昼休み。校舎の影がまだ短い春の午後、中庭には柔らかな陽射しが降り注いでいた。淡い新緑の葉が風に揺れて、カサカサと控えめな音を立てている。僕と東雲は、そんな風景の中、いつものベンチに腰を下ろしていた。ベンチの表面は陽を浴びてほんのり暖かく、そこに座ると背中からじんわりと心地よさが広がっていく。
膝の上には購買で買ったパンの袋。ビニール越しに伝わる焼きたてのぬくもりと、小麦のこうばしい匂いが鼻先をくすぐる。
「真、最近はアンパンばかり食べるわね。前はカレーパン一筋だったのに」
東雲は袋を指先で器用に開けながら、いつもの調子で淡々と言った。その声は春風のように穏やかで、それでいてどこか鋭さを秘めている。
「不思議そうな顔してるけど、観察していれば分かるわよ。購買でお釣りを受け取る時、今までと小銭の枚数が違ったわ。つまり、買うものが変わったってこと」
彼女の目はどこまでも冷静で、それでいてよく見ている。僕の小さな変化すら、見逃さない。その観察眼に、僕はいつも少しだけ照れくさくなってしまう。
「なるほどな……こっちは無意識でも、東雲には筒抜けってわけか」
「ふふ。まあ、趣味みたいなものよ」
東雲はパンの端を少しかじり、カリッと心地よい音を立てた。その音に、僕もつられるようにアンパンを手に取る。ふわっとした生地の間から、甘いあんこの香りが漂ってきて、思わず頬が緩んだ。
「それにしても、最近はアンパンが流行りなのかしら。今までカレーパンだった人、一斉に乗り換えてるわ」
「何事にもトレンドがあるからな。そういう東雲はカレーパン一筋か」
「まあね。私には、こっちの方が合うわ」
一週間ほど前からだった。購買のアンパンが異常な人気を集め始めたのは。その発端は、美食家として有名な三年の澤村だ。彼の「これはうまい」という一言は、まるで魔法の呪文のように校内に伝播し、購買のパンの売れ行きすら一変させる。
そのせいで、昼休みのチャイムと同時に、廊下はちょっとした競技場と化した。ダッシュで購買へ向かわないと、人気商品はすぐに売り切れる。最近は「人気商品は一人一個まで」という張り紙まで貼られる始末だ。
「東雲にはアンパンの方が似合うと思うけどな。ほら、張り込み中の刑事がよく食べてるだろ?」
「かなりドラマに毒されてるわね。あれは、あくまでもイメージよ。実際に食べてるわけじゃないわ。それに、私がなりたいのは探偵。警察官じゃないわ」
そう言って、東雲は目を細めて空を見上げた。澄んだ青空に、細い雲が一本、ゆっくりと流れている。ベンチの周囲には、春の草花が控えめに色を添えていて、どこかノスタルジックな空気が漂っていた。
「ねえ、噂の出所って確か澤村よね? でも彼、アンパンじゃなくて、カレーパンを二つ持ってる」
「え、マジか?」
思わず立ち上がりかけて、目をこらす。中庭の向こう、購買の脇の石段に腰かけた澤村が手に持っている袋の透明な部分から覗く中身は、間違いなくカレーパン。それも二つ。澤村はカレーパンの一つを隣に座る友人の合田に渡している。二人は談笑しながら、カレーパンを頬張りはじめた。
「人気商品のアンパンは一人一個までよー!」
ちょうどそのとき、購買の窓口から威勢のいいおばちゃんの声が飛んできた。あの声が聞こえたら、それは「今、売れてる商品には制限がかかっている」という合図でもある。
「つまり、今の人気商品はアンパンってことか」
「そう。つまり、こういうことじゃない?」
東雲はカレーパンの袋を持ち上げて、軽く振った。その目はどこか得意げで、まるで謎を解いた探偵のようだった。
「澤村は本当はカレーパンが好き。でも、友達の合田くんは体が弱くて、購買まで走れない。だから、彼の分も買ってあげたかった。でも、人気商品にカレーパンが指定されていたら、一人一個までしか買えない」
「だから……アンパンが美味しいっていう噂を流したのか……!」
「そういうこと。皆がアンパンに流れれば、カレーパンは“ただのパン”になる。そうすれば、二個買えるって寸法よ」
そう言って、東雲はカレーパンを一口かじる。衣のサクッとした音が耳に心地よい。
僕は思わず、自分の手元のアンパンを見つめた。たしかに、美味しい。しっとりとした甘さと、ほどよい塩気。悪くない。いや、むしろ絶品だ。でも――今日に限っては、カレーパンの方が少しだけ、うらやましく思えた。
「でも、悪い気はしないでしょ?」
東雲が、空を見上げたまま言う。
「優しいトリックって、見破っても心が温かくなるものよ」
その言葉が、春風に乗って僕の心にすっと入り込んできた。購買の列はすっかり落ち着いて、騒がしかった昼休みも残りわずかになってきた。ベンチの下では、小さな蟻がパンくずを抱えて歩いている。
僕は小さくうなずいて、最後の一口をゆっくりと噛みしめた。きっとこの甘さも、誰かのやさしさが混じっているのかもしれない――そんな気がした。