僕は今、小さなドーナツと睨めっこをしている。もちろん本物のドーナツではない。視力検査でよく見る、丸い環に切れ目が入った、あれだ。
「ランドルト環」とかいう正式名称があるらしいが、僕にとっては小さな沈黙の敵。ひたすらに黙ってこちらを見つめ返してくる、無口で頑固な試練だ。
「これは……たぶん、右です」
目の前の機械――まるでゲームセンターのシューティングゲームみたいな形をしたそれから顔を上げると、保健の先生が穏やかな笑みを浮かべた。
「氷室くん、両目の視力は0.7ね。裸眼でこれなら十分よ。勉強のしすぎに注意して、目を休ませてあげてね」
その言葉に、少しホッとした気持ちになる。最近は、小説の執筆に夢中になりすぎて、昼も夜もパソコンの画面とにらめっこしていた。目がショボショボしていたのは、気のせいじゃなかった。だけど、視力が思ったほど落ちていなくて、ほっと胸を撫で下ろす。
机の上に置かれたカルテに、先生がサラサラと記録を書き込むその音が、保健室にやけに響いた。
「えーと、分かりません……」
僕の隣で、検査を受けている間宮の声が、どこか頼りなく響いた。さっき始まったばかりなのに、すでに困っているらしい。声には、焦りというより、演技っぽい諦めが混ざっていた。
「間宮くん、視力は0.3よ。去年は1.0だったから、だいぶ落ちたことになるわね。メガネかコンタクトレンズを使うのをおすすめするわ」
先生の静かな口調に、間宮は大げさなくらいのため息をついた。肩をすくめ、わざとらしく目を細める仕草。僕の目には、それがどこか芝居がかった演技のように映った。
「なあ、間宮。その検査結果、まずくないか? 大会、来週だろ?」
僕が声をひそめて聞くと、間宮は困ったような顔をしながらも、どこか嬉しそうな目をして言った。
「そうなんだよ。これじゃ、相手の変化球に対応できるかどうか……」
彼は野球部の四番。チームの要だ。彼のバットにかかっていると言っても過言じゃない。だからこそ、視力の低下が本当なら、かなりのピンチのはずだ。
「先生に、前の方の席にしてもらうように言うよ。鮎川との入れ替えを提案すれば、納得するだろうさ」
黒板の字が見えなければ授業にならない。鮎川の席は教卓の真正面で、一番前。視力が悪くても、あそこなら支障ない。だけど――僕の中に、小さな引っかかりが残った。
最前列の席は、他にも空いている。どうして、わざわざ鮎川の席なのか。僕なら、授業中にこっそり小説を書きたいから、最前列なんて避ける。黒板が近い分、先生の視線も鋭い。
だとしたら、なぜ……?
「へぇ、そんなことがあったんだ」
そう言って、東雲はつばの広い帽子を少しずらし、涼しげにアイスキャンディーを舐める。グラウンドでは間宮がバッターボックスに立ち、ピッチャーをじっと見据えていた。
バッターボックスに入った彼の眼光は鋭く、鷹のようだ。相手ピッチャーを揺さぶるには十分かもしれないが、それは見た目だけ。一球投げられたら、まったく見えてないことがバレてしまう。
緊張の一瞬の後、白球がバッターボックスめがけて投げ込まれる。間宮はバットで見事に弾き返すと、打球はそのままスタンドへ消えた。
「ホ、ホームラン!」
思わず立ち上がる。東雲は一口、アイスをかじった。
「一球で決まったわね。まあ、当然だけど」
「当然って、お前……視力0.3だぞ? あの豪速球を……」
僕の声が震えていた。納得できなかった。だが、東雲は眉ひとつ動かさず、静かに言った。
「真、それは本当かしら? 彼の視力が悪化したって話」
「え……でも、保健室で……」
「視力検査って、言ったとおりにしか記録されないでしょ? つまり、自己申告よ」
言われてハッとする。確かに、あのランドルト環。見えていても「分からない」と答えれば、視力は低く記録される。
「でも……何のために、そんなことを?」
「間宮は、席替えを申し出たのよね? 鮎川と」
「うん、そうだけど……あっ」
ようやく、パズルのピースがはまった。間宮の元の席は一番後ろ。鮎川の席は一番前。
――間宮が後ろから前へ。鮎川は前から後ろへ。
「そう。鮎川がこの前言ってたじゃない。『漫画を描く時間が足りない』って」
つまり、後ろの席のほうが先生にバレにくく、落ち着いて漫画を描ける。
「青春じゃない。誰かの夢のために、嘘をつくなんて」
東雲の言葉が、風に乗って耳に届いた。僕はグラウンドでガッツポーズをしている間宮を見つめた。強い日差しに、彼の影が長く伸びていた。
「なあ、東雲」
「何よ」
「僕の夢を叶えるために、名探偵のモデルになってよ。そうすれば……」
「それはダメ。ミステリー作家が考えることを放棄してどうするのよ。自分の頭で名探偵を作り上げなさい」
きっぱりとした口調に、思わず苦笑する。
どうやら僕の夢も、誰かに頼るのではなく、自分で形にしていくしかなさそうだ。
「まぁ、頑張るのね。将来の有名作家さん」
東雲はそう言って、もう一度アイスをかじった。グラウンドから、間宮の打席が終わったことを知らせる拍手が聞こえてきた。