美術の授業中、僕はせっせと絵を描いていた。今日の課題は「人物画を描くこと」。ペアを組み、お互いの顔を描くというわけだが、これが意外と難しい。ちらりと相手の顔を見たら、すぐに下を向いて描き始める。この繰り返しでは、まともに観察する暇なんてない。いくら観察眼が鋭い僕でも、こればかりはお手上げだ。だから、美術の授業は嫌いだった。
僕のペアは
「今日はここまで。次の授業では風景画を描いてもらいます」
先生の声が教室に響き、生徒たちが一斉に手を止める。解放感に包まれながら、僕は椅子から立ち上がろうとした。そのとき、ふと視界の隅に、天田の姿が映った。
彼は、まだ机に向かっていた。紙の端に、何かを書き加えている。描き終えたはずの人物画に、迷いもなく鉛筆を滑らせている姿が、どこか神聖にすら見えた。
「天田、何してるんだ?」
「ん? サインしてるんだよ。自分の作品ってわかるようにさ。サインするだけで、ちょっとプロっぽい気分になるんだ」
なるほど。彼が本当にプロになったら、この絵にとんでもない価値がつくかもしれない。……本人はそんなこと、気にもしてなさそうだけど。
「でも、それってサインか? いたずら書きにしか見えないけど」
僕は紙の隅を覗き込む。そこにあったのは、「!O」という、記号のような、文字ともつかない奇妙なマークだった。子どもが適当に書いた落書きのようにも見える。
「いたずら書き? いや、これはれっきとしたサインさ」
天田は笑って言った。飄々としているが、その笑みの奥に、どこか大事なものを隠しているようにも見えた。
「じゃあ、その意味を教えてくれよ」
「うーん、それはナイショ。自分だけの秘密にしたいんだ。……東雲さんにはバレるかもしれないけどね」
――よし、東雲に頼もう。サインの秘密を解いてもらおう。
◇ ◇ ◇
「ふーん。面白いじゃない」
事情を話してから、わずか一分。東雲はもう笑っていた。さすがはクラス一のミステリーオタク。というか、こういうのに食いつく速さが異常だ。謎に飢えているのだろうか。
「で、どういう意味なんだ?」
「真、『!』の名前って知ってる?」
東雲は、人差し指で宙に「!」を描く。
「バカにするなよ。びっくりマークとか、エクスクラメーションマーク。あとは……感嘆符だろ?」
「ふふ、さすが小説家志望」
東雲は小さく頷くと、続けた。
「でもね、もう一つの名前があるの。『雨だれ』っていうの」
「雨だれ……?」
初めて聞く言葉に、僕は思わず復唱した。
「そう。昔の活字文化では、縦書きで『!』がぽつんと下に打たれると、まるで雨のしずくみたいに見えたの。だから『雨だれ』。風情があるでしょ?」
東雲は、指で「!」を縦に描いてみせた。たしかに、ぽつんとしたそれは、雨の滴にも見える。
「で、『O』と組み合わせるのよ。『アマダレオ』――つまり、『天田玲央』。ほら、立派なサインの完成」
思わず、僕は息を飲んだ。
あの記号のような「!O」に、そんな意味が込められていたなんて。しかも、それは彼自身の名前。彼は名前すらも絵にしてしまう。
ふと教室の外を見ると、西日が差し込む窓の向こうに、天田の背中が見えた。まだ片付けもせず、スケッチブックを手に自分の絵をじっと見つめている。
僕は立ち上がり、軽く肩を回して言った。
「じゃあ、答え合わせしてくるよ」
東雲は窓の外に目をやりながら、ひと言だけ返した。
「いってらっしゃい、名探偵さん」