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第8話 君がそこにいるかもしれない

 昼休みも終わりが近づいてきたころ、僕は中庭の片隅にしゃがみ込み、重たいため息をひとつついた。腰を下ろした土の感触は冷たく、わずかに湿っていた。制服のズボン越しに伝わるその冷たさが、心の内側のもやもやを一層はっきりと浮かび上がらせる。


 目の前には、芝の間からひょろりと伸びた一本の雑草があった。まるで何かを主張するように、周囲の緑とは違う高さで揺れている。風が吹くたびに、それは頼りなく左右に揺れた。その姿をぼんやりと眺めながら、僕の心は晴れないままだった。


 空は、まるで誰かが完璧に塗り上げたかのように、雲ひとつない見事な青だった。澄み渡る空気と柔らかな陽の光。けれど、その清々しさは僕の胸には届かない。僕の心の中には、どこか灰色がかった靄が広がっていて、どれだけ深呼吸しても抜けきらない。


 まるで出口のない迷路に迷い込んだような気分だった。あてもなく歩き続けているうちに、方角も距離感も失われて、気づけばただ立ち尽くしている。


 あと三分。昼休みが終わるまでに、宮野を見つけ出さなければならない。そうしなければ――僕の負けになる。


「ったく、なんであいつ、あんなに本気なんだよ……」


 思わず口から漏れた独り言は、風にさらわれてどこかへ消えていった。僕は額に手をあてながら、そびえ立つ校舎を仰ぐ。教室の窓ガラスが陽を反射してまぶしく光っていた。その中では、クラスメイトたちがすでに昼休みの終わりを察して、戻る準備を始めている頃だろう。


 けれど、僕だけが取り残されたような気がしていた。まるで世界から一歩外に出てしまったかのように、足元が不安定で、地面がかすかに揺れているような錯覚さえ覚える。


 そのときだった。視界の端に、すらりとした影が差し込んできた。ふと顔を上げると、そこには東雲が立っていた。静かに佇む彼女の姿は、いつものように整っていて、そしてどこか非日常的だった。


 風が制服のスカートの裾を優しく揺らし、長い髪が陽に透けていた。その髪が、風の中で光をまといながらふわりと舞う。その光景は、まるで一枚の絵のようだった。


「珍しいわね、真がそんな顔してるなんて。ため息なんかついて、何かあった? 相談に乗るわよ?」


 彼女はまるで猫のように小首をかしげ、じっとこちらを見つめてくる。その瞳には好奇心と、わずかな優しさが混ざっていた。気を許せば何でも話してしまいそうな、そんな不思議な力を持っている。


 けれど――「かくれんぼで相手が見つからない」なんて、情けない悩みを口に出せるわけがない。


 だから、僕は遠回しに話題を逸らすように口を開いた。


「なあ、東雲。校内で、人があまり寄りつかない場所ってあるか?」


 自分でも、なんだその質問は、と心の中で呟く。けれど、それでも誰かに話したくて、藁にもすがるような気持ちで口にしていた。


「ふふっ、どうしたの急に。……まさか、誰かとかくれんぼしてるの? 中学生にもなって?」


 その口ぶりはあくまで軽やかだったが、瞳は鋭く、核心を突いていた。まるで僕の心の奥底を覗き込むような視線だった。


 図星だった。僕は思わず目を逸らし、つぶやくように言った。


「いや、宮野のやつが……どうしてもって言うからさ」


 本当は僕が持ちかけた。授業中、ふとした雑談の中で「懐かしいよな」とか「久しぶりにやってみる?」なんて言ったのは、他でもない僕だった。


 理由は――よくわからない。ただ、あいつと何かを一緒にやってみたかっただけだ。そんな曖昧で子どもっぽい動機を東雲に知られたら、間違いなく笑われる。


「理科室も体育館の裏も探したし、教室だってくまなく見た。だけど全然見つからないんだ。他にどこか、隠れられそうな場所ってないかな?」


 東雲は少しの間だけ考え込むように黙った。腕を組み、空を見上げるその仕草はどこか哲学的ですらあった。


 そして、やがて彼女はぽつりと言った。


「そうね……一つだけ心あたりがあるわ。――トイレは?」


「……はあ? トイレ?」


「探した?」


「いや、見には行ったけど、明かりが消えてたから。だから、いないって思った」


「なるほどね。でも、知ってるでしょ? トイレの明かりって人感センサーでつくのよ」


 その瞬間、何かが頭の中で繋がった。電流が走ったみたいに、脳裏が明るくなる。


「……ってことは、もし宮野が最初から個室に隠れてて、ずっと動かずにじっとしてたら……」


「そう。人感センサーは反応しない。だから、明かりは自動で消えるわ。そして真が来る。中をよく見もせず、明かりがついてないから『誰もいない』って決めつける。――どうかしら?」


 「……それ、めっちゃありえる」


 思わず声が漏れた。唇が自然と緩むのを感じながら、僕は東雲を見る。彼女は涼しい顔で、くすりと笑った。


「まあ、あくまでも私の推測だけどね。答え合わせは本人にどうぞ」


 そのとき、校内にチャイムが鳴り響いた。金属的な音が青空に溶けていく。昼休みの終わりを告げる、無情な音。


「急がないと、本当に負けになっちゃうわよ?」


 東雲の言葉に、僕は立ち上がった。膝にたまった土埃を払う間もなく、すぐに地面を蹴って走り出す。風が頬をなでていく。背中に、東雲の笑い声がふわりとついてきた。


 ――かくれんぼ。たったそれだけの遊びなのに、どうしてこんなに心が熱くなるんだろう。


 走りながら、僕はふと思う。


 理由なんて、今はどうでもいい。ただ、見つけたい。宮野を。そして――自分の気持ちの答えを。

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