不鮮明ながらも開けていく視界が、最初に捉えたのは、白い天井だった。そして目元には、クリアグリーンの何かが見える。酸素マスクか。
「……助かったんだ……」
誰にも聞こえないほどの声で呟く流雫。しかし、それよりも気になることが有る。
顔を左に向けると、其処には同じようにベッドに寝かされている少女がいた。
「澪……」
弱々しい声で、最愛の存在の名を呟く流雫。
……胸は微かに動いている。生きている。それに安堵する流雫は、意識を失う直前のことを思い出していた。
……あの時、扉が閉じられ、二酸化炭素消火設備が作動した。しかし、火災報知器も鳴らなければ煙すら見えなかった。
誰かが外部から、手動で作動させたことは明白だ。アリスを撃った犯人は用済みだからと処分し、そうじゃない4人は存在が不都合だからと処分する。それが目的だったとしても、何ら不思議ではない。
あの3人とグルの奴がいる。それも、あの礼拝堂に最初からいなかった奴が。しかし、どっちにしろ澪を殺されかけた恨みが何よりも大きい。
眠る恋人を見つめる流雫のオッドアイに、ダークブラウンの瞳が映る。
「る……、な……?」
「澪……?」
そう呼んだ流雫の視界は急速に滲む。澪が生きていることへの安堵、そして澪も被害に遭ったことへの怒りが交錯する。
「……泣かないの……流雫……」
と優しく言った澪の声は、酸素マスクで反響して届かない。ただ、微かに見える唇の動きだけで、そう言っているのが流雫には判る。
そして、そう言った澪も泣いていた。流雫が生きていることに、安堵が止まらない。
……流雫が死ぬ、その恐怖に澪が襲われたのは二度目。しかし、今度も彼は助かった。やはり、全ては美桜が彼を護ったから……。ボブカットの少女は、そう思った。
「ありがと……美桜さん……」
澪は呟いた。
特に異常は見られなかった2人は、割と早く処置室を出られた。最初に出迎えたのは詩応だった。
「澪……流雫……!」
名を呼んだ少女に、澪は抱きつく。直前まで酸素マスクの世話になっていたとは思えない。
詩応が駆け付けたから、助かった。そのことを知るのは澪だけだ。
「ありがと……詩応さん……!」
澪は嗚咽混じりの声で囁く。流雫はその様子から目を逸らし、近寄ってくるアルスとハイタッチした。
「サンキュ、アルス」
と流雫は言う。彼が祈りを捧げた通り、ルージェエールの守護が2人を護ったからだ。
一度だけ微笑んだアルスは、しかし表情を険しくし、女子高生2人に背を向ける。
「何が起きた?」
「……アリスが撃たれて、閉じ込められて消火設備が……」
と、流雫は答える。先刻まで澪に泣き顔を見せていた面影は無い。
澪が無事である以上、今は冷静に次に進むだけだ。そう、事件の謎を突き詰める。
消火設備、その単語でアルスは2人が搬送された原因を察した。何者かが窒息死を企んだのだ。
「誰が設備を動かしたのか……」
「アリスを撃った奴以外に、怪しいのは見なかったか?」
と問うフランス人に、流雫は
「特には……」
と答える。だが、すぐに別の可能性が頭に浮かぶ。
「ただ、裏方の職員なら誰にも見つからず、消火スイッチを動かせる」
「グルがいたのか……?」
と言ったアルスに、流雫は答える。
「……最初からアリスの秘密を知っていれば、事と次第によっては消火設備を動かすと云うルールを設けることはできる。後は実行するかしないか」
「こうなることは、或る意味計算済み……そう言いたいのか?」
アルスの言葉に、流雫は頷く。そうでもなければ、あの手段に出ないだろう。
「僕とミオがいて、戦うハメになったことは想定外だっただろうけど。だから、消火設備を動かした」
と流雫は言った。
しかし、その言葉を聞いていたフランス人には、何よりも気懸かりなことが有る。
「……事が公になった以上、最早あの教会にアリスの居場所は無い。セブもな」
と、淡々と言うアルスは、その裏でほぼ同い年の同郷4人を案じる。
……秘密がバレたメスィドール家、マルティネスの死で怪しまれるフリュクティドール家。2つの名家の地位は、保って一両日。そして、その秘密故に命が狙われるリスクは、未だ残っている。
聖女としての柵が助けを認めないとしても、アルスはその手を無理矢理でも掴むと決めていた。形はどう有れ、この世界に在る命を教団のために粗雑に扱われ、理不尽に奪われてたまるか。
マルガレーテ・ヴァイスヴォルフ。その名は、単なるアリシアの思いつきだった。仮に、ヴァーグナーが偽名だとすれば。孤児院にいた理由が、本当の孤児だからじゃないとすれば。そして、ヴァイスヴォルフ家の末裔ならば。
サーチエンジンが吐き出したのは、マルガレーテ・ヴァーグナー・ヴァイスヴォルフと云う名前だった。
絵画が得意で、国内のコンクールでも入賞経験を持つ。その時のローカルニュースが引っ掛かり、トップに表示されていた。
……あの名字は昔からミドルネームだった。孤児院に引き渡された間だけ、姓として名乗っていた。
孤児院にいたのは2年間。その前にケルンの名家に何か起きたと云う記録は無い。語弊を招く言い方をすれば、孤児を偽装したのか。
……ヴァイスヴォルフ家は、マルガレーテをマルティネス家に引き取らせる前提で孤児院に預けた。そして、マルティネスの姓を名乗るようになった後は聖女となることを画策した。しかし、選ばれたのはアデルだった。
そのアデルが失脚したが、ヴァイスヴォルフはメスィドール家に移ることで、大聖堂とのパイプを維持した。そして今、アリスの正体が日の目に曝されたことで、聖女と総司祭の座は間違い無く空白になる。
そのタイミングで、マルガレーテ……マルグリットを聖女に選出させれば、年が離れた兄の自分が総司祭の座に就ける。本来就くことになるハズの父は既に他界しているし、マルティネス家は知っての通りだからだ。
流れとしては出来過ぎだが、そうだとしても不思議ではない。禁断の存在を排除して教団の救世主となり、救世主が総司祭として教団を統べると云う、最高の形で栄光を手に入れられるのだ。
……だとしても、全ては此処で妄想しているだけのこと。エビデンスが必要……そう思ったアリシアは、休憩時間の終わり間際にスマートフォンを手にする。相手の声が聞こえると、ロングの赤毛を一度だけ手で雑に梳いた少女は言った。
「パパ、教えてほしいことが……」
アリスの容体は回復した。しかし入院が必要だ。保護者としてセブとセバス、そしてプリィが残ることになった。弥陀ヶ原は取調と聖女の護衛を兼ねて、一晩一緒にいることになる。
残る4人は、澪の父が運転するセダンで臨海署へ連行された。時間も時間だし、此処で夜明かしすることになるだろう。或る意味最悪な夜だが、皮肉なことに此処が最も安全だ。
取調室に入る4人。そのうち直接犯人と戦ったのは流雫と澪だけだ。そのカップルからは、生々しい一部始終が話される。その後で、常願は
「犯人は全員死亡した。原因は窒息死だ。お前たちが生きていたのは奇跡に近い」
と告げる。……或る意味、黒幕の思い通りになったか。
「教会前に残っていた連中は襲撃を支持していた。禁断の存在は粛清されるべきだとな」
と続けた常願に、澪は
「冗談じゃないわ!」
と言葉を被せる。
「人の命を、何だと思ってるの……!?」
怒りと悲しみを交錯させる澪の表情を見ていられない流雫は、机の下でその手を握る。少しでも、こうすることで彼女を宥め、慰めることができるなら。
そして、思うがままに言った。澪を殺されかけた仕返し、その覚悟を決めるために。
「……人の命が踏み台なら、絶対に踏ませはしない」
その言葉を、唯一立ったまま壁に寄り掛かりながら翻訳アプリで追っていたアルスは、
「……それか」
と呟く。
……ド・ゴール空港で見たもう1人の秘書は、病院に搬送されていない。つまり、最初から礼拝堂にいなかった。元総司祭の鎮魂の儀だ、聖女に近い立場で出席しないのは不自然だ。
儀式より重要な用件、それは聖女を衆人環視の完璧なタイミングで貶めること。そのために礼拝堂に行かなかった。ただ、消火設備を作動させたのは本人ではないだろう。
その秘書とは……エルンスト・ギョームことルートヴィヒ・ヴァイスヴォルフ。間違ってはいないハズだ。
粛清には失敗したが、貶めることができた時点で作戦は成功だろう。大教会に集まった信者が、予想通りの反応を示しているからだ。
これで、クローンの聖女を踏み台にすることができた。後は自慢の処世術と天性の才能で、聖女一家を裏で操るか、他の手段に出るか。それは判らないが。
今頃、教会から離れた何処かで作戦の成功を祝っているだろう。穏便にとはいかなかったが、この混乱は過渡期故に避けられないものだ、と思いながら。
これが全て事実だとしても、ヴァイスヴォルフの企みは必ず崩れる。三つの間違いを犯しているからだ。
アリスは生きていること。敵に回したのが、どんな陰謀にも決して屈しない少年であること。そして、彼の絶対的な味方が此処に集結していること。
ふと、アルスのスマートフォンが短い通知を鳴らす。恋人からのメッセージだ。
「マルグリットはヴァイスヴォルフの妹。アリスの後継になる可能性が高い」
「もしそうなると、次期総司祭はマルティネス家ではなく、ヴァイスヴォルフ」
と続いた文字列を凝視するアルス。
「何故そう言える?」
「パパからよ。ダンケルクの関係筋から手に入れたの」
アリシアはそう打ち返した。
アリスの秘密が知れ渡ったことで、教会内は大騒ぎのようだが、その最中に入手した情報だ。
「……ビンゴか」
とアルスは呟く。
他の手段……つまり自分の妹を聖女として、当人は総司祭になる。そうすれば、聖女が失脚しない限り、その地位は安泰だ。
世代交代と言えば聞こえはよいが、実態は単なる乗っ取りだ。それでも、クローンが聖女でいるよりはマシなのか。
弥陀ヶ原に顔を向けたアルスは、
「……アリスの秘書、ヴァイスヴォルフが怪しい。教会の件も含め、一連の事件に関与している可能性が極めて高い」
と言った。
父の職場に泊まるのは初めてだったが、流雫とアルスが何処で夜を明かすか、と思えば逆に好都合。澪はそう思った。そうやって、少しでもポジティブになるものを見つけなければ、やってられないのが本音だ。
性別の都合で流雫とは相部屋にできないのは、仕方ないが不満。だから澪は、隣のコンビニに行く口実で流雫を外に誘った。
冷たいココアを口にした後で、臨海署裏の岸壁に並ぶ2人。こうして隣にいるだけで感じられる安寧に、何時までも浸っていたい。しかし。
「……流雫」
と名を呼んだ澪は、無意識に最愛の少年を抱きしめた。
「……怖かった……!」
そう嗚咽混じりの声を漏らす少女。
……自分が死ぬ恐怖、何より流雫が殺される恐怖に襲われた澪の感情が、2人きりになったことで爆発した。
「流雫ぁ……流雫ぁ……っ……!!」
壊れたように何度も名前を呼ぶ澪の身体に、流雫の熱が感じられる。それが少しずつ、恐怖を溶かしていく。
何も言わず、今この瞬間の感情を受け止める存在が、どれほど心強いか。だから澪は、流雫の絶対的な味方なのだ。流雫を護る……美桜と夢で交わしたあの約束も、その信念が根底に在るからこそだ。夢に出てきた美桜は、澪の背中を軽く押したに過ぎない。
流雫は何も言わず、ただ澪の頭を撫でる。……澪に抱き抱えられ、人工呼吸された記憶すら無い。しかし、澪はそのことに触れなかった。助かったからどうでもよいことなのか、恐怖を思い出すからなのかは判らないが。
一頻り泣いて、澪は漸く落ち着きを取り戻す。
「ありがと……流雫……」
と、息を切らせて言った澪に、流雫は
「サンキュ、澪……」
と囁く。澪がいるから、死ななくて済んだ、と思っている。
ボブカットを揺らして、最愛の少年の視界を支配する澪。その唇に、流雫の唇が触れた。
「ん……、……んっ……ぅ……」
先刻とは違う息苦しさに抗うように、絡めた指に無意識に力が入る。その微かな痛みと、唇に伝わる熱が愛しい。互いの生を、何よりも感じていられる。
「っ……はぁっ……、……っ……」
今までで最も長いキスを交わし、唇を離す2人は、互いの瞳に誓う。このキスを最後にしないと。
翌朝。疲労が溜まっていたのか、4人は夢を見ること無く目を覚ました。しかし、男子2人は眠そうだ。
再開された取調、そのスタートは昨夜のアルスの言葉だった。それと同時に、寝ている間にアリシアから恋人に届いていたメッセージを、流雫が翻訳する。
……マルティネスの死は、他殺と断定された。直接の死因は水死だが、体内から大量のアルコールが検出されたことで、急性アルコール中毒状態だったことが判明した。
そうなるほどにアルコールを摂取して、歩くどころか立つことさえ侭ならないハズだ。元総司祭に同伴し、運河に転落させた何者かがいる……その線で捜査が進められている。
そして、マルティネスはストラスブールを出発後サン・ドニに向かい、翌日ダンケルク入りする予定だった。その一方、パリの中央教会には立ち寄らなかったことが判明している。
酒を飲ませた相手は中央教会とは無関係。つまり、フリュクティドール家は無実。焦点は、元総司祭は誰と会っていたのか、だ。
「……ダンケルクでの部下……?」
と流雫は言う。アルスがアイコンタクトする、それが合図だった。
「マルティネス家に仕えていた頃からの部下がいるなら、それに指示を出した。元総司祭とほぼ対等に話せる立場の人物となると、かなり絞られると思う」
「ミヤキがサン・ドニからデータを持ち出したから、サン・ドニに行けば真相を掴めると言って、マルティネスを向かわせた」
「その時点で、ヴァイスヴォルフは聖女の秘密を既に知っていた」
「そして夜、その部下と酒を酌み交わした。恐らく、メスィドール家失脚の前祝い。そこで大量に飲まされたマルティネスは、意識を失う」
「そして部下が介抱を装いつつ、隙を見て運河に転落させた……」
そう交互にフランス語で語る男子2人の会話を、翻訳アプリで追っていた日本人3人は唖然としていた。仮に、この2人が実行犯だとしても驚かない、それほどのリアリティが有るからだ。
「だが、詰めが甘い。俺が犯人なら、転落させた後ですぐ警察を呼ぶ。そうすれば、事故死に見せ掛けることができる。人が落ちたから通報した、自分も助けようとしたが、叶わなかったと」
と言ったアルスは、それがヴァイスヴォルフサイドの致命的なミスだと信じていたかった。
「僅かな間でも、フリュクティドール家に疑惑の目を向けさせる。それができると思ったから、事故に見せ掛けなかった」
とアルスは言い、
「それが前提だが……」
と続きを流雫に振った。
「その死の連絡の後で、ヴァイスヴォルフは自分の味方となる日本の信者に秘密を話し、義憤で犯行に及ばせる。それが、僕が見たあの騒ぎ……」
「……でも」
と、澪が流雫に目を向けながら口を挟む。その声に、少しの怒りが滲んでいた。
「アリスの秘密をバラすだけで失脚させられるのなら、何故撃ったの?殺そうとしたの?」
「……恐らくは、義憤の暴走……」
と流雫は答える。
「敬虔な信者故に、禁断の存在を生かしたままにはできなかった。ただ、それがヴァイスヴォルフにとっては誤算だった。だから消火設備で、犯人を殺そうとした……罰として」
部屋に戻った流雫とアルスは、隣にいながら互いに背を向け、2時過ぎまで延々とメッセージを送り合っていた。時間も時間だし、小声でも話すのは憚られたからだ。
今澪がぶつけてきた疑問は、流雫も気になっていた。そしてアルスとの遣り取りのうちに、ヴァイスヴォルフとしては殺す気ではなかった……その答えに辿り着いた。
消火設備を使えば、犯人は死ぬ。しかし、聖女も死ぬ。ただ、どっちにしろ失脚は確定しているのだから、アリスの生死は最早どうでもよかったことになる。
だが、そのために流雫と澪が殺されかけた。とばっちり以外の何者でもない……。
詩応は話を聞いているだけで、何も言わない。しかし、その苛立ちを露わにした表情で、彼女が何を思っているのか、澪には判る。
……アリスを救いたい。何もかも知っているアルスがいるからこそ、聖女の弱さを知ることができて、そう思うようになった。
そして、彼女が最早教団での居場所を完全に失ったことは明白だが、だから一層救いたい、と思う。人工的とは云え生まれてきた、彼女の命そのものを。
「……絶対救ってみせる。詩応さんには、あたしも流雫もいるんですから」
と澪は言った。
……そう明確に言える澪の慈悲や強さは、何時でも詩応を立ち上がらせる。他の人が言えば安っぽく聞こえる言葉も、澪が言えば、絶対的な強さに感じられるのだ。
「……ああ」
とだけ答えた詩応は、微かな微笑を浮かべる。それが取り繕いではない、と判った澪は微笑を返した。
臨海署に背を向ける4人、その行き先は決まっていた。
この数日で何度も足を運んだ渋谷、トーキョーアタックの慰霊碑に正対する流雫は
「……サンキュ、美桜」
と呟く。自分を助けたのは澪だったが、澪を助けたのは美桜……そう思っていた。
僕は美桜に何もしてやれなかった、なのに美桜は護ろうとしている、僕や澪を。その守護に頼ってばかりだ……そう思っていた流雫の隣に立った澪は言った。
「ありがと、美桜さん」
慰霊碑に向き合うあの2人にとっては、この場所こそ聖地。詩応とアルスにはそう思える。
流雫はその2人に振り返り、言った。
「……行こう」
その瞳には、新たな決意が宿っている。
何が有っても、立ち向かえる、戦える。この目に映る3人がついていれば。誰もが、そう思っていた。
「結局、聖女とは何なのかしら……」
無機質で殺風景な病室で、ブロンドヘアの少女はベッドに身体を預けたまま、言った。目を覚ました1時間後のことだ。
隣には、自分と瓜二つの少女がいる。一方、セブとセバスは外にいる。この1人用個室にいるのは、聖女とそのオリジナルだけだ。
「……本当は、私が身代わりなのに……」
と言ったプリィに、アリスは
「私の秘密がバレた時点で、身代わりも何も無いわ……」
と言葉を被せ、目を閉じる。そもそも、身代わりと云っても、影武者とはニュアンスが違う。
「……セブが日本に渡り、心配だったから追った。褒められたことではないけど、私は貴女を咎める気は無いわ。尤も、渡ったのはセバスだったけど」
「クローンの秘密がバレた。メスィドール家栄光の時代は短命に終わるわ」
と続けたアリスの声は、何処か安堵が混ざっていた。聖女でなくなることは避けられないが、それが立場からの解放をもたらすからか。
しかし、プリィの目を見つめ、諭すように言う。
「ただ、これは始まりに過ぎない。そう思ってるわ」
「ベースの遺伝子を持つ私や、私の一家も標的になる……?」
「それよりも大きなこと」
とアリスは言い、一呼吸置いて続けた。
「次の聖女は、恐らくマルグリット。彼女自身は、それに相応しいだけの人物だと思うわ。ただ、その背後が問題なの」
「でも、元総司祭は既に……」
とプリィが言ったと同時に、病室のドアが開く。聖女の目が捉えたのは、血の旅団の信者だった。
「聖女アリス、お前に会わせたいフレンドがいる」
「……立ち去りなさい……」
と、アリスはアルスの言葉に被せる。だが、教会で見た時のような勢いは感じられない。
「会わせるために連れてきた。帰すワケにはいかない」
そう言ったアルスが外に目を向けると、それが合図となって、僅かに見覚えが有る2人が入ってくる。
「……昨日の……」
とだけ言ったアリスは、しかしそれ以上何も言わない。あの惨劇を思い出すからだ。
しかし、空港と礼拝堂では遠目からだったが、今は至近距離。日本人らしくない少年と日本人の少女、それらの顔が鮮明に判る。
「……一命は取り留めたようで、安心しました……」
「ソレイエドールの守護が有ったからよ」
と、澪に答えるアリス。それと同時に、アルスは黙って退室する。今、自分は邪魔だからだ。そして、介入するまでもない。
「……僕はルナ」
「あたしは……ミオです……」
そう名乗った2人に、アリスは
「……改めて、アリスよ」
とだけ答え、オッドアイの少年に目を向ける。
……破壊の女神、テネイベールと同じパターンの目。やはり目立つ。しかし、今は何処か頼もしく見える。
流雫は、愛する祖国の言葉で言った。
「僕は……アリスを救いたい」
「僕は……アリスを救いたい」
その言葉に目を見開く聖女。その目を見つめながら、流雫は続ける。
「聖女アリスを愛する人が……泣かなくて済むのなら」
……神でないものに縋る、それはタブーだと教えられて、アリスは生きてきた。人に頼ることを知らないまま育った。そして、助けるだの護るだのと言ってくる信者もいたが、全部言葉だけだった。
今は、謂わば非常事態。それでも信じてはいけないのか、否か。予想外の言葉に、聖女は戸惑っている。
その背中を押したい、そう思ったプリィは言った。
「……私も、ルナやミオに助けられた。2人は言葉だけじゃない、必ず誓いを果たすわ」
「……あたしは聖女の力になる。聖女の未来のためにも」
と澪が続く。
殺されかけた人を護りたい。聖女を見知らぬ地で孤独にしない。流雫に盲目的だからではなく、刑事の娘としての血が、立ち上がらせる。
2人の目を見つめるアリスは、一つの答えに辿り着く。
……血の旅団信者と、彼が引き合わせた3人は、確かにグルだった。唯一間違っていたのは、自分の味方だと云うこと。そして、流雫が言った愛する人……それはセブのことだと思いたい。
愛しいセブのためにも、死ぬワケにはいかない。それが、聖女の地位を失う運命のアリスの、ルナの言葉に見出した新たな存在理由。
運命とは、皮肉と矛盾に満ちたものだ、と思い知らされる。しかし、その手に触れることができれば、その先の未来も見えるハズ。それが明るいものだと信じたい。
「……ルナ、ミオ……近くに寄りなさい……」
その言葉に従ってベッドの脇に寄った2人に向かい、アリスは目を閉じる。
「……我が女神ソレイエドールに誓う。私は彼らの手を掴む。この教団と、私自身の未来のために」
「私は願う。未来を導かんとする2人に、絶対的な守護を与え給え」
綺麗なフランス語の後で、アリスは2人に微かな微笑を見せる。それは彼女なりの、2人を信じると云う証だった。
流雫と澪は、その瞳は聖女に相応しいと思った。しかし、それが余計に、クローンだからと排除されようとしていることに怒りを覚えさせる。
詩応やアルス、アリシアの力を借りて、決して屈してはいけない戦いに挑む流雫と澪。その瞳に、テネイベールとソレイエドールの光を見たのは、幻じゃない……アリスはそう思いたかった。
閉ざされた部屋で、4人が何を話しているかは判らない。しかし詩応とアルスは、密かに手応えを感じていた。
流雫と澪の2人が欲しいのは、安寧を手に入れた聖女の微笑。今まで欲しがっていたのは、自分と愛する人のために見せる微笑。そのために戦うだけだ。2人の目には、そう映る。だからこそ、2人を信じていられる。
「……アンタもよくやるよ」
と詩応は微笑混じりに言う。アルスは
「俺は話に乗っただけだ。決めて動いたのはルナだ」
とだけ返しながら、先刻のアリスとの、短い遣り取りを思い返していた。
……立ち去りなさい。今し方耳にしたあの言葉は、今までのそれとは正反対に聞こえた。聖女としての立場を失う、空虚な自分を見せるワケにはいかないからか。
だが、今の彼女には支えになる人がいる。それに頼っていればいい。皮肉だが、聖女の立場が危うくなった今、漸くアリスは人間臭くなった気がする。
都内のホテルを後にした、ライトブラウンのショートヘアの青年は、黒いミニバンタクシーの後部座席で腕を組んでいた。その目付きは、蛙を睨む蛇のように鋭い。
……こうなるハズではなかった。昨夜から何度、そう思ったか。
「バカ共が……」
とドイツ語で呟いたが、全てが遅過ぎる。
敬虔は時に足枷になる、そう判っていたハズだが、まさか自分が足下を掬われるとは、思っていなかった。
……アリスを殺せと指示した覚えは無い。失脚させればよかっただけだからだ。マルティネスの死も、殺せと指示したワケではない。しかし、結果は予想外で最悪だった。
そして何より、ミヤキの死は最大の痛手だ。その恩恵を最も受ける連中……。思い当たる節は有る。
タクシーの行き先は府中。東京競馬場が有名だが、その近くに目的地が有る。近くに建つ大手飲料メーカーの研究開発施設を思わせるような、無機質な小さい建物。
そのエントランスで出迎えた中年の男は、青年に
「バロン・フォン・ヴァイスヴォルフ」
と名を呼ぶ。
「まさか此処までお越しになるとは」
「緊急事態でね、呼び出すより早いと思った」
と言うと、男は応接室へドイツ人を通した。
「マルティネスの件は気の毒だった」
と話を切り出した男は、眼鏡を外してレンズを拭く。その黒いテンプルには、ミキツグ・オギと刻まれている。
小城幹禎
「君はクローンを否定していたな。アリスの秘密を洩らしたのも、君が黒幕か?」
「我が教団にとって、クローンは禁断の存在だ。それが聖女など、認めるワケにはいかない」
と答えたヴァイスヴォルフに、小城は言い返す。
「だが、君が余計なことをしたところで、アリスを生成した事実は変わらないし、クローン技術の発展は減速しない。熱心な研究者が、日本を救うために日夜研究に勤しんでいる」
「日本を救うため?」
「日本の出生率の低水準は深刻な問題だ。しかし外国人移住者の定着は、根本的な解決にはならない。日本人の遺伝子を持つクローン同士を交配させれば、新たな日本人が生まれ、繰り返すことで解決に寄与するようになる。そのためにクローンが必要なのだ」
「要は、繁殖の道具か……」
と言ったヴァイスヴォルフは、もう一つの疑問をぶつける。
「……ミヤキを殺したのは誰だ?」
「ミヤキ……彼女も気の毒だった。もし犯人を知っているなら、私が殺しているところだよ。それほど、彼女は必要な存在だった」
と答えた小城に、ヴァイスヴォルフは数秒の沈黙を置いて問う。
「……犯人は、クローンが不都合なサイドの仕業に見せ掛ける気か?」
「どう云う意味だ?」
と小城は問い返す。
「教団の理念は別として、クローンが不都合なのは、俺とマルティネス家ぐらいなものだ。特にマルティネス家は、メスィドール家に聖女と総司祭の座を追われたと思っている。つまり東部教会サイドには、クローンの生みの親を殺すべき理由が有る」
「そして、実行犯は俺やマルティネス家からの命を受け、殺した。取調でアリスの秘密をバラすまでをセットとして。それが黒幕のシナリオだろう」
と続けたヴァイスヴォルフは、コーヒーを喉に流して問う。
「……お前は、クローン生成の功績を手にしたいか?」
「当然だ、日の目を見ない功績に何の意味が有る?……ミヤキが死んだ以上、同じ日本人の俺が手に入れることが、後進のためにもなる」
その答えがあまりにも滑稽に思えたヴァイスヴォルフは、笑いを抑えた。後進のため……対外的には耳障りがよいが、欲望があまりにも露骨だったからだ。
「アリスが失脚する以上、その全てを公表すれば、お前は世界初の功績を手に入れる。そして俺は、余計なことをした結果総司祭の座を手に入れる、そう云うワケか」
と言ったヴァイスヴォルフに、小城は
「これぞウィンウィンだ」
と嗤いながら続けた。
「クローンは政府主導の一大長期プロジェクトだ。成功しか要求されない。その弾みとなるのが、世界初の功績だ」
小城は最早、功績しか目に無い。そして、その功績欲しさに三養基を殺そうと画策した……と見ることができるのは当然だった。
アリスの秘密を洩らすことで、世間の関心を集めることができれば、クローンの人間を生成した実績もほぼ同時に知れ渡る。三養基の死による多少の技術発展の減速、そのぐらいは計算済みだろう。
ただ、一つ引っ掛かる。末端信者の域を出ない地位の小城に、実行犯を動かすだけの求心力が有るとは到底思えない。
……小城が、上の地位の誰かとパイプを持っているとすれば。そう思ったヴァイスヴォルフは、
「……ウィンウィンであればよいが……」
と言葉を濁すに留め、小城にタクシーを手配するよう頼んだ。