ある朝のことだった。教室のドアを開けた瞬間、わっと声があがった。ざわついた空気が、普段より少し早く登校した自分を迎える。何事かと思いながら歩みを進めると、その視線の先に、ひときわ目を引く色彩があった。
掲示板に、一枚の大きなポスターが貼られていたのだ。
紫がかった宇宙の闇を背景に、きらめく星々の間をふわふわ漂う一匹の猫――名前は知らなくても、一度見れば忘れられない。その猫は宇宙服など着ていなかった。大きな目は、こちらを見つめるでもなく、ただ遥か彼方の何かを見ているようだった。
人気急上昇中の「宇宙猫」――最近、SNSで火がつき、バズっていると聞いた。
そこへ、東雲がやってきた。
「おはよう、東雲」
「おはよう。……なんだか、みんなあのポスターに夢中みたいだけど?」
相変わらず、流行にはうといらしい。
「最近SNSでバズってるんだよ、宇宙猫。タグで検索すると、いろんな宇宙猫が出てくる」
「へえ、そうなの。確かに、ふしぎな魅力があるわね。……じゃあ、今度は私が推理を披露したときの写真でも貼ってみようかしら。背景は宇宙、猫の代わりに驚いた表情の真を」
「やめてくれ、それは笑い者になる未来しか見えない」
東雲とのいつものやり取りに、少し笑いがこぼれる。そんな時だった。後ろから、静かな声がした。
「仲がいいのね、二人は」
声の主は白鳥さん。猫好きで有名な、物静かな女子だった。ふだんは黒川さんと一緒にいることが多いのに、今日は一人だ。
そして、その声は少しだけ、寂しそうに響いていた。
「最近、黒川さんと話してる?」
東雲がそっと尋ねる。
「ううん……。私、ちょっと言いすぎちゃって……。あの子、まだ怒ってると思う」
白鳥さんがうつむく。胸元で手を組んだまま、少し指をいじっていた。
「猫好き同盟、復活しないの?」
「……したいよ。でも、なんて言えばいいのか分からなくて」
たしかに、白鳥さんと黒川さんは、どちらも大の猫好きで、しょっちゅう写真を見せ合っていた。とくに黒川さんが飼っていた三毛猫――ミケ、と呼ばれていた猫の写真を見せるとき、白鳥さんは目を細めて「また見せて」と何度も言っていたのを思い出す。
あの猫は、まるまるとしていて、くりっとした目と、珍しい三毛の模様が特徴だった。甘えたように首をかしげたポーズの写真は、どこか宇宙猫の雰囲気に似ている。
「ミケ、もう……亡くなったんでしょ?」
ふと、口をついて出た問いかけに、白鳥さんは目を伏せたまま、小さくうなずいた。
「……うん。ついこの間。黒川、ずっと黙ってたけど。あの子、泣くときも声に出さないから……」
その日の放課後、黒川さんの姿は見えなかった。
だからこそ、白鳥さんのうつむいた横顔と、掲示板の宇宙猫のポスターが、やけに印象に残ったのだった。
数日後のことだった。朝の教室に入ると、ざわつく声が耳に飛び込んできた。
「ねえ、見て。宇宙猫のポスター……おかしくない?」
「ほんとだ。猫が、いない……?」
掲示板を見に行くと、確かに異変が起きていた。あの人気の宇宙猫ポスター。だが、そこには――猫がいなかった。
紫の宇宙。散りばめられた星たち。銀河の帯。すべてがそのまま残っている。けれど、猫だけが綺麗に切り取られていたのだ。
「誰かのイタズラ? でも、全部剥がすならともかく、猫だけなんて……」
「これは、日常の謎ね」
東雲がすっと横に立ち、指をあごに添えて言った。
「猫だけが消える、ということは――その猫に、特別な意味を見出した人がいた……ってことじゃないかしら」
「意味?」
「たとえば――その猫が、何かの代わりになるような存在だったら?」
その言葉を聞いた瞬間、ある予感が頭をよぎった。
あの猫、ミケに似てる。
丸い輪郭、少し垂れた耳、すっとしたしっぽ。ポスターの宇宙猫と、黒川さんが飼っていた三毛猫は、たしかによく似ていた。
僕は放課後、校舎裏のベンチでぼんやりしている白鳥さんを見つけた。
「ミケに、似てたんだよね。あの猫」
その言葉に、白鳥さんはびくりと肩を震わせた。
「……うん。似てた。すごく。あのポスター、最初に見たとき、胸がぎゅっとなったの」
「だから、猫の部分だけを――?」
「だって、ミケの写真って、あんまり残ってなくて……スマホも壊れちゃって、データも消えて。黒川に言えばきっと見せてくれるけど、今は話しかけづらくて。あの猫を見てると、ちょっとだけ、ミケがそばにいる気がして……」
白鳥さんの声が、かすかに震えていた。
悪意なんて、もちろんない。ただ、大切な存在をもう一度そばに置いておきたかっただけだ。
次の日、教室の掲示板に新しいポスターが貼られていた。
中央には、宇宙の中でまどろむように眠る猫。けれど今回は――その脇に、もう一匹の猫が加えられていた。
三毛模様の、まるまるとした、優しい目の猫。
そのポスターを見て、白鳥さんが立ち止まる。黒川さんが、すぐそばにいた。
「ミケ、可愛く描けたかな」
「……うん。ありがとう」
二人はそっと目を合わせて、少しだけ笑った。