一度おとずれたことのあるエルの部屋。
だけど、たどり着く前に、回廊ですれ違った商団ギルドのお兄さんが、驚くべきことを言い放った。
「エリオルさまをおさがしですか? 急な来客があって、その対応をされていますよ。各ギルド関係者でも、街の関係者でもないときいていますが」
「部外者ってこと? この時期にブルームへ来るなんて、とんだ物好きもいたもんだ」
ヴァンさんの言うとおりだ。
連日モンスターの襲撃を受けているこの街が危険なことは、近隣の街や村にも周知されているはずだから。
商団ギルドのお兄さんに教えてもらったとおり、エルがいるという庭園へヴァンさんと向かうと──たしかに、いた。
臨時ポータルの設置されたすぐ近くで、だれかと向き合っている。
「エル?」
呼んでみたけど、返事はない。いつもならすぐわたしに気づいてほほ笑みかけてくれるエルが、背を向けたまま、わたしに気づかない。
それくらい、目の前にいるひとに、集中してるってこと。
「……おひさしぶりです。こちらには、どういったご用件で?」
ふだんは柔和なエルの声が、どこか硬い。抑揚もない。
そっとエルへ歩み寄る足を、思わず止めてしまった。
なぜなら、エルを取り巻く空間が、底冷えするくらい、冷え切っていたから。
「傷つき、不安な夜をすごすひとびとへ、神の祝福を授けに」
次にきこえたのは、若い男性の声だ。
「この世に神などいません」
「かつて神の御前にお仕えしていた者の言葉とは、思えないな」
「『仕えさせていた』の間違いでは?」
淡々と返すエルの言葉は、あからさまに刺々しい。
それは、ヴァンさんに対するものの比じゃない。明確な拒絶と、嫌悪感によるものだった。
ここまで来れば、エルと向き合った人物が歓迎されていないことは、いやでもわかる。
「あの男、神殿の関係者だね」
「神殿の……ですか?」
「そ。しかもあの純白の衣裳、大神官クラスだ。んー、顔がよく見えないな」
たしかに、庭園をいろどる薔薇のしげみに阻まれて、エルのすがたもよく見えない。
大神官らしき男性とエルが、なにをしているのか?
なりゆきを見守っていると、しばらくの沈黙があって、次に口をひらいたのは、くだんの男性だった。
「では、日をあらためてうかがうとしよう」
「また追い返されるとはお思いになりませんか?」
「思わないな。ひとびとはかならずや、神の慈悲を乞うだろう」
風が吹き、薔薇の葉がそよぐ。
「エリオル」
黙りこくるエルへ歩み寄った男性の顔が、あらわになった。
「…………え?」
そのとき、その瞬間。
見えた。見てしまった。エルと言葉を交わしていた男性の顔を。
「エリオル。ひとたび神へその身をささげたおまえは、すでにわが
わたしの心臓は、バクバクバクと異様に加速をはじめる。
「──ッ!!」
とっさにローブのフードをまぶかにかぶり、後ずさっていた。
「リオちゃん? どうしたの?」
わたしの異変に気づいたヴァンさんが、心配そうに声をかけてくれる。
だけど皮肉なことに、そのやさしさが、わたしの望まない展開をまねいてしまう。
「……リオ? いたのですか?」
エルに、気づかれてしまった。
「ごめんなさい、朝のごあいさつにうかがえなくて……どうしたんですか、からだがふるえてます。具合が悪いのですか!?」
顔を隠したくらいじゃ、エルの目はごまかせなかった。
フードをにぎりしめた手がわずかにふるえていることすら気づかれて、血相を変えたエルが駆け寄ってくる。
「ヴァン、彼女になにかしたんじゃないでしょうね」
「濡れ衣だよ! ここに来るまでなんともなかったってば!」
「どうだか。……部屋まで送ります。今日は一日無理をしないで、休んでください。ね? リオ」
やわらかくほほ笑みながら肩を支えてくれるエルは、わたしの様子がおかしい本当の理由に気づかない。気づけるはずもないんだけど。
「…………『リオ』?」
エルの言葉に反応したのは、あの男性だ。
わたしは神殿なんか行ったことがなければ、大神官の知り合いもいない。
だけどわたしは、彼を知っている。そして、彼もまた。
「そこにいるのは、まさか……リオなのかい?」
こわごわとわたしに問いかけてくる彼は、アッシュグレーの髪に、葡萄酒のように深みのある赤い瞳。
男性にしては柔和で、繊細な顔立ちだった。
その顔を、わたしは知っていた。
……忘れたくても、忘れることのできない面影だ。
「答えてくれ……リオなのかい?」
わたしはぐっと唇を噛んで、答えない。それが、なによりの答えになってしまった。
「っ……リオ」
たまらない、といったように踏み出した男性が、純白の神官服をひるがえして、あっという間に距離をつめる。
しなやかな腕が伸びてきて、顔を隠していたフードを脱がされるのも、時間の問題だった。
そのとき、すぐそばで、はっと息をのんだような気配があった。エルだろうか、ヴァンさんだろうか。
「あぁ……やっぱり、リオだ」
葡萄酒色の瞳をゆらめかせた男性が、ひたりと、わたしのほほに手のひらをふれあわせてきて。
「会いたかった……私のリオ……っ!」
それからはもう、感情のままに、きつく抱きしめられる。
痛いくらいの息苦しさにつつまれながら、混乱真っ只中だった。でもそれは、わたしだけじゃなくて。
「……待ちなさい。あんた、テオ……テオバルトじゃないの」
低くうなるような発声があった。
わたしを抱擁した男性が、怪訝そうにヴァンさんをふり返る。
「なぜ、私の名を?」
「知ってるに決まってるでしょうが……!」
投げやりに言い放ったヴァンさんが、まぶかにかぶっていた外套のフードを脱ぎ、指にはめていた変声魔法具も引き抜く。
「まさかこんなところで再会するとはね、テオバルト!」
「……これはおどろいた。ヴァネッサか?」
マゼンタとワインレッド。微妙に色味は違うけれど、おなじ赤系統のまなざしが、絡み合った。
「なんであんたが、リオちゃんに馴れ馴れしくしてんのよ!」
「リオが私のリオだからだが」
「意味わかんないわよ!」
まって。エルだけじゃなくて……ヴァンさんも、このひとと知り合いだったの?
いよいよ、わたしの混乱も最高潮に達していた。
「私のリオ。この子は私の、愛しいひとり娘だ」
「はっ……?」
「……なん、ですって」
呆然とするヴァンさん。エルも、蜂蜜色の瞳を見ひらいて硬直している。
「つらい思いをさせたね……ごめんね、おまえを想うがゆえに、厳しい仕打ちをしてしまった」
「……おとう、さん」
「なんだい? パパにしてほしいことがあれば、なんでも言ってごらん」
にっこりと浮かべられた表情は、バースデーにクマさんのぬいぐるみをプレゼントしてきたときのそれと、まったくおなじだ。
「嗚呼、神よ……立派に成長した娘とふたたびめぐりあわせていただき、ありがとうございます」
ぎゅうぎゅうとわたしを抱きしめるお父さんは、涙すら浮かべている。
「……冗談はよしてよ」
そんななか、これまできいたことのないほどの低音で、ヴァンさんがうなった。
鋭く細めたマゼンタの瞳で、お父さんを睨みつけている。
そして次の瞬間。ヴァンさんは、衝撃的な言葉を放つのだった。
「いきなり家門を飛び出して行方をくらませたと思ったら……あんたがリオちゃんの父親ですって? いったいどういうことか説明しなさい、テオバルト・カーリッド!」
なにを言われたのか、すぐにはわからなくて。
その言葉が指す本当の意味を理解したとき、キャパシティーオーバーをむかえたわたしの思考は、ぶつりとブラックアウトした。