頭がぼんやりする。手足に力が入らない。
そんなふわふわとした意識のなか、気づいたらお姫さまみたいに抱き上げられて、部屋の奥のベッドに横たえられていた。
「リオ」
ベッドが軋んで、エルが覆いかぶさってくる。
まつげがふれそうなほど間近でわたしを見つめる蜂蜜色の瞳は、煮詰めたように蕩けていた。
「夢にまで見た光景です。こうしてあなたにふれることを、ずっと……ずっと待ち望んでいました」
「エ、ル……」
「えぇ……ここに。僕はここにいます。もっと僕を呼んで、リオ……」
はぁっ……と熱い吐息をもらしたエルが、かたちのいい唇を、わたしの左のほほに寄せた。
「エル、まって……ひゃあっ……」
ほほをかすめるようなキスがくすぐったくて、身をよじる。
だけど顔をそむけた拍子に、かぷ、と耳朶を噛まれてしまった。
「昨日は『まて』をしたんです。今日は、『ごほうび』をくださいね?」
羞恥の涙で視界がにじむわたしを、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべたエルが見下ろしている。
「ご、『ごほうび』って……」
こわごわと見上げれば、エルがわたしの左耳に唇を寄せ、ささやく。
「あなたが欲しい」
「っ……」
身をこわばらせたわたしの頭上で、くすりと、笑い声がこぼれる。
「大丈夫です。怖いことは、なにもしませんから」
わたしに語りかけるエルの声は、おだやかだ。
でも、いつもみたいにやさしい声の奥には、じりじりと熱がくすぶっているのが、わかる。わかってしまった。
「リオ……」
また、名前を呼ばれた。
そう気づいたときには、ぶわっと、ひときわ強い花の香りにつつまれていた。
「……んっ、ふぅ……んっ、んんっ……」
かさねられた唇。わたしの唇の感触を楽しむように、角度を変えて、やわく食むような口づけが、何度も。
息苦しさに涙がにじんできたころ、ふいに唇を離される。
「ん……ふぁっ、エル……ひゃっ!?」
だけど、安心できたのもつかの間。わたしの肩口に顔をうずめたエルに、首すじを吸われてしまう。
ちく、とかすかな痛みの後に、遅れて首すじが熱を持ちはじめる。
「マーキングは、しておかないとですよね?」
くすくすと、耳のすぐそばでエルの笑い声が聞こえる。
わたしはもう、恥ずかしさで、なにがなんだかわからなかった。
(わたし、このままエルと……)
逃げたい。でも力の差は歴然だ。エルは逃してはくれない。
「なにも難しいことは考えなくていいんですよ、リオ」
甘い甘い香りにあてられ、ぼんやりと思考停止したわたしのほほに、エルが唇を寄せる。
「僕にとって、あなたが世界のすべて。あなたの望むことは、なんだって叶えます」
ちゅ、ちゅ、とくり返しほほにキスを落としながら、エルの長い指が、ベッドに投げ出されたわたしの両手の指にからめられた。
(このまま、流されちゃう……?)
いっそ諦めてしまえば、楽になれる。
流されて、身をゆだねてしまえば、エルは喜んでわたしを『愛して』くれるんだろう。
(このまま、エルを受け入れたら……)
そうすれば、エルは全身全霊で、極上のひとときを味わわせてくれるんだろう。
……だけど、でもね。
「あなたのためなら、なんだってします。だからおねがい……僕を欲しがって、リオ。あなたが望むなら、奴隷にだってなりますから」
わたしに慈悲を乞うその言葉を耳にしたとき、すっ……と、からだの火照りが引く。
それは、ふいに吹き抜けたそよ風が、甘い香りを吹き飛ばしたような感覚で。
思考が、クリアになる。
からめられた指を、するりと外す。そして無言で胸を押し返したわたしに、エルが蜂蜜色の瞳を見開く。
「……リオ? どうし、」
「だめです、エル。これはだめ」
そうとだけ口にすれば、わたしを抱き込むエルの腕が、強ばった。
「僕を……拒むんですか?」
「ちがいます」
「違わないです。だって、僕を遠ざけようとしてる」
「エル」
「嫌です、離しません。あなたに突き放されたら、僕はもう生きていけない……」
「おねがいだから、話を」
「聞きたくないです、あなたが僕を拒否する言葉なんて!」
「……そうですか」
エルにはたいへん申し訳ないけど、さすがに、カチンときました。
「だーかーら……話を聞いてって言ってんでしょーっ!」
リオさん、ぶちギレ。ほんとなら渾身の右ストレートをくり出しているところだけど、そこはグッとこらえて、腹が立つくらいととのったエルのほっぺを、むにゅっとつねるだけに踏みとどまった。
エルもエルだよ。わたしの攻撃なんか簡単にかわせただろうに、避けないんだもん。
「……いひゃいれふ」
「自業自得なので、そこんとこよろ、です」
諸々のフラストレーションが積もりに積もって、そっけない物言いになってしまったことくらいは、多目に見てほしい。
「ねぇエル。わたしがなんで怒ってるか、わかりますか?」
ふるふる、と首を横に振るエル。本気で心当たりがないらしく、へにゃっと耳を垂れた猫みたいにしゅんとしてる。叱られた子猫か。まったく。
「わたしが怒っているのは、エルがじぶんを大切にしないからです。『じぶんを安売りするな』って、わたし言いましたよね?」
「──っ!」
ハッとしたように、エルが身じろぐ。
わたしもほほをつねるんじゃなくて、今度は、両手でそっと包み込んだ。
伝えたいことがあるから、ちゃんとエルの目を見て、話したいんだよ。
「エルがわたしのこと好きだって言ってくれて、うれしかったです。独りぼっちで生きてきたわたしでも、必要としてくれるひとがいるんだって、自信が持てるようになりました。だからこそ、エルの『おねがい』は受け入れられない」
わたしを映した蜂蜜色の瞳は、水面のように、ゆらめいている。
「わたしは、エルに奴隷になってほしいんじゃない。虐げられることを、当たり前のように受け入れてほしくないんです」
「リオ……」
「エルにのびのびと生きてほしい。こころから笑っててほしい。わたしは、じぶんらしく楽しい毎日をすごしてるエルと、おなじ目線でいたいの!」
「っ……あぁ、リオ……っ」
エルが悲痛に顔をゆがめた次の瞬間、ぎゅううっと、わたしは痛いくらいに抱きすくめられていた。
「あなたのそばを離れたくないからって、なりふりかまわずに、僕はなんてことを……ごめんなさい、僕が間違っていました」
いつもほほ笑んでいて、なんでも器用にこなしてしまうエル。そんなエルが、余裕のない様子で、声を震わせている。
「あなたは……あなただけが、僕という人間を、ちゃんと見てくれる。僕の間違いをただしてくれる。僕と、対等でいてくれる……」
たよりなく震える背へ、わたしも腕を回して、エルの切実な告白に応える。
「いままでしんどかったですよね。いい加減、楽しく生きたってバチは当たらないと思うんです、お互い」
わたしはエルの過去を知らない。だからこれは、あくまで、わたし個人の人生観の押し売り。
「エルはがんばってますよ。……って、なんか上から目線で申し訳ないですけど、とにかく! エルが思ってる以上に、わたしはちゃあんと、エルのこと見てますから!」
「……たとえば?」
「あっ、疑ってますね。よーし、それじゃあお教えしましょう!」
ここぞとばかりに、わたしは右手の人さし指を立てる。
「ひとつめ! エルはやさしい。いっしょにいると落ち着きます。ふたつめ! エルはいろんなことを知ってて、尊敬します。みっつめ! エルはすごく強くて、たのもしいです。はい、ヴァネッサさんからのお題、『エルの好きなところをみっつ挙げなさい』でした!」
「いまそれを言うんですか。……あなたは、もう」
エルが薄く笑ったような気配がして、痛いくらいに回されていた腕が、そっと、わたしを抱き直した。
「あなたが愛おしい。それしか、言葉が見つからない。あなたは、ほんとうに……どれだけ僕のこころを揺さぶれば、気がすむんですか」
すこしだけからだが離されて、ようやく、エルと視線を交わすことができる。
蜂蜜色の瞳には、涙がにじんでいた。キラキラして、宝石みたいだなって思った。
「リオ。……ちょっとだけ、わがままを言ってもいいですか?」
「もちろん。エルにはいつも助けられてばっかりなので、わたしもお返ししたいです。わたしにできることがあったら、遠慮なくどうぞ!」
「……ありがとう」
ふとまつげを伏せたエルが、わたしの肩にもたれかかる。
「手を……にぎってほしいです。そばにいてほしいです。……僕が、眠れるまで」
──夢見はよくはないですね。むかしからです。
エルが何気なく話していたことを思い出す。
とりとめのない会話の一部。だけど、エルはだいじなことを教えてくれていたんだと、いまならわかる。
「あなたのそばなら、悪夢に悩まされることはないだろうから」
エルはきっと、こころの拠り所をさがしていたんじゃないかな。
その上で、わたしのとなりを安心できる場所だと思ってくれているなら、答えは悩むまでもない。
エルの手を引いて、ごろりとベッドに寝転んだ。
「それじゃあ、今日はエルの抱きまくらに任命されますね。モンスター倒しまくって疲れてますよね、はい、おやすみなさい!」
「ふふ、では、お言葉に甘えて」
くすっと笑みをこぼしたエルに、ぎゅっとハグをされる。
「……おやすみなさい、リオ」
そっとつぶやいたエルの胸に抱かれて、そのすこし早足な心音を聞きながら、わたしもまぶたを閉じる。
静かな部屋で、ふたりきり。
クラクラするような甘い香りは、いつしか、心地よいほのかな香りへと変わっていた。