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第5話 天才画家の謎のサイン

 美術の授業中、僕はせっせと絵を描いていた。今日の課題は「人物画を描くこと」。ペアを組み、お互いの顔を描くというわけだが、これが意外と難しい。ちらりと相手の顔を見たら、すぐに下を向いて描き始める。この繰り返しでは、まともに観察する暇なんてない。いくら観察眼が鋭い僕でも、こればかりはお手上げだ。だから、美術の授業は嫌いだった。


 僕のペアは天田あまだ玲央れお。天田は絵が上手い――いや、「上手い」なんて言葉じゃ足りない。将来、有名画家になっていてもおかしくないレベルだ。そんな彼の絵と、自分の凡庸な線を見比べるたび、ため息が出た。


「今日はここまで。次の授業では風景画を描いてもらいます」


 先生の声が教室に響き、生徒たちが一斉に手を止める。解放感に包まれながら、僕は椅子から立ち上がろうとした。そのとき、ふと視界の隅に、天田の姿が映った。


 彼は、まだ机に向かっていた。紙の端に、何かを書き加えている。描き終えたはずの人物画に、迷いもなく鉛筆を滑らせている姿が、どこか神聖にすら見えた。


「天田、何してるんだ?」


「ん? サインしてるんだよ。自分の作品ってわかるようにさ。サインするだけで、ちょっとプロっぽい気分になるんだ」


 なるほど。彼が本当にプロになったら、この絵にとんでもない価値がつくかもしれない。……本人はそんなこと、気にもしてなさそうだけど。


「でも、それってサインか? いたずら書きにしか見えないけど」


 僕は紙の隅を覗き込む。そこにあったのは、「!O」という、記号のような、文字ともつかない奇妙なマークだった。子どもが適当に書いた落書きのようにも見える。


「いたずら書き? いや、これはれっきとしたサインさ」


 天田は笑って言った。飄々としているが、その笑みの奥に、どこか大事なものを隠しているようにも見えた。


「じゃあ、その意味を教えてくれよ」


「うーん、それはナイショ。自分だけの秘密にしたいんだ。……東雲さんにはバレるかもしれないけどね」




 ――よし、東雲に頼もう。サインの秘密を解いてもらおう。


 ◇ ◇ ◇


「ふーん。面白いじゃない」


 事情を話してから、わずか一分。東雲はもう笑っていた。さすがはクラス一のミステリーオタク。というか、こういうのに食いつく速さが異常だ。謎に飢えているのだろうか。


「で、どういう意味なんだ?」


「真、『!』の名前って知ってる?」


 東雲は、人差し指で宙に「!」を描く。


「バカにするなよ。びっくりマークとか、エクスクラメーションマーク。あとは……感嘆符だろ?」


「ふふ、さすが小説家志望」


 東雲は小さく頷くと、続けた。


「でもね、もう一つの名前があるの。『雨だれ』っていうの」


「雨だれ……?」


 初めて聞く言葉に、僕は思わず復唱した。


「そう。昔の活字文化では、縦書きで『!』がぽつんと下に打たれると、まるで雨のしずくみたいに見えたの。だから『雨だれ』。風情があるでしょ?」


 東雲は、指で「!」を縦に描いてみせた。たしかに、ぽつんとしたそれは、雨の滴にも見える。


「で、『O』と組み合わせるのよ。『アマダレオ』――つまり、『天田玲央』。ほら、立派なサインの完成」


 思わず、僕は息を飲んだ。


 あの記号のような「!O」に、そんな意味が込められていたなんて。しかも、それは彼自身の名前。彼は名前すらも絵にしてしまう。


 ふと教室の外を見ると、西日が差し込む窓の向こうに、天田の背中が見えた。まだ片付けもせず、スケッチブックを手に自分の絵をじっと見つめている。


 僕は立ち上がり、軽く肩を回して言った。


「じゃあ、答え合わせしてくるよ」


 東雲は窓の外に目をやりながら、ひと言だけ返した。


「いってらっしゃい、名探偵さん」


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