ヴァイスヴォルフが、トラッカーを仕掛けられていた。完全に予想外の出来事だが、アリシアに伝える時間は無い。詩応は
「救急車が来るまで、アタシがつく!」
と言い、銃を持ったまま周囲を見回す。アルスが銃を持てない以上、今ヴァイスヴォルフを直接護れるのは彼女だけだ。
詩応の視界に怪しい影は無い、但し今の瞬間は。ボーイッシュな少女は警戒を緩めない。
白昼堂々、しかも割と近距離からの犯行。近くにグルがいないと思う方が難しい。
「……何処にいる……?」
詩応は呟く。
アルスはヴァイスヴォルフに呼び掛けず、ただ地面に寝かせたまま唇を噛む。
……誰が、トラッカーをヴァイスヴォルフに持たせたのか。プリィのそれと同時に用意されたのなら、怪しいのは絞られる。
しかし、完全にツヴァイベルクの仕業だとして、半ば蜜月のハズの2人に何の因果が有る?有るとするなら、それは想像しうる限り一つだけ。
「……マルグリットの即位すら、奴は認めないのか……?」
アルスは呟き、数十秒前とは真逆の行動に出た。スマートフォンを耳に当てる。
「ツヴァイベルクに娘は?」
通話時間のカウントが始まった瞬間に聞こえた母国語に、束の間の二度寝からの寝起きだった恋人の少女は
「いきなり何!?」
と問う。
「ヴァイスヴォルフが撃たれた」
「はい!?」
恋人の答えに、アリシアは耳を疑った。次から次へと、本当に日本は厄介な国だと思ったが、それは後回し。慌てて椅子に座り、PCの電源を入れる。
「ネックレスのトラッカーで居場所を監視されていた。仕組むとすれば、ダンケルクの連中しかいないだろ?」
その言葉に、赤毛を手櫛で掻きながらPCのキーボードを叩くアリシアは
「ツヴァイベルクとヴァイスヴォルフの間に、マルグリットの即位を巡って確執が有ったとでも言うの?」
と問う。
「マルグリットの即位を認めないのは、ツヴァイベルクの娘を即位させたいから。そう思っただけだ」
そう答えるアルスに、アリシアは
「……いるわ」
と言った。
画面に映し出されるのは、最も信頼できるソースからの情報だった。チャットAIなど足下にも及ばない。流石は我が父、リシャール。
「ハイリッヒ・ツヴァイベルク。アタシたちと同世代で、住んでるのは父親がいるダンケルク」
「まさか、北部教会の聖女候補か?」
「そうじゃないけど、どうにかして座に就かせたいハズよ。反対する因子は全て排除してね」
「ムッシュ・エピュラシオンらしい」
と感心してみせるアルスに、アリシアは言った。
「……待って」
「どうした?」
「アデルの使用人、彼女に差し向けたのはツヴァイベルク」
アリシアは画面を見ながら言う。
「何!?」
「アデルの即位と同時にね。失脚後の今でも、アデルと一緒にストラスブールにいるわ」
そう言ったアリシアに、アルスは言った。
「マルティネスの一件を機に、アデルの心中を察したと暴走して、ツヴァイベルクを殺そうとしたのか?」
「ツヴァイベルクが関与していると、最初から知っていた……!?」
「だから黒幕を殺そうとした」
「速報レベルだけど、命に別状は無いらしいわ」
と言ったアリシアに、救急車の音が近付いてくるのが判ったアルスは
「……そうか……」
と言う。
……アルスにとって流雫は、誰より自慢できるフレンド。その彼から盗んだのは推理力。色々話すうちに、自然と自分のものになっていった。
アルスは、1万キロ離れた恋人との通話から辿り着いた答えを口にした。あたかも流雫が憑依したかのように。
「……ツヴァイベルク襲撃は、用意周到に練られていた。ヴァイスヴォルフの襲撃まで含めてな」
ヴァイスヴォルフの動きを察知したツヴァイベルクは、自分を襲撃するよう使用人に指示した。現場やタイミング、そして刺す場所も全て。例えば、腕を狙うが、あたかも脇腹を刺そうとして外したかのように見せ掛ける。
そうすれば、教団は混乱の火種となったアリスを今度こそ失脚させ、代わりに新たな聖女を即位させる必要に迫られる。そこでハイリッヒを推し、即位させる。そのためには、マルグリットに勝たなければならない。
ヴァイスヴォルフは当然、マルグリットを推す。目的は違えど、アデルも同じだ。その聖女候補に揺さぶりを掛けるべく、ツヴァイベルクは日本で交遊が有るモンジュ・セフリにコンタクトした。
そして今……セフリは成功の手応えを掴んでいるだろう。ただ一つ、テネイベールと同じオッドアイをした少年と、彼を慕う3人が居合わせていたと云う誤算を除いては。
「全員容赦しないからな……」
アルスは呟く。色々言いたいことは有るが、母国フランスに泥を塗った時点で、アルスにとっては罪人だ。
救急隊員が駆け付け、ヴァイスヴォルフを担架に乗せる。アルスは
「シノ」
とボーイッシュな少女に顔を向け、言った。
「俺も追う」
銃は持てないが、だからと安全地帯にいるよりは、少しでも流雫の力になりたい。
「アリシア、また連絡する」
「ルージェエールの守護の下に」
そう言って通話を切ったアリシアは、
「ありがと、パパ。大好きだよ」
と打った後で、新しく知った名をノートの端に書く。ドイツ語で聖なる、と云う意味だ。
「血塗られても、聖女は聖域なのかしら。ソレイエドールが嘆いてるわね」
と呟き、少女は椅子から立ち上がった。
「ヴァイスヴォルフが撃たれたわ!新宿駅の新南!」
澪はスマートフォンを耳に当てて走る。
一言だけ伝えた相手は父親。すぐに誰かが駆け付けるだろう。それまで、カーキ色のシャツを着た男を見失わないように。そう思いながら走る少女に背中を見せる流雫は、少しずつ犯人との距離を縮めていく。
トラッカーを持っていた自分を狙おうとしていたが、外した……のではなく、最初からヴァイスヴォルフを狙う気だったとするなら、追っているあの男は……。
「……背振の刺客……?」
流雫は呟き、イヤフォン越しに澪とリンクさせる。
「奴の背後に背振がいる!」
「そうだと思ったわ!」
澪は言った。
流雫は足が遅い、と言ってもそれは、元陸上部でスプリンターだった詩応と比べればの話だ。細い身体に隠し持つ筋肉が、その能力を最大限発揮する。
「三養基を殺したのは背振。小城に功績を手にさせるために」
「その裏に、ツヴァイベルクも……!?」
「否定できない」
と答える流雫は、銃のスライドを引く。何時撃ってきても、反撃できるように。澪もそれに続く。
ツヴァイベルクが、背振と小城にトラッカーの情報を教え、プリィを監視させると同時に、背振に三養基の襲撃を指示した。目的は、小城の功績とアリスへの揺さぶり。
自分の存在がプリィを殺したとなると、アリスは間違い無く病むからだ。気丈な振る舞いが、彼女の先天的な強さではなく、聖女と云う立場によって武装されたものでしかないのは、アリスと話して判った。
「アリスが病んで、自ら聖女の座を退くのを望んだ」
「でもそれじゃプリィが……」
「だからプリィは、必ず殺さなければいけなかった。そうすれば、次の聖女を最初から決めることになる」
「そこでマルグリットを選出させようと……」
澪の言葉に、流雫は続く。
「そう。でもあの時、僕と澪が空港に居合わせたから……」
「最初から、歯車がズレた……」
と言った澪は、不意に空が暗くなったことに気付いた。雲の塊に太陽が遮られる。その厚さはこの季節特有の……。
「流雫……来るわよ……」
澪がそう言った瞬間、2人の顔で滴が弾ける。それは数秒でデッキのタイルを濡らし、雑踏すら掻き消す程の音を立てる。
突然のスコール。線状の大粒の雨に打たれながらも、流雫は足を緩めない。靴のグリップを武器に、スピードが落ちた犯人との距離を少し縮める。
……今までもそうだった。他人が苦手な環境を得意にしなければ勝てないことを、流雫は誰よりも知っている。だから、雨の日に生まれた少年は、本来足枷のハズの雨を味方に付ける。
男が振り向きざまに、銃を流雫に向ける。しかし靴が滑り、高校生2人から大きく外れた方向へ銃弾を飛ばした。
「4……」
と呟く澪は、ブレスレットにキスしながら男から目線を外さない。雨に苦戦し、表情に焦燥感が浮かび上がるのが、ダークブラウンの瞳に映る。
流雫は足枷と思わない雨。だが、カーキ色のシャツを濡らす男にとっては、この上無い足枷。
「当たれ!!」
銃を構え直す男の手元で火薬が爆ぜる。しかし、銃弾は手摺に弾かれ金属音を立てるだけだ。
微動だにしない流雫の視界の端に、遠くを走る2人が映った。アルスと詩応。……それなら。
「何故撃った?」
と流雫は問う。
信仰と帰依の前には、理性は無力。五月蠅いの一言すら期待していない。しかし、犯人を挟み撃ちしようとするだろう2人が自分たちに近寄る、それまでの足止めができれば。
「ヒーロー気取りが……!」
男は叫びながら、引き金を引く。しかし標的には当たらない。
「2……」
澪は呟く。ただ、残り2発が怖い。たった1発当たっただけで死ぬ。そして、偶然でも当たる可能性が有るからだ。
……僕はヒーローほど強くないし、気高くもない。生き延びたいだけの悪魔だ。流雫はそう思っている。しかし、悪魔が勝ってはいけないルールは、この現実世界には無い。
「お前こそ、ヒーロー気取りじゃないか!」
と叫ぶ流雫に向けられた銃口から放たれる銃弾は、顔1つ分外れて流雫の脇を飛ぶ。しかし、標的はそれでも怯まない。
恐怖心が麻痺しているのか、絶対に当たらないと思っているのか。アンバーとライトブルーのオッドアイに宿る絶対的な自信に、男は恐怖すら覚える。
「背振が背後にいるの!?」
と澪は問いながら、流雫の隣で銃を構える。ダークブラウンの瞳が捉える男は、銃を落としながら慌てて踵を返す。
引っ切り無しに列車が走るNR線、その跨線橋から反対側へ逃げようとする男。しかし反対側から走ってくる男女は、自分を見ても退かない。
「退けぇぇ!!」
と叫ぶ男に2人が視界を開かせたのは、衝突する1秒前。しかし足に痛みを感じると同時に、その視界が地面を捉えた。
「うわぁぁっ!!」
と声を上げると同時に、水飛沫を上げて倒れる男の後ろ首と腰に激痛が走る。
「誰の命令だ?吐け!!」
そう声を張り上げたのは詩応だった。
フランス人が避けながら突き出した足は、男の脛を引っ掛けた。文字通り足下を掬われた男は、盛大に転んだ弾みで銃を落としている。反撃の心配は無い。予想外の呆気なさに、アルスは僅かに唖然とする。
男の後ろ首を掴み、腰に膝を突き立てる詩応。その表情には殺意を滲ませている。
……澪や流雫を危うく殺されるところだった。アルスと同じ黒幕への怒りが、その手下と思しき男に向く。
「……背振は何処にいる!?」
と詩応が声を上げる。だが男は呻くだけだ。
「シノ、恐らく知らない」
とアルスは言った。
「命令されて撃っただけだろう」
「じゃあ何処に……」
「恐らくは、この様子を見ているハズだ……」
とアルスは言い、流雫に顔を向け、首を振る。
その意味が判った流雫は
「あの男は何も知らない……。だが恐らく見られてる……」
と言いながら、周囲を警戒する。
澪は恋人と背中合わせになり、オッドアイの視界を補完する。雨音さえもシャットアウトして、全ての意識を注ぐ。
澪は再度ブレスレットに唇を当てる。そして流雫も、無意識にブレスレットにキスする。ソレイエドールやルージェエールの守護が有る、しかしそれ以上に効果的な、2人だけの祈りの儀式。
……流雫のクリアな意識が捉えたのは、改札から近付いてくる黒い傘を差す1人。少年は、最愛の少女を自分の身体に隠すように、次第に大きくなる傘を差す人間に正対する。
「……お前は誰だ?」
と、傘を上げた男は問う。
「……トラッカーが2つ反応した。でも1つは標的とは違う、……か?」
「……お前は誰だ?」
苛立ち混じりの問い返しに、流雫は
「……聖女の守護騎士」
と答える。破壊の女神を連想させる目を睨む男は鼻で笑い、
「痛々しい……」
と言い放つ。
しかし、流雫は微塵も動じない。その反応も含めて予想通りだったからだ。そして確信する。この男こそ、背振文殊だと。
「背振だ……」
と流雫が呟くと同時に、男は
「隠れている女!お前もグルか!?」
と声を張り上げる。その瞬間、澪は身体を翻し流雫の右隣に立つ。
「……背振文殊。ドクター三養基を殺害してまで、小城にクローンの功績を握らせたいの!?」
そう声を張り上げる少女の目は、刑事の娘らしい凜々しさに満ちている。
「事実無根だ!大体、目上相手に呼び捨てするのか!!」
と背振は怒鳴り、更に挑発する。
「聖騎士気取りか?身の程知らずが」
「国益を隠れ蓑に私腹を肥やす。政治家が信頼されない理由が、よく判るわ」
と澪は冷静に言い返す。
聖騎士でもないし、救世主でもない。何の変哲も無い高校生でしかない。ただ人の生き死ににナーバスで、テロの脅威と何度も戦ってきただけだ。
「お前らと違って、俺にはこの国の未来が懸かっている。世間はやがて知ることになる、あの時の俺が正しかったと」
と言った背振の背後から、3人の男が傘を差さず走ってくる。
ボディガード、そう思った流雫は銃を強く握ったまま、澪を視界の端に入れる。その反対からは、詩応とアルスが走ってくるのが判る。
……娘からの連絡で、常願と弥陀ヶ原が中心となって駆け付けた。日仏の男女から身柄を引き渡された2人は、更に別の警察官に頼み、その後を追う。
「くそ……!」
声を上げたのは背振だった。
いずれ警察が駆け付ける、とは思っていた。しかし、このタイミングとは予想外だ。何かと厄介なことになる。
「……一つ忠告しよう。この国の未来を邪魔するな。大人になって苦労するのはお前らだからな」
と言った背振は、踵を返す。
流雫は追わない。数分前の銃撃に関与していたとしても、直接銃を向けられていない以上、そして現行犯でない以上何もできない。銃を撃つのは、正当防衛と云う条件下でのみ、認められたことだからだ。
「……だから、ヴァイスヴォルフを口止めしようと……」
と言うだけだ。
その声に、背振は反応しない。ただ、1歩分だけ速度が落ちるのを、高校生2人は見逃さなかった。
詩応とアルスは、スーツを濡らした4人と目が合う。……流雫や澪との対峙から、怪しさの臭いを感じ取っていた。しかし、余計な先手に出ては足下を掬われる。
だから言葉一つ投げず、親しい2人と合流することにした。
「怪我は……」
「無いよ」
とフランス語で答える流雫の隣で、澪は
「……あれが背振」
と詩応に言う。流雫もそれに続く。
「三養基を殺害し、ヴァイスヴォルフを殺そうとした」
「背振にとって存在が不都合になったから?」
「そう見て間違い無い、と思ってる」
と、詩応に答える流雫の隣に寄ったアルスは
「見ろ。ヴァイスヴォルフも監視されていた」
と、例のトラッカーの破片を流雫に見せる。
「……聖女候補の支持だけで云えば、ヴァイスヴォルフはアデルサイドだ。ツヴァイベルクとは敵だ」
「普段の関係とは別の話か……」
「聖女が絡むからな。アリスを排除して即位させたいのはマルグリットじゃない、自分の娘ハイリッヒだ」
「じゃあ、マルグリットを聖女にしようとしたのは……」
「ブラフだった」
とアルスは答える。
「ハイリッヒは地方教会の聖女候補じゃない。それでも一応、即位の道は有る。相応しい候補がいなければ、だ。だから、他の連中からすれば完全にノーマークと云うワケだ」
マルグリットさえ候補に相応しくない。そうなる理由はやはり、マルグリット本人ではなくルートヴィヒの問題。アデルは2人の関係を知らないが、マルグリット落選の時に初めて明かされるだろう。
しかし、兄が原因で落選は目も当てられない。だからヴァイスヴォルフは、何事も無血を望み、その通りに実行してきた。流雫が読んだ通りに。
しかし、ツヴァイベルクはそれが目障りだった。
司祭は配下の信者をヴァイスヴォルフに送り、その若きドイツ人の仕業に見せようとした。同時に、三養基殺害を疑われないようにと、背振が口封じに走った。
それが2つ目のトラッカーの理由と、ヴァイスヴォルフが狙われた理由。
「娘を即位させるための戦争か……」
アルスの言葉に、詩応は唇を噛む。姉が聞けば卒倒するような理由が、信仰する教団での混乱の理由だからだ。それが外れているとは思っていない。
「詩応さん……」
澪はボーイッシュな少女の名を呼びながら、その身体を抱く。
異常にすら思えるほどの姉への執着、それは憧れとコンプレックスが生み出したもの。そして彼女は澪に、姉の面影を重ねていた。今の思いに合った抱き方が、姉と同じだったから。
その隣で、男子2人は
「……キャストは出揃った」
「後はどう出てくるか……」
と共通の母国語で言った。
国籍を超えた結束、その最たる例を敵に回した結末を突き付ける。救世主だの何だのどうだっていい、ただこれ以上誰も血を流さなくて済むように。
「三養基さんを殺したこと、否定しなかった……」
と、澪は服の上からタオルを当てながら、隣の父に言った。新南改札の交番の端でのことだ。だから肯定と言うのは短絡的なのは、彼女自身判っているが。
「確たる証拠が無い以上は、仮に黒幕だったとしても手を打てない。お前も判るだろう?」
と中年刑事は問う。
「それは知ってるけど」
「お前が戦を交えなかっただけで一安心だ」
そう言った父は、手帳を開き
「で?何を見た?」
と問うた。
……ヴァイスヴォルフは、アリスとは別の病院に収容されている。短い取調中に、4人はそう聞かされた。今はICUで銃弾の摘出手術の最中らしい。
「……誰もが被害者……」
と、交番を最後に出ようとした澪が呟いた。
全ては、背振とツヴァイベルクに翻弄されていた。ヴァイスヴォルフさえ、連中の手の上で転がされていたのだ。
「お前もだ」
と常願は言い返す。
愛娘が危うく死ぬところだったが、澪はそのことには触れない。自分のことは全て後回し。それが彼女の長所で短所だった。
「……判ってる」
とだけ言い残し、澪はドアを閉めた。
……父親が言いたいことは、澪自身判っている。無碍にする気は無い。しかし、真相に最も近い位置にいる以上、そして面識が有る人が狙われている以上、今更手を引く真似はできない。
「……誰の娘だと思ってるの?」
と澪は呟く。父を心配させることは判っているが、血は争えないのだ。
「だから、あたしは死なない」
その声に、真っ先に顔を向けたのは、最愛の少年だった。
流雫と澪は新宿に残り、詩応とアルスはアリスの元に向かう。
「……よく思い付くよ」
と、この場にいない少年に向かって呆れ口調の詩応、しかしそれは一種の敬意だった。
形振り構っていられない、だから非常識すら戦略の一つ。黒幕や犯人に対して、正々堂々は必要無い。流雫が自分を悪魔に擬えるのも頷ける。
「面白そうだがな」
とアルスは言う。フランス人にとっては、成功する未来しか見えない。
「血の旅団も、元は太陽騎士団。世界一の教団だ。……何時かは完全に歩み寄る日が来るだろうか」
「聖女アリスなら、実現できるさ。血の旅団は……アンタが率いればいい」
と詩応は言い、口角を上げる。
「アンタとアリスが手を握る瞬間が来るなら、アタシは見てみたい」
アルスはこの数日、教団への信仰心と愛国心を原動力に、東京を走り回ってきた。褒められ讃えられるべきだ、と詩応は思っている。
「クローンとして生まれた、それは言い換えれば新たな時代の象徴のようなものだ。普及するには課題が山積するが、生まれた以上は俺やお前と同じように生きる権利が有る。教団の理念に反していようと、その権利を護ってやるのが、既存の人間の義務だと思っている」
とアルスは言う。こう云うことを隠さず明確に言うあたり、詩応は好感が持てる。
「……腐った奴らの陰謀を暴き、排除する。それが、我らがルーツの女神をこの混乱から救済する唯一の方法だ」
と言ったアルスに、詩応は
「それは同意見」
と返す。やがて、アリスがいる病院に着いた。
ヴァイスヴォルフは一命を取り留めた。そう父親から聞いた澪は、そのことを流雫に告げる。2人揃って安堵の表情を浮かべた。
……敬虔さが裏目に出たとは云え、或る意味ではあのドイツ人も被害者。誰もが被害者、澪が言った言葉が流雫の脳に焼き付いている。
「でも」
と澪が声に出す。
「これで全てが上手くいくといいな……」
「上手くいかないと……プリィやアリスの未来は無いからね」
と流雫は言った。
あの空港から始まった、一連の真相を巡る戦い。全ては幼馴染みや聖女が理不尽な死を遂げないためだ。そのためなら、手段は問わない。
「……母さんに言われたんだ。澪の手を離すなと」
「流雫がそうするとは、思ってないわ」
と澪は言い返す。今までもそうだったし、今からもそうだと思っている。この手を離すことはない……今は。
病院の応接室で、背振は頭の整理に躍起になっていた。
父が倒れたのは2時間前の話。背振の目の前でのことだ。既往症は有ったが、再発したようだ。
慌てて呼んだ救急車で近くの大学病院へ搬送されたが、現職大臣の一報を聞き付けた報道関係者まで押し寄せてきた。混乱を避けるべく、応接室へ通された。
エントランスでは、今も報道陣がカメラを待機させている。報道の自由は厄介だ。
容態次第では優先順位が全て変わる。だが、三養基と小城が絡む件は常に最優先でなければならない。父親から譲り受けたクローンの権益は、死守しなければならない。自分の手中に有るからこそ、日本は再生するのだ。
しかし、新宿で会った4人の男女が目に付く。ヴァイスヴォルフと一緒にいたが、一体何者なのか。警戒するに越したことは無い。特にあのボブカットの女。
背振のスマートフォンが鳴る。小城からだ。
「お前、何をしでかした?」
と最初の一言から既に怒り心頭だ。
「任意同行させられるところだった!」
「何!?」
「研究が忙しくて拒否したが、奴らはハイエナだ。お前が何か洩らしたとしか思えん!」
と小城は、額の血管を浮き上がらせて言った。
弥陀ヶ原は、ヴァイスヴォルフの足取りを遡る中で、府中の研究施設に辿り着いた。そして常願と2人で任意同行に乗り出したのだ。
「クローンの事業はお前がいなくては話にならん。それは父の言葉でもある」
と背振は言う。小城が唯一逆らえない相手の名、それは背振文殊としてもそうだった。
「……お前にとって邪魔だった三養基はもういない。これで心置きなく功績を手に入れられる。違うか?」
「その功績を失わないように最大限支援するのが、お前の仕事だろう?大臣の容態より、俺の身の安全を優先しろ。三養基を殺したことがバレれば、俺もお前も全て終わるんだぞ」
と言い残し、小城からの通話は切れた。
人のことは言えないが、恩人の命よりも自分の身が大事らしい。小城をどうにかしなければ、自分の身も危うい。しかし、あまりにもタイミングが悪過ぎる。動くに動けない。
再度スマートフォンが鳴る。
「俺だ、ミスター・セフリ」
と、初老の低い声が聞こえる。少し癖が有るドイツ語だ。
「お前は何処にいる?」
そう言った男に、背振は場所と現状を伝える。とある男が今から来るらしく、持て成せとのことだった。事態が事態だが、一応は迎え入れなければ。
背振は黒い腕時計に目を向ける。……今日と云う日は既に残り数時間。しかし、今からが長い1日になりそうだ、と背振は思った。
アルスと詩応から話を聞いたアリスは、ベッドの隣に座るプリィに目を向ける。
「私はオリジナル、でも影武者。何か起きた時は、私が盾になるわ」
とプリィは言う。
メスィドール家とフリュクティドール家の間での取り決めによって、フリュクティドール家はアリスの身に何かが起きた時に、プリィに聖女の座を譲ることになっていた。その分、小さくない額の手数料も中央教会に渡っているが。
だが、それが行使されることは無い。何か起きた時は、プリィが身代わりになる。彼女はそう思っていた。
アルスのスマートフォンが鳴る。アリシアからだった。
「モンドが日本に飛んだわ!」
通話時間のカウントが始まると同時に聞こえた声に、アルスは
「何だと!?」
と返す。アリシアは答えた。
「聖女アリスが日本にいるからだと思うわ。フランスと日本で起きている一連の混乱で、アリスが聖女を退くことを要求する気ね」
モンドリヒト・ツヴァイベルク。ハイリッヒの兄で、流雫やアルスより6歳上。ツヴァイベルク家の長男で、ダンケルクで司祭を目指して日々信仰に励んでいる。
当初の目的は、アリスの退任宣言に立ち会うためだっただろう。失脚であろうと、退任時には宣言を出さなければならず、アデルもそうしたからだ。
禁断の存在であることを前面に直接要求して退任させ、あわよくば、次期聖女にハイリッヒを指名させたい。彼女が地方教会に属さない以上、聖女に選出されるには現聖女からの直接の指名が必要だからだ。
しかし、アリスの続投が決まった。ツヴァイベルクも最終的には同意したが、政治的な駆け引きの一種でしかない。本音は、一刻も早く退任に追い込みたいハズだ。
ダンケルクで起きた事件を活用し、同時に起きた東京での騒ぎの元凶として、アリスを断罪し、新たな聖女の名を口にさせたい。それも、渋谷の大教会で。当初の目論見とはやや異なるが、結果が同じならば問題は無いだろう。
全ての元凶がツヴァイベルクだとすれば、その前提が有るが、外れているとは思わない。
「そうだとしても、司祭本人じゃないのか」
「アリスの言葉を受けて、ダンケルクで総司祭の就任を宣言する気よ。だからモンドを寄越した、そう見ることができるわ」
「モンドか……何故同じ名前なのに、天地の差が有るのか」
とアルスは毒突いた。
月光を意味するドイツ語のモンドリヒト、通称は月を意味するモンド。一方ルナは、月を意味するラテン語。アルスにとっては比較するまでもなく、流雫の方が立派に映る。尤も、流雫への贔屓目も大きいのだが。
「ただ、アリスは入院中でしょ?どうするの?」
とアリシアは問う。
「肩を撃たれただけだ、最重要公務と言えば教会に引き摺り出せる。衆人環視の元で宣言さえ出させれば、後は罪人を護送するかの如く病院へ送り返せばいい。奴らなら、そうするだろ」
とアルスは答えた。必要なのは、日本での宣言だけだからだ。
「ソレイエドールは何と思うのかしら」
「頭を抱えて倒れる」
とアルスは言う。連中は人の命など何も思わない。そもそもクローンである時点で、人の命ではないと言う可能性も有る。
……容赦しないどころの話ではない。ツヴァイベルクの顔を1発は殴らないと気が済まない。
「警察沙汰にならない程度なら、アタシは止めないわよ」
とアリシアは言う。思っていることは見透かされていた。
「ルージェエールの守護の下に」
と、恋人の言葉に声を重ねて通話を切ったアルスは、2人の目の前に跪く。
「……ルージェエールの名の下に願う。創世神ソレイエドールに絶対の勝利を。2人の聖女に、祝福と安寧を」
その優しくも力強いフランス語は、病室に張り詰める緊張感を解いていく。
……女神の守護が有る。だから怖れるものは無い。ただ勝利のために、最善を尽くすだけだ。
モンドリヒト来日をアルスから聞いた流雫の目は、悲壮感に満ちている。しかし、オッドアイの奥底には確かな光が宿っている。
……アリスとプリィを助ける。ヴァイスヴォルフも助けてみせる。その意志が見て取れるからだ。その甘さが危ういことは判っているが、それでも澪は流雫の味方でいる。
それは最愛の人の隣に立ち、背中を預かって戦うために必要な意志。それだけは揺るがせてはいけない。
「あたしは、流雫を護る……」
今まで何度、そう呟いたか判らない。しかし、澪はまたしても呟いた。その言葉で自分を縛り付けるように。