<アリゾナ>が海中へ完全に没するまで見送ると、儀堂は高声電話を耳に当てた。
「ネシス、聞こえているか?」
『ふああ、なんじゃ儀堂?』
気の抜けたあくび声が電気の揺らぎに変換されて聞こえてくる。
「終わった」
『そうか。お主は勝ったのじゃな』
「そうだ。我々が勝ったのだ」
『どうじゃ? 妾は役に立っただろう?』
「そうだな。助かったよ……帝国海軍を代表して、礼を言う。ありがとう」
『ふふん。お主、可愛いところもあるのじゃな』
あやすような声でネシスは応じた。
「貴様、調子に乗っているな。俺をからかうな。ところで、そろそろ降ろしてくれないか?」
『ふうむ。そうじゃな。妾も疲れた。さすがに
ふうと息をはく音が伝わってきた。場違いなほど艶を感じさせるものだった。
赤い陣がゆっくりと回転し、<宵月>は高度を落とし始めた。
――高度計が必要だな
今後のことを考えると、あった方が良さそうだ。<宵月>を
帰投後の対処へ思いを巡らせる儀堂へ恐る恐る興津が近づいてきた。
「艦長、その、少し速すぎやしませんか?」
興津がやや心許なそうに言う。
「速すぎる?」
すぐにわかった。<宵月>の高度のことだ。三半規管が急速な落下と生命の危機を知らせている。それにどうも艦の姿勢がぐらついているようだ。これではただの墜落だ。もっとゆっくり降ろしてもらわねば<宵月>は着水の衝撃で大破するだろう。
「おい、ネシス!」
数秒の沈黙の後で、甘ったるい声が返される。
『……んん? なんじゃ?』
儀堂はようやく気がついた。こいつまさか……。
「ネシス、お前、まさか眠いのか?」
『うむ……少々霊力を使いすぎた……。魔導を用いた……は久しぶり、じゃったゆえ……』
<
「おい莫迦! 寝るんじゃない!! 死ぬぞ!!」
『…………はは、おかしなことを言うな。妾は……死なん』
「この莫迦鬼! そういう意味じゃ無い! おい、起きろ!!」
『うるさいのう……』
儀堂は大声で怒鳴りつけ、何とかネシスを気を保つ。<宵月>は不規則な軌道を描きながら、降下していく。その様は、蚊取り線香の虜になった羽虫のようだった。
<宵月>の兵員は大
『……ぐぅ』
寝息とおぼしき音声が受話器から流れてくる。
「総員、対衝撃! 落ちるぞ!」
艦内放送で呼びかけた直後、<宵月>を包む紋様が消え去った。それと同時に、4000トンの船体が重力へ預けられる。高度500メートルからの墜落だった。そのまま着水すれば自重の衝撃で船体はバラバラになるだろう。
――俺は
こんなことで歴史に名を残すなんて御免被ると思い、自分の冷静さに呆れもした。
<宵月>が自由落下を始め、海面まで200メートルに迫ったときだった。いよいよ誰もが全てを諦めたとき、五芒星の紋様が回復した。
『ん……ギドー』
「ネシス……!?」
どうやら意識を回復してくれたらしい。
弱々しい蒼い紋様の方陣が<宵月>を包むと、落下速度は緩まり、制動がかかった状態で<宵月>は着水した。
「助かった……」
興津が呟くと、その場へへたり込んだ。儀堂も腰を抜かしようなところを、かろうじて艦長席で耐え、受話器を握った。
「ネシス……」
『ううん………』
受話器は規則正しい呼吸音を拾ってくるのみだ。しばらくして寝息が遠ざかる。
『艦長、彼女は夢の中にいます』
「そうか……しばらく寝かせておけ。少尉もご苦労だった」
『いいえ……』
「ところで――」
『はい?』
『君らはどこにいるのかな?』
◇
彼にはやるべきことがあった。<宵月>の全身から悲鳴が上がっている。負傷者は医務室へ入りきらず、
「まずは浸水を止めろ。スクリューの修復は後回しで良い」
間もなく味方が助けに来てくれるだろう。それまで浮いていれば良い。
「副長、EFへ連絡だ。
「承知しました。付近の艦船にも呼びかけます」
「ああ」
一時間後、味方の駆逐艦が来援し、<宵月>は横須賀まで曳航されることになった。<
EFが<宵月>に中破の判定を下し、岸壁へ接岸を許したときには日は暮れかけていた。その頃には艦内の混乱はあらかた収束されていたが、戦闘の昂ぶりは継続していた。
艦上の構造物、特に後部は<アリゾナ>の攻撃によって徹底的に痛めつけられていた。甲板は血の海と化し、遺骸が個人ごとに可能な範囲でまとめられて安置されている。
原型をとどめているものは少なかった。胴体が裂け、腸の大半を露出させたもの、顔半分が吹き飛ばされたもの、下半身がどこかへいったもの……。
この世の地獄とも思える情景の中を儀堂は表情一つ変えずに巡っていく。死体を見るのはこれが初めてではなかった。内心では渦巻くものがあったが、彼はそれを押し殺す術をこの数年で習得してしまった。そうしなければ精神の平衡を保つことはできない。心が壊れては戦えない。
生きて戻れたのは喜ぶべきことだが、運が良いとは到底思えなかった。少なくともこの艦に居合わせた者は少なからず己の命運を呪うだろうと思った。
――処女航海で初陣、そして
恐らく復帰まで最低でも4ヶ月はかかるだろうと思った。艦内外を一巡りして結論を出す。特に<宵月>の装備は最新式で塗り固められているため、完全復旧は困難かも知れない。兵装に関してはすぐに手当てがつくだろうが、電子装備を揃えるのは骨が折れそうだった。
儀堂は艦内中央、船底付近へ足を向けた。彼がまだ踏み入れていない区画が残されている。見取り図では他の区画から隔絶され、何の記載もされていない部屋だった。御調少尉の言葉を借りるならば、そこは秘匿区画と呼ばれている。
数分後、儀堂は水密扉の前に立っていた。バルブを回し、扉を開ける。その厚さは人の胴回りほどで、駆逐艦には不釣り合いなものだった。秘匿区画は
室内は暗く赤色灯に照らされている。奥に直立不動で佇む影があった。彫像のように微動だにしない。儀堂が訪れるずっと以前から、姿勢を保っていたかのようだった。
「お待ちしておりました」
「それが、この
「はい……」
御調は顔を背けるように、儀堂と同じ方向を向いた。そこには
ハワイ沖で拾ったものよりも
赤色灯に照らされたその表情は頭部の角を無視すれば、まったくあどけない少女の寝顔だった。醒めない悪夢の根源とは到底思えぬものだった。