昼休み。春の陽射しがやわらかく降り注ぐ中庭は、どこか夢の中のように穏やかだった。植え込みのラベンダーが風に揺れ、淡い紫の花弁から立ちのぼる香りが、ふんわりと空気に溶けている。
僕は購買で買った焼きそばパンと牛乳の入ったビニール袋を片手に、歩幅を少し狭くして校舎へと戻る途中だった。遠くで誰かの笑い声がして、カラスが一羽、屋上の縁にとまってこちらを見ている。
ふと、掲示板の横にある古びた木製ベンチに目が留まる。そこに座っているのは、ひときわ静かな存在感を放つ少女――アリスだった。
栗色の髪が春の陽に照らされて、まるで琥珀のように透きとおって見える。彼女の横顔は静謐で、時間の流れから切り取られたようだった。前髪のすき間からのぞく瞳は、淡いブルー。晴れた空をそのまま閉じ込めたようなその瞳は、何かを待っているように、遠くをじっと見つめていた。
膝の上には、小さなランチボックス。白く整った指先が添えられ、動く気配はない。まるで食事というより、誰かとの約束を大切に抱えているようにも見えた。
「やあ、アリス。ご飯、食べた?」
僕が声をかけると、彼女はゆっくりと顔を上げた。薄い唇がかすかに開き、目に光が宿る。その仕草だけで、まるで春の花が一輪、静かにほころぶのを見たような気持ちになる。
「きょうは……これ、つくってもらった」
言葉少なにそう答えると、アリスはお弁当のふたをそっと開けて見せてくれた。中には、まるでお菓子のように可愛らしいミニサンドイッチと、パステルカラーのマカロンが三つ。小さな世界に、丁寧に詰められた色とりどりの気持ちが並んでいた。
「へえ……おいしそうだね。誰が作ってくれたの?」
僕がそう尋ねると、アリスは少しだけ首をかしげた。考え込むような間があり、やがて何かを思い出したように、バッグに手を伸ばす。
中から取り出したのは、小さなメモ帳とペン。彼女は丁寧な手つきでページを開き、筆圧の軽い文字で、ゆっくりと何かを書き始めた。
“mer”
たった三文字。僕はその意味を一瞬考え、そして口の中でそっと繰り返す。「……mer?」
フランス語だ。僕の頭の中に、青く広がる海の映像が浮かぶ。けれど、そこまで考えたところで――
「アリス、ちょっと来てくれる?」
教室の方から、担任の先生の声がした。アリスは肩をびくりと震わせ、慌てて立ち上がる。小さな足が軽やかに音を立てて、校舎の方へ駆けていく。
その手から離れたメモ帳が、ベンチの上にぽつんと取り残されていた。
僕はそっとそれを覗き込む。まだ乾ききっていないインクが、春の風にかすかに揺れているように見えた。
「まさか、海の幸って意味じゃないよな……」
思わず口に出してしまった独り言。そんな僕の背後から、不意に声が届く。
「面白いもの見てるわね、真」
驚いて振り返ると、そこには東雲が立っていた。ベンチの背もたれに片手をかけ、制服のスカートが風に揺れている。相変わらずの涼しげな目元に、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。
「“mer”でしょ? フランス語で“海”。でも、この場合はたぶん……“お母さん”って書こうとしたんじゃない?」
「……お母さん?」
「“mère”。“e”の上にアクサン・グラーヴっていう記号がつくの。でも、急いでたり慣れてなかったりすると、つけ忘れるのよ。アリス、呼ばれて焦って途中で書きかけたまま行っちゃったんでしょうね」
その説明を聞いた瞬間、僕の胸の奥に、何かがそっと落ちた気がした。優しく、でも確かな重みをもって。
アリスの持っていたあのランチボックス。どこか異国の香りがする、でも温かみのある料理。それを作ってくれた人――きっと、お母さん。
小さな手のひらに乗せていたのは、ただの昼ごはんじゃなかった。それはきっと、海を越えてもなお続く、ぬくもりの記憶だった。
「母の味、ってことか……」
東雲はベンチに腰を下ろし、足を組みながら、空を見上げた。
「ねえ、海って、“命の母”とも言われるでしょう? 言葉って、不思議よね。たった一文字足りないだけで、意味が変わってしまう。でも、そこに宿る想いは――案外、変わらないのかもしれないわ」
風が、またラベンダーを揺らした。香りが、心の奥にまで届いてくる気がした。
僕はそっと、メモ帳のページを閉じる。そこに残された“mer”という三文字は、ただの言葉じゃない。遠い国から来た少女が、自分の存在の一部をそっと差し出してくれた証だ。
僕の胸の中に、あたたかいものが灯る。名前のない、でも確かに在るその感情は、いつか言葉にできるだろうか。