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*26* かくして抱きまくらになりましたとさ

 頭がぼんやりする。手足に力が入らない。


 そんなふわふわとした意識のなか、気づいたらお姫さまみたいに抱き上げられて、部屋の奥のベッドに横たえられていた。


「リオ」


 ベッドが軋んで、エルが覆いかぶさってくる。


 まつげがふれそうなほど間近でわたしを見つめる蜂蜜色の瞳は、煮詰めたように蕩けていた。


「夢にまで見た光景です。こうしてあなたにふれることを、ずっと……ずっと待ち望んでいました」

「エ、ル……」

「えぇ……ここに。僕はここにいます。もっと僕を呼んで、リオ……」


 はぁっ……と熱い吐息をもらしたエルが、かたちのいい唇を、わたしの左のほほに寄せた。


「エル、まって……ひゃあっ……」


 ほほをかすめるようなキスがくすぐったくて、身をよじる。


 だけど顔をそむけた拍子に、かぷ、と耳朶を噛まれてしまった。


「昨日は『まて』をしたんです。今日は、『ごほうび』をくださいね?」


 羞恥の涙で視界がにじむわたしを、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべたエルが見下ろしている。


「ご、『ごほうび』って……」


 こわごわと見上げれば、エルがわたしの左耳に唇を寄せ、ささやく。


「あなたが欲しい」

「っ……」


 身をこわばらせたわたしの頭上で、くすりと、笑い声がこぼれる。


「大丈夫です。怖いことは、なにもしませんから」


 わたしに語りかけるエルの声は、おだやかだ。


 でも、いつもみたいにやさしい声の奥には、じりじりと熱がくすぶっているのが、わかる。わかってしまった。


「リオ……」


 また、名前を呼ばれた。


 そう気づいたときには、ぶわっと、ひときわ強い花の香りにつつまれていた。


「……んっ、ふぅ……んっ、んんっ……」


 かさねられた唇。わたしの唇の感触を楽しむように、角度を変えて、やわく食むような口づけが、何度も。


 息苦しさに涙がにじんできたころ、ふいに唇を離される。


「ん……ふぁっ、エル……ひゃっ!?」


 だけど、安心できたのもつかの間。わたしの肩口に顔をうずめたエルに、首すじを吸われてしまう。


 ちく、とかすかな痛みの後に、遅れて首すじが熱を持ちはじめる。


「マーキングは、しておかないとですよね?」


 くすくすと、耳のすぐそばでエルの笑い声が聞こえる。


 わたしはもう、恥ずかしさで、なにがなんだかわからなかった。


(わたし、このままエルと……)


 逃げたい。でも力の差は歴然だ。エルは逃してはくれない。


「なにも難しいことは考えなくていいんですよ、リオ」


 甘い甘い香りにあてられ、ぼんやりと思考停止したわたしのほほに、エルが唇を寄せる。


「僕にとって、あなたが世界のすべて。あなたの望むことは、なんだって叶えます」


 ちゅ、ちゅ、とくり返しほほにキスを落としながら、エルの長い指が、ベッドに投げ出されたわたしの両手の指にからめられた。


(このまま、流されちゃう……?)


 いっそ諦めてしまえば、楽になれる。


 流されて、身をゆだねてしまえば、エルは喜んでわたしを『愛して』くれるんだろう。


(このまま、エルを受け入れたら……)


 そうすれば、エルは全身全霊で、極上のひとときを味わわせてくれるんだろう。


 ……だけど、でもね。


「あなたのためなら、なんだってします。だからおねがい……僕を欲しがって、リオ。あなたが望むなら、奴隷にだってなりますから」


 わたしに慈悲を乞うその言葉を耳にしたとき、すっ……と、からだの火照りが引く。


 それは、ふいに吹き抜けたそよ風が、甘い香りを吹き飛ばしたような感覚で。


 思考が、クリアになる。


 からめられた指を、するりと外す。そして無言で胸を押し返したわたしに、エルが蜂蜜色の瞳を見開く。


「……リオ? どうし、」

「だめです、エル。これはだめ」


 そうとだけ口にすれば、わたしを抱き込むエルの腕が、強ばった。


「僕を……拒むんですか?」

「ちがいます」

「違わないです。だって、僕を遠ざけようとしてる」

「エル」

「嫌です、離しません。あなたに突き放されたら、僕はもう生きていけない……」

「おねがいだから、話を」

「聞きたくないです、あなたが僕を拒否する言葉なんて!」

「……そうですか」


 エルにはたいへん申し訳ないけど、さすがに、カチンときました。


「だーかーら……話を聞いてって言ってんでしょーっ!」


 リオさん、ぶちギレ。ほんとなら渾身の右ストレートをくり出しているところだけど、そこはグッとこらえて、腹が立つくらいととのったエルのほっぺを、むにゅっとつねるだけに踏みとどまった。


 エルもエルだよ。わたしの攻撃なんか簡単にかわせただろうに、避けないんだもん。


「……いひゃいれふ」

「自業自得なので、そこんとこよろ、です」


 諸々のフラストレーションが積もりに積もって、そっけない物言いになってしまったことくらいは、多目に見てほしい。


「ねぇエル。わたしがなんで怒ってるか、わかりますか?」


 ふるふる、と首を横に振るエル。本気で心当たりがないらしく、へにゃっと耳を垂れた猫みたいにしゅんとしてる。叱られた子猫か。まったく。


「わたしが怒っているのは、エルがじぶんを大切にしないからです。『じぶんを安売りするな』って、わたし言いましたよね?」

「──っ!」


 ハッとしたように、エルが身じろぐ。


 わたしもほほをつねるんじゃなくて、今度は、両手でそっと包み込んだ。


 伝えたいことがあるから、ちゃんとエルの目を見て、話したいんだよ。


「エルがわたしのこと好きだって言ってくれて、うれしかったです。独りぼっちで生きてきたわたしでも、必要としてくれるひとがいるんだって、自信が持てるようになりました。だからこそ、エルの『おねがい』は受け入れられない」


 わたしを映した蜂蜜色の瞳は、水面のように、ゆらめいている。


「わたしは、エルに奴隷になってほしいんじゃない。虐げられることを、当たり前のように受け入れてほしくないんです」

「リオ……」

「エルにのびのびと生きてほしい。こころから笑っててほしい。わたしは、じぶんらしく楽しい毎日をすごしてるエルと、おなじ目線でいたいの!」

「っ……あぁ、リオ……っ」


 エルが悲痛に顔をゆがめた次の瞬間、ぎゅううっと、わたしは痛いくらいに抱きすくめられていた。


「あなたのそばを離れたくないからって、なりふりかまわずに、僕はなんてことを……ごめんなさい、僕が間違っていました」


 いつもほほ笑んでいて、なんでも器用にこなしてしまうエル。そんなエルが、余裕のない様子で、声を震わせている。


「あなたは……あなただけが、僕という人間を、ちゃんと見てくれる。僕の間違いをただしてくれる。僕と、対等でいてくれる……」


 たよりなく震える背へ、わたしも腕を回して、エルの切実な告白に応える。


「いままでしんどかったですよね。いい加減、楽しく生きたってバチは当たらないと思うんです、お互い」


 わたしはエルの過去を知らない。だからこれは、あくまで、わたし個人の人生観の押し売り。


「エルはがんばってますよ。……って、なんか上から目線で申し訳ないですけど、とにかく! エルが思ってる以上に、わたしはちゃあんと、エルのこと見てますから!」

「……たとえば?」

「あっ、疑ってますね。よーし、それじゃあお教えしましょう!」


 ここぞとばかりに、わたしは右手の人さし指を立てる。


「ひとつめ! エルはやさしい。いっしょにいると落ち着きます。ふたつめ! エルはいろんなことを知ってて、尊敬します。みっつめ! エルはすごく強くて、たのもしいです。はい、ヴァネッサさんからのお題、『エルの好きなところをみっつ挙げなさい』でした!」

「いまそれを言うんですか。……あなたは、もう」


 エルが薄く笑ったような気配がして、痛いくらいに回されていた腕が、そっと、わたしを抱き直した。


「あなたが愛おしい。それしか、言葉が見つからない。あなたは、ほんとうに……どれだけ僕のこころを揺さぶれば、気がすむんですか」


 すこしだけからだが離されて、ようやく、エルと視線を交わすことができる。


 蜂蜜色の瞳には、涙がにじんでいた。キラキラして、宝石みたいだなって思った。


「リオ。……ちょっとだけ、わがままを言ってもいいですか?」

「もちろん。エルにはいつも助けられてばっかりなので、わたしもお返ししたいです。わたしにできることがあったら、遠慮なくどうぞ!」

「……ありがとう」


 ふとまつげを伏せたエルが、わたしの肩にもたれかかる。


「手を……にぎってほしいです。そばにいてほしいです。……僕が、眠れるまで」



 ──夢見はよくはないですね。むかしからです。



 エルが何気なく話していたことを思い出す。


 とりとめのない会話の一部。だけど、エルはだいじなことを教えてくれていたんだと、いまならわかる。


「あなたのそばなら、悪夢に悩まされることはないだろうから」


 エルはきっと、こころの拠り所をさがしていたんじゃないかな。


 その上で、わたしのとなりを安心できる場所だと思ってくれているなら、答えは悩むまでもない。


 エルの手を引いて、ごろりとベッドに寝転んだ。


「それじゃあ、今日はエルの抱きまくらに任命されますね。モンスター倒しまくって疲れてますよね、はい、おやすみなさい!」

「ふふ、では、お言葉に甘えて」


 くすっと笑みをこぼしたエルに、ぎゅっとハグをされる。


「……おやすみなさい、リオ」


 そっとつぶやいたエルの胸に抱かれて、そのすこし早足な心音を聞きながら、わたしもまぶたを閉じる。


 静かな部屋で、ふたりきり。


 クラクラするような甘い香りは、いつしか、心地よいほのかな香りへと変わっていた。

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