「いたっ……んぅうっ!?」
ぐるりと視界がまわったかと思えば、背中に衝撃。立て続けに、うめき声をあげた唇をふさがれてしまう。
無理やり振り向かせてきたノアに、石造りの壁に押しつけられ、噛みつくようなキスをされていた。
いや、実際噛みつかれていたんだろう。インキュバス特有の鋭い牙が角度を変え、深さを変えて、ピリッとした痛みをともなって、何度も何度もわたしの唇を甘噛む。
「ふぁっ……ノア……んんっ!」
「っは……ん……んっ……」
ぬるりと口内へ侵入した肉厚の舌が、あっという間にわたしの舌を絡めとり、ざらざらとした表面をこすりつけてくる。
わたしを責め立てるような呼吸のうばい方だった。口のなかを這いずりまわる熱いものに唾液をかき混ぜられ、もうなにがなんだか。
「……はぁっ! ……っは、は……ふぅう……」
ようやく唇を解放されたときには、息も絶え絶え。
ぐったりと壁によりかかっていたら、たぶん唾液が垂れているだろう口の端を、ちゅうっと吸われた。
「はぁ、はぁ……ノア、なんで……?」
「わかんない……そんなの、俺がききたいよ」
ノアはこれまで、わたしの嫌がることは絶対にしてこなかった。
だからこそ、強引にキスされた事実を、いまだに脳が処理できていなかった。
困惑するわたしを腕に閉じ込めたまま、わたしの肩にもたれかかってきたノアが、しぼり出すような声音でつぶやく。
「ぎゅってくっついて、リオとキスしたら、しあわせな気分になる……なのに、なんで? 胸がモヤモヤして、たまらないんだ。ひとを好きだって気持ちは、しあわせなことなんじゃないの? なんで……こんなに、いやな気持ちになるの? ねぇ教えてよ、リオ……」
お人形みたいにととのったノアの顔が、悲痛にゆがむ。
こぼれ落ちそうなサファイアの瞳には、ゆらゆらと水の膜が張っていた。
(わたしがエルといたから、機嫌が悪くなって……これって、もしかして……やきもち?)
ノアがエルに嫉妬してるってこと。
つまり、ノアがわたしに、独占欲を感じてる……
それほど、わたしを好きでいてくれてるってこと。
(……あぁもう……わたしのばか、ばかばかばか)
近所のお姉さんに憧れてる感じとか、恋に恋するお年頃だとか、なにを根拠にばかげたことを。
「ごめん、ノア。……ほんとうに、ごめんなさい」
そりゃあ年下の男の子だよ。精神年齢なんかひと回り以上も離れてる。
けど、だからって、これは軽くあしらっていい問題じゃない。
「ノアがこんなに好きだってつたえてくれてたのに、わたし、気持ちを全然受けとめてあげられてなかったね。ごめんね……」
見て見ぬふりはだめだ。
言葉をつまらせながら、わたしもつたえる。
ずっとむかし、こころの奥底に押し込んでしまった、『
「……わたし、だれかに愛されたことがなかったの。3歳のころに……お父さんに、気味が悪いって、捨てられたから」
頭上で、はっと息をのむ気配がある。
そうだよね。お父さんに愛されてのびのびと育ったノアには、ショックな告白かも。
「家族にすら愛してもらえなかったわたしが、ほかのだれかに愛されるなんて、考えもしなくて、自信もなかった。だから、ノアの気持ち、ちゃんと理解しようとしてなかった。ごめん……」
いたたまれなくてうつむいちゃったから、ノアがどんな表情をしているかはわからない。
ただ、ローブのすそをにぎりしめた手に、そっとふれる手がある。
わたしの手をすっぽりつつみ込んでしまう、大きな手のひら。男の子の手のひらだ。
「もういいよ。……俺のほうこそ、じぶんの感情ばっかぶつけちゃって、ごめんね。リオがどんな思いをして生きてきたか、よく知りもせずに……わがままばっかり」
ちゅ、とくすぐるように目じりにキスを落とされてはじめて、涙がにじんでいたことに気づいた。
「ねぇ、リオ……だれかを好きな感情って、しあわせな気持ちだけじゃないんだね。さびしくて、苦しかったり、切なかったりする……それでも、そばにいたいって想いは変わらない。不思議だよね」
だからね、と、おでこをふれあわせたノアは、これまで見たことがないやさしい表情だった。
「俺、世間知らずだし、頼りないところもあるかもしれない。でも、リオを想う気持ちはだれにも負けない自信があるよ」
「ノア……」
「そばにいるよ。なにがあっても、俺はリオを、愛してる」
……あぁ、もう限界だ。
そう感じたときには、手遅れで。
「これが恋の病ってやつなら、もう手遅れだよ。たとえ神さまの怒りを買ったってリオのとなりに居座るつもりだから、覚悟して」
「……あははっ、すっごい強気な意気込みだ」
わたしもノアも、どっちも手遅れなら、がまんすることなんてないよね。
「反則だよぉっ……!」
こらえていたものが、目頭から一気にあふれ出す。
泣き崩れそうになるわたしを、ノアがぎゅうっと、力強く抱きとめてくれる。
「俺の気持ち、信じて。俺を信じて、リオ」
そうだよ。ノアはずっと、気持ちをつたえてくれてたじゃない。
あぁ……わたしも、愛されてたんだね。
「ありがとう……ノア……っ」
きみが好きだというわたしを、わたしもすこし、好きになってみたくなったよ。
ノアがにっとはにかんで、かたちのいい唇を寄せてくる。
しっとりと吸いつくようなキスを、わたしもノアの背に腕をまわし、自然と受け入れていた。
ふれたのは、まばたきをするほんの一瞬。
わたしのなかにあるものを根こそぎうばいとったり、責め立てるような口づけじゃない。
魔力供給をともなわないキス。
それは、たがいのぬくもりをたしかめ合う、愛しさに満ちあふれたふれあいだった。
「リオ。──愛してる」
あぁもう。
とどめのひと言なんか、くれなくたっていいのに。
認めるよ。
わたしはとっくに、きみに
* * *
メーデー、メーデー。
恋し恋される全世界のボーイズ・エンド・ガールズ。
前世も今世も彼氏いない歴イコール年齢だった哀れなわたしを、どうか助けていただけないでしょうか。
「落ち着いた?」
「……ん」
「よかった」
回廊のど真ん中で年甲斐もなく泣き出してしまったわたしの背を、ぽんぽん、となでさすってくれたノア。
追い討ちとばかりに、まばゆいばかりの顔面でこんなことをのたまいます。
「がんばりやさんなのはリオのいいところだけど、たまには俺の前で弱音を言ったり、泣いてもいいんだからね」
「ヒョエッ……」
やばい変な声出た。
どうしよう。ノアが急激にイケメン化したんですけど。
いやもともとイケメンではあったけど!
免疫が! 突如破壊力を増したイケメンへの免疫力が足りません!
「そ、そういう発言は、よくないと思います」
「なんで?」
「心臓に悪いので……」
もごもごとどもりながら視線を泳がせたら、「あはは」と笑い声がして、頭上に影がかかった。
恥ずかしくてそっぽを向いても先回りされて、わたしのほほを両手でつつんだノアが、サファイアの瞳を楽しそうに細め、こつん、とおでこをくっつけてくる。
「ドキッとした?」
「へぁ?」
「俺のこと、男だって意識してくれた?」
「……うきゃあああっ!!」
「はーい暴れない、暴れない」
失言だった。羞恥のあまり発狂しても、じたばたとがむしゃらに動かす手足を簡単におさえつけられてしまう。
「どうしよう……照れてるリオ、かわいい。はぁ、もういい加減にしてほしいなぁ……かわいすぎる」
そうこうしてたら、腕いっぱいのハグをかましてきたノアくん、なんか限界オタクみたいになっとります。
すりすりすり、と甘えたようにほおずりしてくる一方で、わたしの腰をがっしり巻きとった腕力はちっとも可愛くない。
ちょっ、だから、その細い腕のどこにそんな力があるの!
「リオ見てたら、おなか空いてきちゃった……ちょっとくらい、つまみ食いしてもいいよね?」
うっとりとした蕩けた表情のノアが、お口をあける。
その奥にある鋭い牙を目の当たりにして、あ、たべられる、と他人事のように思った。
そうやって、薄笑いをしながら悟りをひらこうとしていたときのことだった。
「……うん? なんか焦げくさいにおいが…………って、まってまってまって! なにあれーっ!?」
信じられない光景を目撃する。危うく目ん玉が飛び出るところだったわ!
「もう、こんなときに……どうしたの? リオ」
「あそこ! あそこになんかいるんだって! あれだよノア!」
バシバシッと背を叩いたら、わたしの唇に唇をくっつける寸前だったノアが、怪訝そうにふり返る。
きゃあきゃあとわたしが指さす先を見て、ノアも、サファイアの瞳を丸くした。
「え、なにあれ。燃えてない? 草?」
「そうなの、草のかたまりが燃えてるの!」
「なんか動いてるけど」
「奇遇だねわたしもそう見える! 草ってひとりでに動くもの!?」
「世間的に草っていわれてるものは、あんなにずりずりと地面を蛇行しながら這ったりしないけどね」
ここで告白します。リオさんはホラーが苦手です。
この世界でいうと、宝箱に擬態して、鍵をあけようとした冒険者を襲うモンスター、ミミックとか。
要するに、一見ごくふつうのものに見えて、『ガッ!』とおどろかせてくるものが大の苦手です。
一見草なのに、どう考えても草じゃないあれもね!
「ちょっとストップ、めっちゃ燃えてるしなんかこっちに迫ってくるんですけど、いやぁああ鎮火ぁああっ!」
「オッケー、まかせて──『レイン・シャワー』」
パニックに陥ったわたしとは裏腹に落ち着き払ったノアが、右手をかざして呪文をとなえる。
すると青い光の魔法陣が宙に浮かび上がって、ざぁああと雨がふりはじめる。
局所的に雨をふらせる水魔法は、スプリンクラーの要領で、ぼうっと燃える炎のいきおいをあっという間に弱めていった。
「仕上げだ、『サンド・ウォール』」
すぐさまノアが土魔法を発動。まだくすぶる草のかたまり周辺の地面を隆起させて、パチンッと指を鳴らす。
魔力の制御をうしなった土の壁がくずれ、ずしゃあっと草のかたまりを埋めてしまった。
そうだよね。火のいきおいを弱めたら、あとは酸素を完全に遮断して消火。理にかなった対処法です。
しーんと沈黙が流れて、動くものがないことを確認したわたしは、おそるおそる口をひらく。
「み……未確認物体、やっつけた?」
「どうだろ。ちょっと見てみる。新手のモンスターかもしれないから、リオはここで待っててね」
「へい、おねがいしやす……」
数々の薬草採取クエストをまわってきたわたしも、ああいう植物型のモンスターは見たことがない。
ここはノアにまかせるのが吉だろうと、回廊の柱の影にささっと避難し、様子をうかがう。
「さぁて、おまえは何者なのかな?」
ネイビーのローブをはためかせたノアが、こんもりと盛り土になった場所へ近づいていく。
「リオに危害をくわえたら、タダじゃおかな──」
低くうなるようなノアの言葉が、最後までつむがれることはなかった。
ぐしゃっ。
盛り土の向かって右側から、鋭い爪のようなものが突き出したから。
ぐしゃっ。
同じように、左側からも爪が突き出す。
「ひぃっ……なんか生えてきたぁ……!」
「リオ、そこから動かないでよ」
ノアが姿勢を低くし、両手を目前にかざす。いつでも魔法を発動できる状態だ。
「グゥゥ……」
っていうか、なんかうなり声みたいなのも聞こえてきたし。
なんなの? ほんとになんなの、あれ!?
わたしの恐怖は最高潮。叫び出したくてたまらなくなったそのとき、土のかたまりの真正面に、ぐしゃあっ! と真っ赤な『なにか』が突き出した。