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我々は神では無く(God only knows):2

  少女が目を覚ましたとき、真っ先に浮かんだ表情は明らかな恐怖だった。


 目の前に居たのは、見知らぬ存在クリーチャーだった。二足歩行で奇妙な服を被っている。背格好から女らしいと判断した。


 彼女が本来の力を取り戻していたのならば、真っ先に抵抗していただろう。しかし月に蝕まれた身体に、そんな余力はなかった。だから彼女は弱々しく悲鳴を上げることしかできなかった。


「ダイジョグ、ダイジョグダカラ」


 その女は彼女の知らない言語を話し、そっと彼女の肩に手を置いた。彼女は母音の「ウ」をはっきりと聞き取ることができなかった。彼女が居た世界では、あまり聞き慣れない発音だった。女の穏やかな声に少しだけ、彼女の不安は和らいだ。


 女は寝台から離れると奇妙な取っ手を持ち上げて、話しかけ始めた。何事か儀式だろうかと思い、再び不安になる。少ない体力で周囲を見回した。狭い空間に自分は閉じ込められていた。それに、ふわふわと微妙な揺れを感じた。どうやら自分は移動する物体の内部にいるらしい。足下に扉が見えた。すぐにも外へ飛び出したいという思いに駆られる。


 ここがどこだかわからない。


 また、あいつら・・・・がやってくるかもしれない。


 覚醒した彼女の意識は、徐々に恐怖と焦燥で満たされ、爆発しそうだった。不発で済んだのは、扉がすぐに開かれたからだ。


「ネシスねえさん……!」


 起き上がろうとした少女をネシスは手で押しとどめた。


「無理をしてはならぬ」


 ネシスは厳命するように言った。角の生えた少女は素直に従う。


「お主、大丈夫か?」


「うん、ネシスねえさんのおかげで楽になった」


「左様か……」


「ねえさん、他のみんなは……? アヴィスやイシスは?」


「……」


「お願いだから助けてあげて……! みんなあの月に囚われているの」


「………」


「ねえさん?」


「すまぬ……。妾はお主に嘘をついた」


「な、にを……?」


「覚えておらぬじゃ。どうやら妾は、あの月に囚われている間にお主との日々を失ってしまったのだ。お主が誰で、名を何と申すのか全くわからぬ」


「そんな――」


 少女は絶句し、突き放されたように肩を落とした。ネシスはベッドへ腰掛けると、そっと肩に手を置いた。


「ただ、これだけは信じて欲しい。お主の声は妾の耳に届いておった。救いを求める声に妾の胸は潰れそうなほど締め付けられた。妾は……お主に会いたいと思っておったのだ。妾の名を叫ぶ声を無碍にはしたくなかった。今、お主に会うことができて妾はこの上の無い喜びに満ちている」


 ネシスはそっと微笑むと、少女を抱き寄せた。


「すまぬ。お主がこんなになるまで忘却し、放置してしまった。赦せとは言わぬ」


 少女はネシスの胸で嗚咽を漏らし始めた。


「ネシスねえさん、そんなことを言わないで。そんなねえさん見たくないし、聞きたくない。ねえさんは、もっと尊大で、自分勝手で、向こう見ずで、誰よりも自信に満ちていたんだから!」


 罵倒ともつかぬ評価にネシスは苦笑した。


「……お主等にとって、妾は碌でもないやからだったのか?」


「そうよ! だけど、そんなねえさんだからみんな付いていったの。ねえさんは絶対に私たちを見捨てなかったから。みんなが使い捨てにされそうになって、ねえさんだけは私たちを守ってくれた。今度も――」


 ふいに声が小さくなっていくのがわかった。


「どうしたのだ? おい、しっかりしろ」


「ねえさんに会えてよかった。話せてよかった」


 ネシスは少女を抱き起こした。顔色が土気色になり、体中に黒い染みが広がり、固く黒曜石のような結晶へ変わっていく。


「ああ、やっぱり。あいつら、呪いを仕込んで……わたし侵されちゃった」


「何を言っている? 駄目だ。許さぬ。許さぬぞ! かような術ごときで、妾の同胞を――」


 ネシスは激昂すると、方陣を展開した。


「だめよ。身体に魔導具を埋め込まれているから。きっと、ねえさんのことだから呪いを解かれると思ったんだわ。だから、わたしたちは絶対に助からないように――」


 染みは首元から顔へ広がり、黒く染めていく。少女はかすれる声で言った。


「ねえさん、おねがい。他のみんなを助けて……。私たちをこんな目に遭わせたあいつを……をやっつけ、て」


 消え入る声ははっきりと仇の名を告げた。ネシスは少しだけ、間をおくと肯いた。


「……わかった。約束する」


「よかったぁ」


 少女は安らかな笑みを浮かべる。ネシスは、腕の中で固く冷たい感触が広がっていくを感じていた。


「待て! お主、名を聞かせよ!」


「……シルク。ねえさん、ねえ、わたしねえさんの顔を見れて――」


 やがて結晶化したシルクという少女は、彫像のように固く動かなくなった。


「シルク……? シルク! 返事をせよ!! 答えよ!!」


 ネシスの声に、シルクが答えることはなかった。



 儀堂の目の前で、鬼が泣き崩れていた。その姿に、かつての自分を重ね合わせる。


 5年前の東京、帝国大学の講堂で家族の残骸を見せられた後、彼の心は完全に停止した。


 あの後、儀堂はほぼ自動的に遺体を引き取る手続きを済ませた。係員が憔悴しきった声で「ご愁傷様です」と言ったのは覚えている。そして確信した。自分はなんと冷たい男なのだろうかと思った。


 彼は自分の家族の死に際して、涙一つ出てこなかったのだ。


 その後、彼の内に残ったのは無尽の後悔と憎悪だった。それだけ彼を生き残らせてきた。


 以来、儀堂は自身の良心というものに疑いをかけてきた。自身の家族を救えなかったことに対して、自分は声を上げて泣けなかった。


 このオレはいったい何なのだ。


 きっとあの瞬間、オレは壊れたのだと思っていた。


 いいや、違う。


 それは誤りだ。


 目前で嗚咽を上げる鬼を見て、彼は自身の認識を改めた。


 オレは弱かったのだ。今でも弱い男なのだ。


 あの瞬間、小さくなった家族をみたとき、オレは何かの間違いだと心の奥底で思っていたのだ。


 自分が犯した過ちの大きさに耐えきれず、現実を否定していた。


 だからこそ、涙を流す勇気を持てなかったのだ。


 あそこで泣いてしまったら、儀堂衛士は家族の死を受け入れてしまう。


 後戻り不可能な事実を肯定し、逃れようのない喪失感に押しつぶされる。


 オレは自分を守るため、悲しむ代わりに憎悪と後悔へ身を委ねたのだ。


 ああ、畜生。


 薄情ではない、オレは臆病なのだ。


 おぞましい。


 なんと醜い男だ。



 肩をふるわせていたネシスが振り向いた。


 赤い瞳に浮かんだ涙が、深紅の光を帯びている。


 綺麗だと思った。


「ギドーよ。妾の選択は間違っていたのであろうか? 妾はありのままに伝えた。この者、シルクにとって果たして――」


「善かったのだ」


 儀堂は被せるように言った。


「君は最善を尽くした。憐憫でも同情でも無く、はっきりと断言しよう。例え、君がその子のことを思い出すことが出来なくても、その子へ向けた思いに偽りは無い」


「ギドー……」


「見てごらん。穏やかな顔だ」


 黒く硬直した顔だが、その面差しは安らぎに包まれていた。そこに一切の苦悩は認められなかった。


「その子は君に救われたのだ」


 彼は言い切った。


 儀堂はネシスとシルクの会話を理解することが出来なかった。彼の言語体系とにつかぬ言葉で交わされていたからだ。しかし、それでも彼の見解に一切の迷いはなかった。


 ネシスの判断が正しかったかどうかなど、神のみぞ知ることだった。


 儀堂は神でも無く、真実を見通す目は持つはずもなかった。


 しかし、彼は願うことは出来た。


 どうか、彼女とその妹に救いと安らぎがあらんことを。



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