目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報

第9話 連れ去られた宇宙猫

 ある朝のことだった。教室のドアを開けた瞬間、わっと声があがった。ざわついた空気が、普段より少し早く登校した自分を迎える。何事かと思いながら歩みを進めると、その視線の先に、ひときわ目を引く色彩があった。


 掲示板に、一枚の大きなポスターが貼られていたのだ。


 紫がかった宇宙の闇を背景に、きらめく星々の間をふわふわ漂う一匹の猫――名前は知らなくても、一度見れば忘れられない。その猫は宇宙服など着ていなかった。大きな目は、こちらを見つめるでもなく、ただ遥か彼方の何かを見ているようだった。


 人気急上昇中の「宇宙猫」――最近、SNSで火がつき、バズっていると聞いた。


 そこへ、東雲がやってきた。


「おはよう、東雲」


「おはよう。……なんだか、みんなあのポスターに夢中みたいだけど?」


 相変わらず、流行にはうといらしい。


「最近SNSでバズってるんだよ、宇宙猫。タグで検索すると、いろんな宇宙猫が出てくる」


「へえ、そうなの。確かに、ふしぎな魅力があるわね。……じゃあ、今度は私が推理を披露したときの写真でも貼ってみようかしら。背景は宇宙、猫の代わりに驚いた表情の真を」


「やめてくれ、それは笑い者になる未来しか見えない」


 東雲とのいつものやり取りに、少し笑いがこぼれる。そんな時だった。後ろから、静かな声がした。


「仲がいいのね、二人は」


 声の主は白鳥さん。猫好きで有名な、物静かな女子だった。ふだんは黒川さんと一緒にいることが多いのに、今日は一人だ。


 そして、その声は少しだけ、寂しそうに響いていた。


「最近、黒川さんと話してる?」


 東雲がそっと尋ねる。


「ううん……。私、ちょっと言いすぎちゃって……。あの子、まだ怒ってると思う」


 白鳥さんがうつむく。胸元で手を組んだまま、少し指をいじっていた。


「猫好き同盟、復活しないの?」


「……したいよ。でも、なんて言えばいいのか分からなくて」


 たしかに、白鳥さんと黒川さんは、どちらも大の猫好きで、しょっちゅう写真を見せ合っていた。とくに黒川さんが飼っていた三毛猫――ミケ、と呼ばれていた猫の写真を見せるとき、白鳥さんは目を細めて「また見せて」と何度も言っていたのを思い出す。


 あの猫は、まるまるとしていて、くりっとした目と、珍しい三毛の模様が特徴だった。甘えたように首をかしげたポーズの写真は、どこか宇宙猫の雰囲気に似ている。


「ミケ、もう……亡くなったんでしょ?」


 ふと、口をついて出た問いかけに、白鳥さんは目を伏せたまま、小さくうなずいた。


「……うん。ついこの間。黒川、ずっと黙ってたけど。あの子、泣くときも声に出さないから……」


 その日の放課後、黒川さんの姿は見えなかった。


 だからこそ、白鳥さんのうつむいた横顔と、掲示板の宇宙猫のポスターが、やけに印象に残ったのだった。





 数日後のことだった。朝の教室に入ると、ざわつく声が耳に飛び込んできた。


「ねえ、見て。宇宙猫のポスター……おかしくない?」


「ほんとだ。猫が、いない……?」


 掲示板を見に行くと、確かに異変が起きていた。あの人気の宇宙猫ポスター。だが、そこには――猫がいなかった。


 紫の宇宙。散りばめられた星たち。銀河の帯。すべてがそのまま残っている。けれど、猫だけが綺麗に切り取られていたのだ。


「誰かのイタズラ? でも、全部剥がすならともかく、猫だけなんて……」


「これは、日常の謎ね」


 東雲がすっと横に立ち、指をあごに添えて言った。


「猫だけが消える、ということは――その猫に、特別な意味を見出した人がいた……ってことじゃないかしら」


「意味?」


「たとえば――その猫が、何かの代わりになるような存在だったら?」


 その言葉を聞いた瞬間、ある予感が頭をよぎった。


 あの猫、ミケに似てる。


 丸い輪郭、少し垂れた耳、すっとしたしっぽ。ポスターの宇宙猫と、黒川さんが飼っていた三毛猫は、たしかによく似ていた。






 僕は放課後、校舎裏のベンチでぼんやりしている白鳥さんを見つけた。


「ミケに、似てたんだよね。あの猫」


 その言葉に、白鳥さんはびくりと肩を震わせた。


「……うん。似てた。すごく。あのポスター、最初に見たとき、胸がぎゅっとなったの」


「だから、猫の部分だけを――?」


「だって、ミケの写真って、あんまり残ってなくて……スマホも壊れちゃって、データも消えて。黒川に言えばきっと見せてくれるけど、今は話しかけづらくて。あの猫を見てると、ちょっとだけ、ミケがそばにいる気がして……」


 白鳥さんの声が、かすかに震えていた。


 悪意なんて、もちろんない。ただ、大切な存在をもう一度そばに置いておきたかっただけだ。





 次の日、教室の掲示板に新しいポスターが貼られていた。


 中央には、宇宙の中でまどろむように眠る猫。けれど今回は――その脇に、もう一匹の猫が加えられていた。


 三毛模様の、まるまるとした、優しい目の猫。


 そのポスターを見て、白鳥さんが立ち止まる。黒川さんが、すぐそばにいた。


「ミケ、可愛く描けたかな」


「……うん。ありがとう」


 二人はそっと目を合わせて、少しだけ笑った。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?