真珠湾奇襲が始まったとき、ハインライン大尉は戦艦<ネバダ>のブリッジにいた。
彼だけでは無い。<ネバダ>の艦長、そして当直の士官と水兵の数名が詰めていた。
最初の反応はシンプルで、誰もが言葉を失っていた。何かの間違い、あるいは映画の撮影かなどと考えたほどだ。
現実にしては、あまりに悪夢的でふざけていた。
真珠湾に集結した太平洋艦隊、そして周辺の航空基地、沿岸部の市街、そのどれもが無慈悲な暴力にさらされている。
それは一瞬で始まり、対応の間もなく、この真珠湾のみならずオアフ島全体を蹂躙しつくそうとしていた。
ハインラインが乗る艦――USS<ネバダ>も例外では無かった。
彼がこの艦へ着任したのは、つい先月のことだった。それより半年ほど前までは病気療養のため、サンディエゴの病院に入院していた。そのときまでハインラインは趣味でサイエンスフィクション小説の原案を練っていた。実のところ退官後に作家を目指すつもりだったのだ。想像力豊かなハインラインだったが、目前の光景は彼の空想を完膚なきまでに凌駕していた。
「莫迦な……」
<ネバダ>の船体が凄まじい衝撃に殴打された。激しい揺れに耐えながら、呟くように罵るのが精一杯だった。
「こんなことがあってたまるか……!」
再び<ネバダ>が殴打される。比喩でも何でも無く、文字通り合衆国海軍の象徴は、巨大な触手でぶん殴られていた。
触手は<ネバダ>前部、第2砲塔を足がかりに巻き付くと締め上げながら本体を海面から引きあげていった。
ギリギリと鉄をこすり合わせたような音が響き、まもなく悪夢の正体が海面から姿を現わした。
「神よ……」
これがオレの酔狂な脳みそが見せる夢であらんことを、現実であってたまるか。
触手の主は巨大な蛸に似た頭足生物だった。その色は毒々しい紫色で、全体を黒い斑点で覆われている。
神話に出てくる海の怪物、クラァケンそのものだった。
クラァケンは<ネバダ>の前部甲板へよじ登り、今度は巨大な触手をブリッジへ振り下ろした。
「クソッたれが……」
触手はブリッジを直撃し、冒涜的な悪態をつく最中でハインラインは転倒した。打撲の痛みが否が応でも夢ではないと知らしめてくれる。
うめきながらも起き上がり、ハインラインは前方を見据えた。
クラァケンは触手を槍先のように尖らせると、自分のいるブリッジへ指向した。このタコ野郎、頭は悪くないらしい。ある種の諦観を抱きながら、ハインラインは感心していた。
触手がブリッジへ放たれ、同時に神への祈りを捧げたときだった。
爆風が吹き荒れ、クラァケンの頭が吹き飛ばされた。
何が起きたかハインラインにはわからなかった。
ただ、誰かがジャップと叫ぶのを聞いた。
◇
淵田中佐の命によって、先行した戦闘機隊はフォード島上空へ到達した。
目標は島にある飛行場だ。彼らの役目は、そこから飛び立つであろう敵戦闘機を速やかに捕捉、そして撃滅することだった。しかし、それは叶わなかった。
「どうなってやがる……なんだこりゃ?」
地表をもう一度確かめる。
飛行場のいたるところから黒煙が立ち上っていた。敵の戦闘機―彼が倒すべきP‐40―が数十機、無残なスクラップと化していた。味方の攻撃とはとうてい思えない。はっきりと彼は言い切ることができた。飛行場の機体は、どれも歪な壊れ方をしていた。
仮に250キロ爆弾が直撃したとしても、金属製の機体を煎餅のように押しつぶすことなどできようがなかった。それに加えて、滑走路には不可解な跡が残っていた。まるで何かを引きずり、あるいは這ったような帯が残っていた。帯の幅は太く、滑走路を完全に覆うほどだった。
破壊されていたのは、機体だけではなかった。格納庫の屋根はめくれ上がり、活火山のごとく火を吹き上げている。おそらく航空燃料に火が付いたのだろう。
戸張が格納庫の状況を確認しようと、さらに高度を下げたときだった。さらに航空燃料へ引火したらしい、強烈な閃光とともに格納庫が吹き飛んだ。
「糞がっ!」
戸張の視界が漂白される。目視確認のため、ゴーグルを外していたのが不味かった。戸張は反射的に操縦桿を起こし、地表へ激突する寸前でようやく機体を起こした。
悪態をつきつつもゴーグルをかけ直し、戸張はふと列機が真横を並行していることに気がついた。彼の上官で、編隊長の
飯山は
彼らが乗る零戦にはまだ無線機は搭載されていなかった。そのため手信号を交えながら、大声で怒鳴りあう羽目になった。
飯山が下を指さした。
『どうなっている?』
戸張は手を横に振った。
『アメ公の戦闘機が軒並みスクラップになっています!!』
『事故か──』
飯山が続けて何かを伝えようとしたが、そこで怒鳴り合いは突然中断された。海面から緑色の火柱が立ち上り、飯山の機体を包み込んだ。
途端、零戦が飴細工のように溶けて落ちていく。航続距離を得るため、極限まで軽くした機体。被弾に弱く、耐久性には問題があったが、それにしても呆気なさすぎる。
「っ……!!」
咄嗟に戸張は機体を左へ急旋回させた。天蓋を開いたまま、海面を凝視する。敵の正体が明らかになったとき、戸張は全身の毛が逆立つのを感じた。
「化け……物」
そうひねり出すのが精一杯だ。エメラルドグリーンの水面に、不気味で圧倒的に巨大な影が揺らめいている。それは付近に係留された戦艦と同等の大きさだった。明快な比較対象がある分、その脅威は直接的な恐怖を呼び起こした。戸張は混乱し、思考を放棄しかけた。そのときだった。水面の影、その一部が正体を現わした。
「
それは鋭い鱗に覆われた大蛇の頭だった。巨木のように太い首が続いて現れる。しかも、それは一つだけで無かった。
「
そうとしか形容のしようが無かった。無数の大蛇の首が現れ、それらは一つの胴体に収束していた。場違いな情景が戸張の頭を過ぎる。生物学の講義で見た何かを思い出していた。
そう、あれだ。樹形図だ。
樹形図の蛇は、後の「ヒュドラ」と呼称される。しかし、そんなことは今の戸張にはどうでもよかった。
彼は
突如現れたヒュドラはフォード島飛行場に背を向けた。その先には太平洋艦隊司令部があった。
◇
地獄の釜をひっくり返したような混乱の中、いち早く指揮系統を回復したのは戦艦<アリゾナ>だった。他の艦と違い、<アリゾナ>には多くの将兵が艦内に残っていたのだ。ホノルル市内からやってくる見学予定の少年少女を受け入れるためだった。
小さな客人を迎えるために
星条旗が取り出されたときだった。左舷に停泊していた工作艦<ベスタル>のデッキ中央が爆発炎上した。<アリゾナ>のデッキで将兵たちがあっけにとられる中、<ベスタル>は黒煙を上げ、どんどん傾斜していく。
「対空警戒!」
ブリッジにいた艦長のヴァルケンバーグ大佐の反応は早かった。彼は<ベスタル>の損傷を爆撃によるものだと推測していた。あながち的外れでは無かった。
やがて<ベスタル>以外の艦も攻撃を受けていると判明した。そして、それがジャップの航空機では無く異形のモンスターによるものだとわかってきた。
「こんなモンスターどもが、なぜ真珠湾に?」
疑問に答えられるものはいなかった。それよりもやるべきことがあると、ヴァルケンバーグは気づいた。
「総員、反撃だ。あの化け物どもを生きて返すな。ここがどこか思い知らせてやれ」
ヴァルケンバーグの命令により、<アリゾナ>の火器群が一斉に火を噴いた。
両舷の機関砲と機銃がそれぞれ化け物の群れへ弾の嵐を見舞う。それらはクラァケンの触手を寸断し、ヒュドラの頭を数本吹き飛ばした。
高角砲は仰角をいっぱいにして、空を飛ぶ有翼型生物へ弾幕を張った。それらは人型の生物にコウモリの羽をつけたようなもので、空から不可思議な紫色の火球をオアフ島各地へ落としていた。火球は落下後に激しい爆発を起こし、周囲を焼き払った。
火球はパールハーバーだけではなく、ホノルル市内にも被害を及ぼし、各地で火の手が上がっているのが見えた。
<アリゾナ>のは前部と後部に強力な35.6cm砲を搭載しているが、さすがにそれは使えなかった。今、彼女の前後には味方の戦艦が連なって停泊している。こんなところで主砲を使えば、同士討ちを招く恐れがあった。もし主砲を使うとしたら、湾外へ出て距離を取るしか無かった。
ヴァルケンバーグは後部ブリッジを艦内電話で呼び出した。無事な士官から艦尾の状況を聞き出すつもりだった。
◇
ヴァルケンバーグの電話を受けたのは、航海士官のマッケンジー大尉だった。彼のことはよく覚えている。最近、小さな娘さんのことで艦内見学の相談を受けたばかりだった。
『マック、湾外へ出られないか?』
ヴァルケンバーグから尋ねられ、マッケンジーは艦外をよく観察した。相変わらずの地獄だが、目を背けるわけにはいかなかった。
「<ネバダ>と連携すればあるいは……」
その先を濁して、マッケンジーは答えた。
<ネバダ>は<アリゾナ>に続いて係留された最後尾の艦だった。<ネバダ>が後進してくれれば、<アリゾナ>も続いて湾外へ出られるはずだった。しかし、それは相当困難に見えた。
マッケンジーがいる後部デッキから見えた<ネバダ>は、四体の巨大なクラァケンによって羽交い締めにされいた。そして火器群が無秩序な反撃をしているのを見る限り、指揮系統の回復にしばらくかかりそうだった。現に無線で<ネバダ>のブリッジを呼びだしているが、繋がらない。
混乱の只中にありながら、マッケンジーの思考は冴えていた。乗っている艦が反撃できているからかもしれない。何よりもこちらの火器が効いているのがわかり、心強かった。加えて他の艦と違い、<アリゾナ>はまだ大型モンスターの襲撃を受けていない。
彼は状況を打破する策を思いついていたが、それは自身の一存では決められないことだった。
「サー、ひとつよろしいでしょうか」
マッケンジーは逸る気持ちを抑えながら、上官へ切り出した。
『かまわない。言ってくれ』
「本艦の火器を<ネバダ>に集中すべきです」
案の定、ヴァルケンバーグは厳しい口調で問い返してきた。
『マック、君は私に味方を撃てというのか?』
「サー、違います。支援です。いま<ネバダ>は化け物に拘束され、身動きが取れません。デッキには誰もおらず、とり着いた化け物どもに占領されています。奴らを一掃できれば、<ネバダ>は指揮を回復できるかもしれないのです」
『少し待て。考える』
十数秒の沈黙が続き、ヴァルケンバーグが問い返してくる。
『マック、本当に<ネバダ>のデッキには誰もいないんだな?』
「はい。私の目から見えるのは化け物どもだけです」
『……わかった』
それから受話器の先で何やら議論する声が聞こえた。早くしてくれとマッケンジーは言いたかった。
彼の眼前で<ネバダ>のブリッジにクラァケンが取りつきかけていた。
恐ろしく長い十数秒が経過し、ヴァルケンバーグは決心した。
『マック、<ネバダ>への
「了解、ありがとうございます」
『これから微速後進させ、右舷側の火器が使えるようにする』
ヴァルケンバーグは少し前から<アリゾナ>の機関を始動させていた。あとはスクリューを回し、操舵手へ指示するだけだった。もっとも、それは冒険的で勇気のいる決断だった。スクリューをすぐに停止させなければ、後部の<ネバダ>に衝突してしまう。
「君が一番<ネバダ>の状況を把握しているだろう。射撃の指揮をとれ。責任は私が取る」
最後の言葉は何よりも心を軽くするものだった。マッケンジーは上官に恵まれたことを神に感謝した。
『アイ、キャプテン』
少しして右舷側の火器が<ネバダ>を射界に捉えた。
「ファイア! 化け物どもをミンチにしてやれ!」
<アリゾナ>の火器群、そのうち小口径の機関砲や機銃から<ネバダ>のクラァケンへ火線が放たれる。直後<ネバダ>の前部デッキに張り付いた頭足生物どもが、次々と醜悪な肉塊に変わった。
射撃開始から5分も経たずして、デッキの化け物どもが一掃される。残ったクラァケンは一体のみ、そいつはデッキの火線から逃れようとした。問題は奴が逃れようとしている方向だった。
「
ただちに射撃が中止される。そのクラァケンは<ネバダ>のブリッジへ張り付くと、すぐに触手で殴打し始めた。ちょうど操舵室があるあたりだ。ブリッジにいる将兵の姿は<アリゾナ>から目視出来ない。
退避しているのかもしれないが、このままでは<ネバダ>が指揮系統を取り戻すのは難しそうだった。そうなっては<アリゾナ>脱出の機会は絶望的になる。
「誰でもいい! すぐにアイツを排除してくれ!」
マッケンジーの願いは、全く意外なかたちで聞き届けられた。突如、爆音とともに彼の視界を猛スピードで緑色の機体が横切った。一瞬のことだったが、白地に真っ赤な円のエンブレムが見えていた。
日本軍の<零式艦上戦闘機>だった。それは去り際に機関砲を放ち、<ネバダ>に残された最後のクラァケンを血ダルマに変えた。
「なぜ!」
なぜ、
それらの回答を得る前に、新たな脅威がマッケンジーの元へ舞い降りた。ついに<アリゾナ>が敵の攻撃を受けたのだ。たった一撃だったが、彼女に破滅的な結果をもたらすものとなった。
<アリゾナ>の後部デッキに巨大な黒い影が落下し、その反動で<アリゾナ>の船体前部がわずかに浮き上がる。艦内で作業をしていた将兵は壁や床に強く叩きつけられ、デッキにいたものはそのまま海へ投げ出された。
後部ブリッジでかろうじて衝撃に耐えたマッケンジーは敵影のあまりの威容に色を喪った。それは童話の挿絵でしか目にしなかった災厄の獣だった。
「ドラゴン……」
<アリゾナ>のデッキに降り立ったのは、
「アラート! すぐに三番砲塔の弾薬庫に注水――」
言い終わる前に、彼は自身の予感が正しかったと知る。
ドラゴンはどす黒い火炎を吐き出した。それは三番砲塔の破孔より、<アリゾナ>の内部を焼き尽くし、弾薬庫へ到達した。
直後、<アリゾナ>は大爆発を引き起こした。
その肉体が輝きに包まれる寸前、マッケンジーの瞳には娘の笑顔が浮かんでいた。
――ああ、どうか神様、あの子を、シェリルを厄災からお守りください。
USS<アリゾナ>は後部デッキより真っ二つになり、乗員もろとも海の底へ沈んでいった。
この戦争において、彼女は合衆国海軍の喪失艦第1号となった。
なお第2号は、隣で爆発炎上した<ベスタル>だった。