<アリゾナ>の断末魔は、真珠湾上空を旋回する戸張からも見て取れた。
──轟沈? 味方がやったのか?
見れば合衆国の戦艦
敵の艦が真っ二つに沈んだのだ。本来なら喜ぶべきところだが、とてもそんな心境にはなれなかった。
とにかく何もかもが滅茶苦茶で思考が追いつかない。いい加減、戸張は自分の正気を疑い始めていた。無理もないことだ。何しろ見渡せば、そこら中を角の生えた醜い天狗どもが飛び交っている。
米国人が見たら、デーモンもしくはデビルと叫んだかもしれない。戸張には真っ黒な天狗としか認識できなかった。
「邪魔だ! この野郎!」
進路上の天狗の群れへ戸張は20ミリ機関砲を放った。耳障りな叫び声を上げて、数匹が打ち落とされていく。
――畜生、鞍馬山じゃねえんだぞ
どうすればいいのか、彼には全くわからなかった。
戸張に限らず、第一次攻撃隊の誰もが全く同じ心境だった。あるものは当初の予定どおり爆弾を投下したが、目標の戦艦では無く化けダコを一匹吹っ飛ばしただけだった。
戸張たち戦闘機隊も、この想定外の状況にまるでついていけなかった。真珠湾の空を雲霞のごとく天狗が覆い尽くし、数機がそれら避けきれず激突、墜落していた。高度を下げすぎて、飯山のように大蛇の火炎に巻き込まれたものもいる。
戸張は高度を維持しながら、とにかく地上の観測を行うことにした。何にせよ、ハワイの状況を誰かが報告しなければならない。そして情報は多いほど良いはずだ。
戸張は意を決して、少し高度を下げた。まずは先ほど爆炎あげた戦艦の上空をフライパスする。かつての太平洋艦隊の主力艦艇、その大半は戦闘能力を失いつつある。
<アリゾナ>を沈めた黒いドラゴンが他の艦を標的にし始めていた。その他にも複数の化け物―クラァケンやヒュドラ―が群がって攻撃し、傾斜しつつある。転覆は時間の問題だった。
唯一、戦艦群の中では一隻だけが化け物の手から逃れている。比較的損害は軽微に見えたが、それは相対的な意味でしか無かった。艦橋部分が破壊され、2番砲塔は完全につぶされ砲身が海へ転がり落ちていた。
「地獄絵図だ……」
海に浮かぶ水兵が化け物に食われていた。敵兵とは言え、同情以上の憐憫に近い感情を戸張は抱いた。
戸張はフォード島上空から、そのまま対岸の太平洋艦隊司令部へ機首を向けた。数分後、司令部上空に到達した戸張の双眸に新たな惨状が映し出された。
太平洋艦隊司令部は、飯山大尉を屠ったヒュドラによって破壊し尽くされていた。飛行場と同様にうねるような帯状の足跡が穿たれ、見るも無惨な焼け跡が周囲に点在している。
唐突だが、彼はようやく自分が成すべき義務を思いついた。途端に抗しがたい怒りが湧いてくる。それは軍人ではなく人として果たすべき責務だった。
飯山大尉は尊敬すべき上官であった。
その上官を無残に焼き殺しやがった化け物がそこにいる。
なるほど、ならば報復するしかないではないか。
うねった帯はそのままオアフ島東部へ続いている。進路上にはホノルルがあった。
◇
「ママ! パパは!?」
「大丈夫よ! きっと後で会えるわ!」
シェリルの母、ヘレンは衣服を娘のリュックに詰め込むとすぐに家を出た。
彼女らはついていた。家を出た瞬間に迎えのスクールバスが到着した。
「さあ、二人とも走って! 早く乗るんだ!」
運転手がドアを開けて、乱暴に手を招いた。二人は追い立てられるようにバスへ乗車した。
バスはウィーラー陸軍飛行場へ向けて走った。ラジオ放送では複数の避難場所に指定されていたが、果たしてどれだけの人間がたどり着けるか神の知るところだった。
ウィーラー陸軍飛行場はオアフ島の中心部にあった。そこへ向かうためには、ホノルル市内を抜ける必要があった。いつもなら1時間程度で済む行程だが、果てしなく遠いゴールに感じる。
案の定、市内の道路は避難民であふれかえり大渋滞を引き起こしていた。さらに不味いことにホノルルにも化け物の波が迫りつつあった。
市内各所で小規模な爆発が発生し、火の手が上がっているのが見えた。空からは不気味な鳴き声が木霊し、遠くから砲声と銃撃音が響いていた。
シェリルは母親にしがみつきながら、外の光景をただ震えながら見ていることしか出来なかった。
――だいじょうぶ、きっとパパがこんな怪物やっつけてくれる。神さま、どうかパパに会えますように……!
1時間ほどたった頃だった。ようやくホノルル市を脱しようとしていたとき、それまで牛歩並に前進していた車列が一切動かなくなった。何事かとヘレンは思った。
窓の外を見ると、血相を変えた市民達が車から降りて逆方向へ逃げていくのが見えた。
「運転手さん……」
誰かがついに声を上げる。バスの運転手は血相を変えて振り向いた。
「みんな降りろ!! 早く逃げるんだ!! 蛇の化け物だ!」
裏返った声で叫ぶと運転手はバスを飛び出した。他の乗客も我先にと飛び出し、シェリルとヘレンは危うくはぐれそうになった。
他の乗客に急かされながら降りる途中、フロントガラスの向こうに緑色の炎が見えた。禍々しいコバルトグリーンの火炎が次々と車列もろとも群衆を焼き払っていく。車列からもうもうと煙があがり、高熱でゆらめく大気の向こうに巨大なヒュドラの姿があった、
「ママ!」
「シェリル、離れちゃだめよ!」
バスから降りるや、ヘレンは娘を抱きかかえて走り出した。海軍軍人の妻であった彼女は非常時に対する覚悟を、それなりに備えていた。
今はとにかく、あのモンスターから離れなければいけない。ヘレンは貴重品を入れたショルダーバッグを残し、それ以外全ての荷物を投げ捨てて逃げた。
彼女は人混みに揉まれたながら必死に走り、何とか近くの広場へ辿り着いた。あの
ヘレンは少しだけ立ち止まり、娘を抱え直した。胸に顔をうずめていたシェリーが見上げてくる。可哀想に怯えていた。
「ママ……わたしたちどうなるの?」
「逃げましょう。パパがきっと助けてくれるわ」
ヘレンは娘の髪をなでた。シェリルは宝物を見つけたように瞳を輝かせた。
「そうよね! パパはヒーローなんだもの!」
「ええ、そう。きっと大丈夫」
ヘレンは夫のマッケンジー大尉と合衆国軍に絶大な信頼を寄せていた。その意味において、彼女が真珠湾の光景を見ずに済んだのは幸運かもしれなかった。少なくとも死ぬ間際まで彼女は絶望から無縁でいられた。
マッケンジー親子のいる広場へ大量の火球が投下された。火球は着弾後に爆発すると、紫色の炎を周囲へ飛散させた。爆発の瞬間、咄嗟にヘレンは娘へ覆い被さった。
ヘレンの直接の死因は爆発の直撃では無く、周囲に飛び散ったコンクリートの破片によるものだ。小さな破片が頭部を貫き、脳梁を破壊、苦しむ間もなくヘレンの息を止めた。
「ママ……おもい」
母親に地面に押しつけられたシェリルは、自分を包む腕の力が急に失われたことを感じた。直感的に彼女は自分の母の死を感じたが、理解したくなかった。
「ねえ、ママ、起きて!」
シェリルは冷たくなった母を揺すった。見たところ頭の小さな怪我以外はどこも出血していない。だからすぐに起きてくれると彼女は信じようとした。
「ママ、パパのところへいかなくちゃ。はやく起きて! 起きて!」
シェリルは泣きながら母を起こそうとしていた。周囲の人間が逃げ惑う中で、うなり声が迫ってきていた。ヒュドラだ。広場に向かってきていた。
「ママ、逃げなきゃ! いやだ! 早く起きてよ!」
シェリルの声は母には届かなかった。いくら泣きわめこうと、彼女の母は目を覚まさなかった。すぐそこに死が迫りつつあった。
「ひっ……いやっ!」
振り向いた先で、たくさんの
シェリルは自分の母の死を
腹を空かせていたらしいヒュドラは、この人間の子どもを食い殺すことにした。母子ともに自分の腹へ納めようと、我先にと無数の顎が一斉に襲いかかった。
戸張が20ミリ機関砲をたたき込んだのは、まさにそのときだった。
◇
「糞がっ!!」
20ミリ機関砲の振動、それが操縦桿越しに伝わってくるようだった。重爆撃機すら貫く大威力の機関砲だ。大蛇ごときの鱗など易々と貫通した。断末魔とともにヒュドラの首が2本千切れ飛んだ。
「ざまぁみろっ!」
吐き捨てながら戸張は大きく旋回すると、再び攻撃のため侵入コースをとった。地上のヒュドラは新たな目標に対して備えようとしている。どうやら戸張を脅威と認識したらしい。
面白くなってきたと戸張は思った。だいたい気にくわなかったのだ。化け物どもは、どいつもこいつもオレ達を無視しやがる。帝国海軍を何だと思っていやがる。
「なめやがって」
カトンボと思っていた零戦の一撃を食らい、ヒュドラは怒りに囚われた。彼ら(彼女ら?)は生き残った頭を全て戸張の機体に指向させた。
「そうだ! いいぞ! 来やがれ!」
戸張の要求通り、ヒュドラは火炎を浴びせかけてきた。緑色の火線が幾重にも空に描かれる。しかしどれも無秩序で戸張の機体を捉えたものはいなかった。
戸張は余計に腹がたった。こんなやつに飯山大尉はやられちまったのか。つまり、あれは完全にだまし討ちのまぐれ当たりだったわけだ。
「おい
自分でも意味のわからない罵倒とともに、20ミリ機関砲をヒュドラにたたき込む。今度は真正面から掃射し、個体の中でも一番デカい頭の眉間に弾をぶち込んでやった。どうやらその身体のボスだったらしい。急速にヒュドラは勢いを失った。
そこから先は
戸張は念のため高度をとり、戦果を確認した。ついでに、あの米国人の児童が生きているのも見て取れた。
戸張は胸をなで下ろした。成すべきことを成したと思った。少なくともあのとき、あの子の母親が庇って死んだのを目にした瞬間、自分が抱いた人間的な怒りは誤りでは無かったと確信した。
そのとき、ふと奇妙なことに気がついた。広場にいる米国人が何かをしている。それが意味することを理解した途端、戸張は戸惑いを感じ、すぐにこの場から離脱を決意した。去り際に機体をバンクさせる。
――手なんて振るなよ
広場の米国人は、突如現れた日本軍の機体へ感謝の意を現わしていた。飛来した理由がなんであれ、彼らの救世主だったことに変わりはなかった。
戸張は再度振り向き、ヒュドラの死体をにらみつけた。
――クソ蛇が。オレの目の前でガキを殺そうとしやがって。
戸張は故郷に残してきた妹の顔が思い浮かべた。年の離れた生意気な子だが、自身よりよほど頭の良い自慢の妹だった。あの米国人の女子よりも、少し大きいくらいの年だった。
ホノルルを後に、戸張は帰投のため高度をとった。もはや、ここで出来ることは何もない。弾も先ほどの戦闘で撃ちつくした。
あとはあの子どもが、ちゃんとした大人に保護されることを祈るくらいだ。はたして自分にそんな資格があるのか疑問を思うところだが。何せ戸張は真珠湾を攻撃するために来たのだから。
止め処もなく思いを巡らせる内に味方の編隊が見えてきた。戸張と同じく帰投へ向けて進路をとっている。その中には戸張がはぐれた戦闘機隊の僚機もいた。
◇
第一次攻撃隊を率いていた淵田は苦々しい思いでオアフ島を後にした。彼の背後には攻撃隊の残余が散り散りになりながらもついてきた。
いったいどれほどが離脱できたのだろうか。
攻撃隊は戦闘らしい戦闘もせずに、ただオアフ上空を曲芸師みたいに飛び回るうちに化け物どもに打ち落とされていた。
「よろしいのですか?」
松崎が遠慮がちに問うた。
「構わんよ。もはや襲撃は無意味だ。状況は我々の判断を超えた」
無感情に淵田は応えた。内心では暗澹たる想いが渦巻いている。頭が痛かった。そうだ。誰が予想しえたのだろうか。真珠湾があんな化け物どもに蹂躙されるなど。オレはなんと報告すれば良いのだ? 合衆国軍は魑魅魍魎の餌食になったと言い、いったい誰が信じる。
淵田の不安は杞憂に終わった。少なくとも南雲機動部隊の将兵は彼の言うことを信じるだろう。
淵田機へ艦隊から入電があった。それは暗号化されない平文で受信された。
内容は次の通りだった。
『我、正体不明ノ怪物ノ攻撃ヲ受ク。至急戻ラレタシ』