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太平洋の嵐(Pacific storm):5

【オアフBM 大支柱付近】


 BMの表面は柔らかく、足が僅かにめり込むほどだった。


「一応聞くが、ここは歩いても大丈夫なのか?」


 慎重に足を降ろしながら、儀堂は言った。


「大丈夫じゃ。気にするな」


 ネシスは周囲を不快そうに見渡していた。やはり、彼女にとって、この空間は気持ちの良いものではないらしい。


「お前は、ここに来たことがあるのか?」


「ない。だが、ここがどういうところかよく知っておる」


 そのままネシスは円柱へ向って歩き出した。儀堂は兵士を連れて、後に続いた。


「ああ、やはり、これじゃ――」


 ネシスは柱のある一点で足を止めると、手をかざした。


「どうするつもりだ」


「お主、あのものを助けたいのであろう?」


「ああ、その通りだ」


 儀堂はBM中心部の大支柱を見上げた。


 20メートルほどの高さにぽっかりと大きな穴が開き、緑色の液体が大量に漏れていた。戸張の烈風が突入した跡だった。ここに降りる前、<宵月>の艦橋から見た限りでは、支柱は空洞だった。どうやら烈風は、その空洞部分へ入り込んでしまったらしい。


「ならば、妾へ続くが良い」


 ネシスが何ごとか呪文を唱えると、たちまち目前が裂けるように入り口が開いた。周辺の兵士がぎょっと仰け反りかけるなか、儀堂は平然とその光景を眺めていた。こいつネシスと一緒に居る限り、何が起きても不思議ではないと思っている。


 儀堂はネシスが微笑を浮かべていることに気がついた。


「フフ、るものは違えども造りは変わらぬとはな。恐らく、この忌まわしい月の創りしものは侵されるなど思いもよらなかったのだろう。呆れたことに結界すら張っておらぬ」


 ネシスは蔑むように言うと、内部へ向って踏み出した。入り口の先は緑色に怪しく輝いている。


「さあ、行くぞ。お主の友は恐らくこの先のどこかにおるであろうよ。そして妾を求めていたものとも、いずれ会うことになろう」


【オアフBM 大支柱中央空洞】


「畜生。ひでえめに遭ったぜ」


 操縦桿を固く握りしめたまま、手が動かなかった。戸張はそれから悪態をつきながら、やっとのことで引き剥がすように手を離した。両手が小刻みに震えているのがわかった。


――なんてザマだ。


 戸張の烈風は支柱へ飛び込んだ瞬間、両翼は吹き飛び、支柱の繊維をプロペラで切り裂きながら、中心部近くの根元に突っ込んでいた。地表ならばまず確実に生存は望めなかっただろうが、全く奇跡的なことに彼は五体満足でほとんど怪我らしいものも無く、生きていた。


 悪運だけは強いらしい。あるいは賭け事で消費されなかった運が、ここに来て一気に精算されたのだろうかと本人は思った。


 天蓋キャノピーをこじ開け、半身を乗り出す。


「ああ、クソ。ここは、どこなんだぁ?」


 周囲を見渡せば、巨大な空洞ホールのようだった。戸張の機体はどうやら柱のど真ん中を真っ直ぐ貫いて、不時着・・・したらしい。


「……しようがねえ。まずは、ここから出る道を捜すか」


 操縦席から這い出る。


「へへ、あいつのことだから、お節介にもここに来てやがるだろうさ」


 少なくとも彼の友人儀堂が、このBM内にいることは確かなのだ。ならば、十中八九会えるだろうと彼は信じていた。あの男は、そういうヤツなのだ。


 BM底部へ足を降ろした戸張は、壁際に沿って歩いた。不幸中の幸いと言うべきだろうか。内部に照明らしきものは無かったが、壁全体がほのかに輝いているおかげで、視界に困ることはなかった。


 ただし、その光の輝きに妙な違和感があった。不規則に明滅しおり、モザイクのような模様の光で照らし出されているのだ。まるで、水中にいるような気分だ。


 ふと壁の向こう側を戸張は凝視し、ようやく彼は気がついた。


 初めは明滅しているのかと思ったが、それは違った。


 明らかに壁の内部で何ものかが蠢いているのだ。光は壁の内部にいるものに遮られ、それがモザイク模様に見えたのだ。戸張がすぐに気づかなかったのも無理はない。壁内にいるものが、あまりに大きすぎて、全容をつかみかねたからだった。


「こいつは――」


 正体に気がついた瞬間、すぐさま戸張は壁から逃げるように離れた。あやうく腰を抜かし賭ける。


 壁の中にいるものは翼を持っていた。多くの足が生えている。あるいは理不尽なほどに胴体が長いものも居る。


 それらは外の世界では魔獣と呼称されていた。



【オアフBM 大支柱内部回廊】


 戸張を捜索するため、足を踏み入れた儀堂は支柱内部の通路を歩いていた。それらは曲がりくねっていたが、寸法は通路と言うよりも回廊と呼ぶに相応しい大きさだった。


 彼が壁内を蠢く巨大な影に気がつくには時間を要さなかった。


「魔獣――」


 他の兵士達に動揺が走る中、ネシスがフッと笑いを漏らした。


「案ずるな。こやつらはまだ赤子じゃ。目すら開いておらぬよ」


「この柱はなんだ?」


 儀堂は先を行くネシスの背中へ問いかけた。彼の目には大小様々な魔獣の影が映っている。


「聞く必要があるのか? お主、うすうすは感づいておるのだろう? お主等がBMと呼ぶものの正体に」


 ネシスは振り向かずに答えた。儀堂は自分が愚問を口にしたと気がついた。確かに、彼の中である種の結論は出ていたのだ。


「繁殖場、あるいは工場と言った方が正しいのかな」


「孕み場じゃよ」


 ネシスは正すように言った。


「妾は、ここの柱の中で心も体も全て蝕まれ、引き替えに獣どもを肥えさせることになった」


 唐突に立ち止まり、ネシスは振り向いた。刹那、儀堂は自身の内部に恐怖と後悔を覚え、戸惑いを覚えた。ネシスをここに連れてきたのは、誤りでは無かったかと思っていたのだ。彼女が裏切ることを懸念したわけではない。


 角の生えた少女が苦しむ姿を見たくなかったのだ。儀堂の戸惑いは衝撃に変わった。自分が万死に値する行為に重罪を犯したように思えてきた。仮にも少女を蹂躙するような行為に、自分は荷担したのではないか。


 振り向いたネシスの顔は寂しげな笑みを浮かべたままだった。


「さあ、時間が無かろう。お主の朋を迎えに行こうか」


【オアフBM 大支柱中央空洞】


 戸張は壁の向こうに蠢く影、その正体に身震いした。


――つまり、ここはあれか……魔獣の飼育場か。


 冗談ではなかった。こんなところにいつまでもいられるか。


 戸張はあたりを見回してみたが、出口らしいものは見当たらなかった。


 烈風で突入した際にできた穴はいつのまにかふさがれている。


 忌々しいほどに、たいした自己修復能力だった。


――仕方ねえ。


 戸張は観念したように首をふると、空洞内部の捜索することにした。


 改めて観察すると、ちょっとした球場ほどの広さだった。


 戸張は後楽園スタヂアムくらいかと思った。


 そう言えば、マウンドのように空洞中央部が盛り上がっていることに気が付く。


 ひょっとしたら出口の手がかりがあるかもしれない。


 そんな予感を抱きながら、慎重に戸張は近づいた。


 やがて、彼の期待とはかけ離れたものだとわかり、軽く舌打ちをした。


 なんでも自分の都合通りに進むわけがなかった。


 どうやら何かが埋まっているようだった。コバルトグリーンのツタにくるまれて、どうにも正体がはっきりとしなかった。まるで拘束されているかのようで、繭状に盛り上がっていた。


「棺みたいだな――」


 そんな感想を抱かせる形状だった。戸張はかるく小突いてみた。


 鈍く固い感触が手の甲に返される。


 ツタの下の容器は明らかに、このBM内部を構成する物質としては異質なものだった。


 それに――。


「ぅぅ……」


 明らかに、うめき声らしきものが聞こえた。一瞬、ぎょっとするも戸張は己を奮い立たせるように繭へ向って叫んだ。


「誰かいるのか……!?」


 しかし、何も返されなかった。


 しばらくツタの塊を眺めていた戸張だが、おもむろに懐からナイフを取り出した。


 いざというときのためにしまっていたものだ。自決するためではない。飛行中に脱出し、落下傘で着地したときに、紐を素早く切り離すためだった。


 彼は震えないよう両手でしっかりとナイフを持ち、コバルトグリーンのツタに切れ目をいれた。不快な音を立ててぬらりとした液体が流れ出す。いくつかの悪態をつきながらツタを引き剥がしていき、ついに繭の本体が姿を現わした。


 銀色の筒だった。筒にはガラスと思しき、のぞき窓がついていた。


 戸張はのぞき窓周辺のツタを全て引き剥がすと、窓を覗き込んだ。


「なっ……」


 直後、彼は全ての言葉を失った。



 回廊から空洞へ、儀堂達はさしたる障害も無く辿り着こうとしていた。回廊は一本道で迷う隙すらなかったのだ。ただ一つの問題は、回廊の先は行き止まりだったことだった。しかし、これはネシスがいたことで解消された。


 ネシスは行き止まりとなった回廊の壁に、手を当てると何事か呪文を呟いた。小型の方陣が現われ、たちまち壁が裂かれるように、その先へ続く入り口が現われた。


 突然、儀堂の視界が大きく開かれた。儀堂は、後続の兵士達を内部へ散開させ、周辺の安全を確保させた。


「随分と用心深いのう」


 ネシスは苦笑した。儀堂は真顔で返した。


「オレはここが敵地だと認識している」


「――すまぬ。そうじゃったな」


「いいんだ」


 彼はただ一度だけ肯くと空洞内へ足を踏み入れた。


「艦長! あれを!!」


 部下の一人がただならぬ声で一点を指さしていた。そこで、彼の目に飛び込んできたのは、何ものかに組み伏せられている親友の姿だった。遠目ではっきりと相手の特徴を判別できた。そいつは頭部に二対の角を生やしていた。


「寛!」



 戸張の行いを迂闊と断じるのは、あまりに一方的だろう。彼はまったく人間的な感情から、行動を起こしただけだった。


 コバルトグリーンのツタを引き剥がし、銀色の容器の覗き窓から見えたのはやせ細り、体中に不健康きわまりない大きな黒い染みが出来た、銀髪の少女だった。彼は相手が異形の角の生えたものであっても、気にすること無く全く反射的に棺を開こうとした。


「おい、大丈夫か!」


 そんなことを叫びながら、彼は容器を拘束するツタを全てナイフで切除した。容器はあっさりと開いた。まるで、そのように仕掛けられていたかのように銀色の容器は開くと、コバルトグリーンの液体がこぼれ、少女の全身が露わになった。


「しっかりしろ!」


 戸張は液体の海から少女を助け起こした。がっくりと後ろへ垂れた首筋へ手を当てると、脈があるとわかった。しかし、異様なほど冷たい肌に戸張は何とも言えぬ不気味さを感じた。まるで死体を触っているようだった。


「どうしたもんかね」


 処置に困りながらも、戸張は少女を抱きかかえ容器の脇へ横たえた。少女はうめき声を漏らすと、ゆっくりと目を開いた。真っ赤な瞳が戸張を捉えた。


「お、目が――」


 その先を言い終える前に、少女は戸張に飛びかかっていた。


 凄まじい力で押さえつけられ、戸張は目を見張った。抗議の声を上げようとしたとき、少女が口を開いた。その犬歯が異様に鋭利なことがわかり、反射的に彼は自分の危機を悟った。


――冗談じゃねえ!!


 ガキに食い殺されるなど、飛行士としては受け入れられないものだった。彼は自分の最期は空の上と決めている男だったため、全力で抗った。しかし、その少女は細腕から想像も付かないほどの剛力で彼の両腕を押さえつけた。


 少女が戸張の首筋に牙を立てようとするとき、一発の銃弾が響いた。



 儀堂が放った銃弾は、少女の左肩へ命中し、真っ黒な血を飛び散らせた。少女は衝撃で、遙か向こうへ吹き飛ぶように転がっていった。


 儀堂は親友の元へ駆け寄った。


「大丈夫か?」


「お、遅かったじゃねえか……」


 戸張はすぐに起ちあがることが出来なかった。腰がぬけていたのだ。


「すまない。まあ、どうやら小春ちゃんを泣かせずに済む……かな?」


 小首をかしげながら、儀堂はルガーの銃口を前方へ向けていた。その先には、倒れ伏した鬼がいた。


 鬼は、壊れた繰り人形のように身体を起こすと、血走った目を侵入者たちへ向けてきた。


「気をつけろ。アイツはただもんじゃねえ」


「ああ、よく知っている」


 儀堂は兵士達に武器使用を許可した。射撃用意の号令とともに、複数の銃口が鬼へ指向される。鬼はその華奢な外見からかけ離れた絶叫を上げると、獣のように牙を剥き出して向ってきた。


 兵に動揺が走る中、儀堂は事務処理をこなすように射撃開始を唱えようとした。彼の処理を中断したのは、傍らに控えていたネシスだった。


 彼女は、獣性を剥き出しにした自身と同じ異形の少女へ向っていった。


「ネシス! 何を――」


「お主は言ったであろう」


 振り向かずに彼女は答えた。


「妾には義務があると……」


 撃ちたければ撃てと言わんばかりに、ネシスは少女へ向っていった。


 少女はネシスへ飛びかかった。彼女は抵抗を示さずに、両手を広げて受け止めた。


「ネシス……!!」


 少女が迫ってくるにつれ、その輪郭がはっきりと見て取れるようになった。頬はこけ、顔のあちこち、体中に黒紫色の染みが出来ていた。ネシスは、その姿に見覚えがあった。少女は自分に、とてもよく似ていた。彼女は確信に近いものを感じた。


 少女が跳躍し、牙を剥き出しにして来ても、何ら恐れることは無かった。彼女は全身に衝撃を感じながらも、抱きしめるように小枝のように細い身体を受け止めた。


 同時に鋭い痛みを首筋に走った。


 帝国海軍の水兵セイラ―服、その襟元から黒く染められていく。


 背後で、彼女の契約者パートナーが必死に名を呼んでいるのがわかった。なんだ、あの男でも慌てることがあるのじゃなと、少しばかりおかしみを感じる。


 ネシスの腕の中で、少女は暴れ回っていたが、彼女は駄々っ子をなだめるかのようにじっと抱いたまま動かなかった。


「すまぬ……。許すが良い。今の妾は、抱き留めることしか出来ぬ」


 絞り出すような囁き声でネシスは言った。


 儀堂は、射撃命令を撤回すると他の兵をその場に残し、ネシスの背後へ歩み寄った。何事か囁く声が聞こえたかと思えば、少女が徐々に大人しくなっていく様子が見て取れた。やがて、血走った目が穏やかなものに変わり、首元から顔が離れた。


 少女はネシスと鼻先を付き合わすような姿勢になった。その瞳に映った顔を認識すると、かすれた声で言語化した。


「ねえ……さん?」


「気は済んだか?」


 ネシスは寝かしつけるように言った。少女は小さな声で「うん」と肯くと、そのまま気を失った。


「儀堂――」


 ネシスは倒れた少女を抱えながら、ためらいがちに振り向いた。彼女の契約者は、ルガーをホルスターへ収めていた。ただ、表情は依然として険しかった。


「お前の夢に出てきたのは、その子だったのか?」


「そうじゃ」


「詳しく聞かせてもらえるな?」


「……ああ、約束する」


 ネシスは苦しげにうなずくと、よろめいた。咄嗟に儀堂は肩を貸した。


「まったく無茶をする。お前……この子にわざと血を吸わせただろう。もしもことがあったらどうする?」


「たわけ。もしもなどあろうはずがない。妾を何と心得る」


「何も心得んよ。とにかく、こんなところに居られない。おい、寛。もう歩けるな?」


 ちょうど戸張は、よたよたと立ち上がったところだった。


「ああ、大丈夫――ああん!?」


 間の抜けた声を上げると、戸張は少女が収まっていた容器に手を伸ばした。


「どうした?」


「いや、こいつはなんだ?」


 伸ばした手の先には、鈍い銀色の光を放つ卵が握られていた。ただし大きさが規格外だった。それらは控えめに見積もっても西瓜ほどの大きさだった。


 ネシスは、その卵を見た瞬間、血相を変えた。怒りとも悲しみとつかない表情だった。


「何と惨いことを」


「知っているのか?」


「それは――」


 彼女が答えを言う前に、産みの親が正体を現わした。


 突如、支柱を大きな揺れが襲い、内壁に大きな穴が空いた。穴の先から黒い巨影が姿を現わした。


 <宵月>で沈黙させたはずの黒竜だった。血だらけになった頭部を壁から突き出すと、かっと口を開いた。橙色の光が喉元に宿りだした。


「なるほど、こりゃ参ったね!」


 半笑いで戸張は首を降る。


 儀堂はネシスから少女を取り上げた。わずかな重さしか感じられず、軽い驚きを覚える。


「自分で走れるな?」


「無論じゃ」


「よろしい。総員、退避! <宵月>まで走れ!!」


 儀堂達が駆け出すと同時に、黒竜より火球が放たれた。



【オアフBM 大支柱内部回廊】


 回廊内を走りながら、儀堂は戸張を非難した。


「莫迦か、君は? なんでそんなものを持ってきたんだい? それを持っていたら、あの竜はどこまでも追いかけてくるぞ」


 戸張の腕には、黒竜の卵が抱えられていた。


「テメエのガキに向けて火球を放ってきたんだ。きっと、あのクソトカゲは正気を失ってるぜ。それにわざわざBMここまで来たんだから、戦利品のひとつくらい持って行ってもいいだろ?」


「莫迦野郎、何が戦利品だ! 巫山戯ふざけているのか? 捨てろ!」


「やなこった! だいたい、お前こそ巫山戯てんのか!? 艦隊で噂になっていたが、本当だったんだな。独逸の令嬢に、麗人の女性士官、おまけにこんな別嬪の鬼ネシスにまで囲われて、良いご身分なこって。そりゃ、小春がへそを曲げるわけだぜ」


「小春ちゃんは関係ないだろ!」


「あるね! 多いにある!! あいつ、オレに八つ当たりしてくるんだぜ! とばっちりもいいとろだぜ!!」


 結局のところ、<宵月>に着くまで終始二人は罵倒し合うことになり、ネシスや他の兵士から呆れられることとなった。


【オアフBM内部 駆逐艦<宵月>】


「艦長、ご無事で何よりです」


 艦橋に姿を現わした儀堂を見て、興津は心底安堵した表情になった。


「申しわけありません。あの竜が突入するのを防げずに――」


 興津は恥じ入るように頭を下げた。彼にとって、黒竜の復活はあまりに突然だった。迎撃命令を下す間もなく、竜は支柱へ突入してしまったのだ。興津は黒竜への対処よりも先に艦内の動揺を抑える方へ専念しなければならなかった。いくら帝国海軍の将兵が任務に忠実とはいえ、BM内部という未知の領域へ置き去りにされた状況下では、士気の維持にそれなりの苦労が伴うのだった。


「仕方が無いさ。それよりも戦闘用意だ。もうすぐ、あの――」


 <宵月>のすぐ側で空気を裂くような音が響き渡る。黒竜が支柱を突き破って出てきた。黒竜の翼は千切れ、かつての勇壮な姿は影も形も無かった。今や醜くも狂える獣と化していた。


「ネシス! 飛ばせ!」


『任せよ!』


 <宵月>を包む方陣が赤く光り、5000トンを越える船体が浮かび上がる。同時に黒竜が<宵月>へ向けて、突進してきた。すかさず、儀堂は艦内の無線に切り替えた。


「噴進砲発射準備。照準、黒竜」


「照準、宜し。測的、距離300」


「撃て。今度こそ跡形もなく吹き飛せ」


 黒竜へ向けて、500キロの火薬の矢が超高速で叩き込まれた。たちまち二つの爆炎が黒い巨体を包み込み、断末魔の叫びとともに全てが焼却された。


 至近距離の着弾で、爆風が艦橋の窓を揺らし、その一部にひびが入る。


「これで本当に終わりだ」


 <宵月>の艦橋から、眼下にある消し炭の塊を眺めながら儀堂は呟いた。


『ああ、終わった。ギドー、妾は話さねばならんことがある』


 ネシスの言葉は最後のほうで消え入るような小声となっていた。


「あの少女のことか?」


『それもだが、実はそれ以上に告げねばならんことがあった』


「告げねばならんこと?」


 どうもきな臭い香りがした。ある種の既視感があった。その昔、今は無き彼の妹が全くの不注意から、ある伝言を伝え忘れたときがあった。伝言の主は軍令部の高官からで、海軍省への出頭を命じるものだった。あのときも、こんな声音で真琴は話しかけてきた。


「……なんだい?」


『この月は主を失った。となれば、後はただ滅するのみじゃ。お主も月の最期は知っておろう。爆散の後に、行く末は塵芥に――』


「よろしい」


 儀堂はすぐに喉頭式マイクを切り替えると、「総員、耐衝撃」と叩きつけるように高声令達器スピーカーへ命じた。


【北太平洋 オアフBM近海】


 YS87船団と第三航空艦隊を覆う脅威は、劇的な終わりを告げた。進行を止めたオアフBMより軋むような音が響き渡り、続いて全体にひびが入って、紫色の光が漏れた。


 次の瞬間、太平洋全域を覆わんばかりの光が放たれた。夕刻の空を真昼のような明かりに包んだ後に、黒い月は霧散した。


 第三航空艦隊とYS87船団の人々は、まばゆい光に一時的に視力を奪われることになった。やがて彼等が視界を回復したとき、無数の黒い塵が雪のように舞う光景が現出していた。


 それは嵐の終わりを告げるものだった。




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