「リオ」
「……っ」
名前を呼ばれたのは、完全に不意討ちだった。
ばっと顔をあげれば、夕暮れのバルコニーに、ミルキーホワイトの髪をなびかせたエルのすがたが。
「あ、エル! みなさんはどうでした?」
「傷がきれいさっぱり治ったので、おどろかれていましたよ。やっぱり、リオはすごいですね」
「ほめてもなんにも出ないですよ~」
「ほんとうのことですよ。お部屋にご案内し終えましたので、みなさんも、これでごゆっくりお休みになられるかと」
そこで、ふわりとほほ笑むエル。
「今日はおつかれさまでした。これからいっしょに、夕食でもいかがでしょう」
わざわざ呼びに来てくれたらしい。手を差しのべる仕草が、どう見ても王子さまなんだよなぁ……と苦笑する。
わたし、お姫さまなんかじゃないのに。
「ありがとう。せっかくなんですけど、お気持ちだけ。今日は、部屋でゆっくりしたくて……」
1日のうちに、いろんなことがあったしね。
ひと仕事終えてほっとしたら、疲れが出てきたみたい。
「ノアくんですか?」
「……え?」
「とても仲睦まじいですよね。ほんとうの
「そう見えます……?」
「えぇ。ノアくんのことを、弟のように可愛がっているじゃありませんか」
唐突にノアを話題に出され、まぬけな顔をしているだろうわたしを見つめて、エルは笑みを深める。
「すくなくとも、恋人に対する態度ではない。あなたは……ね」
「えっと……」
「いまあなたのそばにいるのは、彼。……僕と彼、いったいなにが違ったのだろう」
エルはいま、なにを言おうとしているのか……
「なぁんて、終わったことをふり返っても、しかたないですよね。僕は、いまの僕ができることをやろうと思うんです」
どう返事したものか迷っているうちに、おどけたエルが一歩、近づく。
「じっとして」
おもむろに、しなやかな腕が伸びてくる。
思わず身構えてしまったけど、早とちりだった。
すこしして、くすくすと、笑い声が頭上にこぼれる。
「大丈夫ですよ。ほら、目をあけて」
「え? ……あ」
エルに声をかけられ、まぶたをひらいたタイミングで、なにやら首もとに違和感があることに気づく。
まばゆい白銀のネックレスチェーンは、ゆったりとしたオペラ。みぞおちあたりにペンダントトップがくる長さだ。
ネックレスチェーンとおなじ白銀の雫型ペンダントが、わたしの胸もとで輝いている。
「僕からのプレゼントです。受け取ってください」
「プレゼントって……これ、プラチナじゃないですか!?」
「えぇ。ロケットペンダントです。ロケットのなかには、連絡用水晶が埋め込まれています。僕とおそろいですよ」
にっこりと笑みながら、シャツの襟もとから、まったくおなじデザインのペンダントを取り出してみせるエル。
ここでようやく、エルの意図を理解した。
「さびしいことに、リオのそばにいられないことが多々ありますから……でも、このペンダントに僕個人の魔法番号を組み込んでいます。一瞬で連絡がとれますよ」
スマホか。
「通話だけじゃなく、映像記録機能もあるんですよ」
スマホだな。
「ちなみにエル」
「はい?」
「このペンダント、位置情報を第三者に通知する機能とかもあったりします?」
「ありますね」
「やはりか」
「初期設定では位置情報通知がオンなので、あなたのお好きなようにオフにしていただいてもかまいませんからね」
「きいててよかった」
エルっておだやかで、おっとりしてるくらいなのに、けっこう抜け目ないよね。
さらっと笑顔で、とんでもないことやってのけるというか。
うん、あとで忘れずに位置情報の通知、オフにしとこ。プライバシー大事。それはそうと。
「ぜったい高価なものですよね……なんか申し訳ないです」
「そう気負わずに、お気軽にご連絡くださいね。リオからなら、どんなご用件でも大歓迎です」
「あはは。エルを呼びつけるとか、わたしどんだけえらい人なんですか」
エルの気遣いが、素直にうれしい。
くすぐったくすらあって、冗談まじりに返せば、エルがふわりと、笑みをほころばせて。
「おや、リオ、髪が」
とても自然な仕草で、わたしの顔にかかる髪を、さらりと背のほうへ流してくれた。
「あ! ありがとうございます!」
せっかくもらったネックレスチェーンに絡まらなくて、よかった……
とかなんとかホッとしていたわたしは、のんきなものだったと、すぐあとに知る。
「──リオ」
視界に影がかかり、左の耳もとに、吐息がふれた。
え、と意味のない母音が口からこぼれる。
つい後ずさりそうになるわたしを、いつの間にか背に回されていた腕が阻む。
「僕があなたを、逃がすと思いますか?」
甘やかで、どこか魅惑的な笑み。
至近距離で黄金の瞳を猫のように細められたとき、ぎくりとしてしまった。
あれ……なんでわたし、エルに抱きすくめられてるの……?
「連絡先を教えるのなら、どうして僕がこのペンダントではなく、はじめにハンカチをプレゼントしたか、わかりますか?」
──光魔法で連絡先を刻んだ純白のシルクのハンカチを、異性に贈る理由。お嬢さんは知っているかな?
ヴァネッサさんに質問されたことを思い出した。
わたしは、答えることができなかったってことも。
「もともとは、『悲しむあなたの涙をぬぐってあげたい』という、家族だったり、たいせつなひとへの贈り物の意味合いが主でした。ですが、想いを寄せる異性相手には、また違った意味を持ちます」
『それ』こそ、エルがわたしに望んでいたこと。
「──『あなたをベッドで
「っ……」
甘くかすれた声が、熱い吐息とともに、耳へ吹き込まれる。
「彼とあなたが恋人関係でないのなら、僕があなたになにをしても、不義理ではないということですよね」
「……エル、なんで、いま……」
「僕もね、あなたのペースに合わせて、関係を深めていけたらと思っていたんです。でも」
「きゃっ……!」
近すぎるほどに寄せられた唇が、わたしの耳もとで、吐息をこぼす。
「あなたの本心がどうであれ、僕以外の男と親しくしているすがたを見せつけられてこころおだやかにいられるほど、僕は寛容ではないのです」
……嫉妬だ。
エルが嫉妬している。
もしかして、さっきのノアとのやりとりを見られてしまったのか。
思考停止するわたしを見おろしたエルが、蜂蜜色の瞳を細めたとき、つぅ……と背すじを指先でなぞられる感触。
「あっ……」
「無防備ですね……こんなにも隙だらけなら、あなたのこころに、さっさと入り込んでしまえばよかったんです」
わたしを映した蜂蜜色の瞳が、どろどろに蕩けていた。
「リオ。僕を見て」
あ、だめだ。
エル、完全にスイッチが入っちゃってる。
逃げ場が、ない。
ゆるりと三日月を描いたかたちのいい唇が、わたしの右耳をやわく
「……ひゃあっ!」
びっくりして、反射的に胸を突き飛ばそうとしたけど、わたしを腕で絡めとったエルは、びくともしない。
「ん……だめじゃないですか。僕の思いどおりの反応をしたら」
「だ、だってエルが……んぁっ!」
わたしの反論なんかおかまいなしに、かぷりと耳を甘噛みされる。
かと思えば、ちゅ、ちゅ、とわざと音を立てて耳のふちを吸われるから、ぞわぞわと、得体の知れないものが背すじを這い上がる。
「だめ、エル、おと、やだぁ……」
もうわけがわからなかった。くたりと胸へしなだれかかり、涙目で見上げれば、エルがほう……とため息をついた。
「いまあなたの瞳には、僕だけが映っているんですね。あぁ、なんて可愛いんでしょう、僕のリオ……」
「や、エル……ひッ」
恥ずかしさで顔を逸らしてしまう前に、後頭部を手で固定され、こんどは左耳に……
「耳ばっか、やぁ……」
「ちょっとふれただけなのに、うれしい反応をしてくれますね」
くすくすと笑いながら、エルがちゅっとわたしの右耳の裏を吸う。
「リオは、どこもかしこもやわらかくて、お砂糖のように甘いですね……」
そういうエルだって、甘い香りがする。
なんだろう……蝶を誘うお花みたいに、甘い香り……
「リオ……」
頭がクラクラして、端正な顔を近づけるエルを、拒めなかった。
「……ふぁっ……」
唇同士がふれるかどうかという、ギリギリのライン。
そんな唇の端を、エルの唇が、くすぐるようにかすめる。
「ふふ、ところかまわず抱いてしまうのは、節操がないですものね」
くすりと笑みをもらしたエルが、脱力したわたしを抱きとめた。
「止められなくなりそうなので、ごほうびは、まだおあずけのほうがいいかもしれません」
「んっ……!」
つぅ、と耳を指先でくすぐられて、ぴくんとからだが跳ねた。
それを見て、エルがうれしそうに笑みを深める。
「あなたのおかげで、眠れない夜になりそうです。『発散』しないと」
エルがなにか言ってるなぁ、と、ぼんやりした頭で思う。
力の抜けきったからだでは、されるがまま、抱き上げられるだけ。
「今夜は出歩いてはいけませんよ。いいこにしていてくださいね? リオ」
結局、エルがなにを言っていたのかはわからなくて。
どうやって部屋に戻ったのかも、わからなくて。
わたしのおでこにキスを落とすエルのほほ笑みだけが、唯一覚えていること。
──翌日。
朝の気だるさを吹き飛ばすように、衝撃的な事件が起こる。
どこかへ出かけていたらしいエルが、旧ブルーム城に帰ってきた。
全身血まみれになって。