前を護るための聖なる道具だ。絶対に誰にも渡すな、奪われるな」
と、プリィは更に答える。その問の主は、恋人に顔を向けて頷く。澪が読んだ通りか。
流雫は言った。
「……それは聖なる道具じゃない。僕が預かる。プリィのために」
「でもこれは……」
「ルナを信じて下さい。……セブのためにも」
と、澪はプリィの言葉に被せた。
……弟のため、と云う言葉で脅しているようにすら思える。それでも、目の前の少女のためには、形振り構っていられない。それが、流雫と澪のポリシーだった。
「……判ったわ……」
とプリィは言い、ネックレスを外して流雫に渡す。両手で受け取った少年は、ショルダーバッグの奥底に入れた。
「……でも、次は流雫が……」
と澪は言う。そう、プリィを狙っていると思った男が、流雫を襲う可能性も有る。
「その時は、返り討ちにするだけだよ。……何が目的か吐かせたい」
と流雫は言った。
決してイキりたいのではなく、想像できる限り他に方法が無いのだ。そして、このネックレスの秘密が思い過ごしなら、それに越したことは無い。
……一見非常識で形振り構っていなくても、流雫を信じたから今まで生き延びてきた。だから、今も流雫を信じる。それだけのことだ。
「……プリィは、今日は何処に泊まるの?」
「未だ決めてない。決めようが無くて、その日空いてるところに飛び込んでる」
と、流雫の問いに答えるプリィ。渡航先で宿を当日に決める……そのノープランぶりから見ても、彼女の来日は不可解な点が多い。
澪は無意識に
「……あたしの家に来ます?」
と言った。元々詩応を泊める気だったが、もう1人だけならどうにかなる。
「でも」
「……そうできるなら、そうしてほしいな。その方が安全だし」
と流雫はプリィの言葉に被せる。その瞬間、プリィの今日の宿が決まった。
流雫とアルスは、2人で安いホテルに泊まることにした。空港の近くだ。
正体不明の連中が、プリィのネックレスを持っている流雫を追ってくるだろう。だから、都内北端の澪の家から離れたかった。
新宿のファストファッションの店で安い服を入手したのは、流雫とプリィだった。澪と詩応がコーディネートしたのだ。特にプリィは、その装束が目立つだけに、普通の服を手に入れる必要が有った。
別れる直前、流雫とプリィが再会したあの広場に戻った5人。詩応は、流雫と澪を2人きりにする時間を設けた。
昨日から、2人がカップルらしく一緒にいる時間がほぼ皆無なのが、気になっていた。やはり、流雫と澪には一緒に過ごしてほしい。その光景を眺めていると、詩応自身何か救われた気になるからだ。
「……流雫は、何も間違ってないよ」
と澪は言った。
特殊な理由が有るにせよ、恋人の澪よりプリィを優先している。流雫はそれに罪悪感を感じていた。
しかし、澪はそう思っていない。寧ろ、そう云う性格だから愛しく感じる。
愛しているが故に、少しだけ距離を置きたいと思ったことは有る。しかし、少しでも別れたいと思ったことはこの2年近く、一度も無い。
「間違ってない。だから、あたしは流雫の力になりたい」
と澪は続け、目を閉じて最愛の少年の唇を奪った。
「ん……、ん……ぅ……」
微かに息苦しくなったからか、澪の心臓の鼓動が早くなる。無意識に指を絡めた2人の手首を飾るブレスレットが、小さな音を立てた。
全ての音がシャットアウトされた、静寂に包まれる錯覚。唇のくすぐったさや息苦しさが彩る、切なさや愛しさを、記憶に刻み付ける。この命が尽きるまで、いや……尽きても忘れないようにと。
微かに熱い息を吐きながら、唇を離す2人。少しだけ濡れた澪の瞳には、隣に立って護るべき少年の顔だけが映る。
……流雫なら、プリィさえも護れる。
甘ったるい瞬間から目を背けた3人は、それぞれが護りたい人を思い出す。
詩応は、名古屋にいる同性の恋人。詩応の1年後輩で、陸上部のマネージャーだった。かつて流雫や澪たちと一緒に戦った事件では、東京に駆け付けて反撃のきっかけを作った立役者。
アルスは、レンヌにいるアリシア。腐れ縁で、何時も掌で転がされている感が有る。しかし、アルスを誰より知り尽くした、心強いパートナーだ。
そしてプリィは、最愛の弟セバスチャン。中央教会の正統後継者として産まれながらも、姉として弟には自由に生きてほしいと思う。
……今頭に思い描く人のために、そして今この場に集結したフレンドのために。誰一人殺されない。何にも揺さぶられない、誰からも断ち切られないほどの意志を、それぞれが静かに確かめる。
突然、ブロンドヘアの少女は、目を閉じてその場に跪いた。
ミオ、シノ、アルス、そしてルナ。4人が自分を護ろうとしている。……ソレイエドールよ、この4人に絶対的な守護を与え給え。そう祈ることが、今私が唯一できること。プリィはそう思っていた。