ある日、僕は近所の児童公園の前を通りがかって、奇妙なものを見つけた。
すぐ隣の自動販売機。紙パックもペットボトルも並ぶ中で、缶だけがすべて売り切れていた。一般的には、缶よりもペットボトルの方がお得なはずだ。お金は少しかかるが、量が圧倒的に多い。少なくとも、僕ならペットボトル一択だ。
冬ならば、カイロ代わりにポケットに入れるかもしれない。だが、今は冬ではない。カイロ代わりにするという推理は残念ながらハズレだろう。
僕はジャケットの内ポケットから小さなノートを取り出し、ひとまずその光景をメモしておく。後で小説のネタに使えるかもしれない。これは「日常の謎」にぴったりだ。
そのときだった。
「あら、奇遇ね」
後ろから、どこか楽しげな声が聞こえた。振り返ると、私服姿の東雲がいた。制服姿しか知らなかったせいで、一瞬誰か分からず、言葉が詰まった。
「東雲……こんなとこで何してるんだ?」
「買い物の帰りよ。それより、面白いものを見つけたのね」
東雲の視線も自販機に向けられている。
「これ、不思議だと思わないか? 缶だけ全部売り切れって」
僕が指差すと、彼女はわずかに目を細めた。
「なるほど。真は、この自販機の謎を解こうとしていたわけね」
「そういうこと。ミステリー作家を目指すからには、これくらいの謎は解けなくちゃいけないからな」
東雲は笑いながら「意識が高いのはいいことよ」と言う。
「それで、どんな推理をしたのかしら」
僕は、思いついていた唯一の推理――「冬だったらカイロ代わりに買われたのでは」という説を説明した。だが、今はそれが成立しない季節。
「なるほどね。確かに冬なら、その推理が正解かもしれない。でも、今は季節が違う。真、他の可能性は思い浮かぶ?」
「いや、全然。思いついてれば、こんなところでボケーとしてないさ」
「そうね。連休だから、宿題がどっさりあるもの」
近くのグラウンドでは、子供たちがサッカーをして楽しんでいる。小学生なら、連休中だからといって宿題が多く出されることはないだろう。少し、羨ましく感じた。
「なあ、東雲。カイロ説以外になにか説明がつきそうか?」
東雲は、目をつむると何か考え込んでいる。推理をするためとは思えない。いつもなら、さらっと解いてみせるのだから。それとも、東雲でさえも解けない難問なのか?
「真。可能性は二つあるわ」
「二つ? 東雲にしては珍しいな。いつもなら、一つに絞り込んで、あっと驚かせるのに」
東雲は、頭を振り「買い被りすぎよ」と、苦笑いしている。
「いくら私でも、状況証拠しかないなら断言できないわ」
「まあ、確かに『自販機の缶だけが売れている』っていう事実しかないからな」
「ええ。おそらく、ホームズでも推測しかできないはず。でも、可能性を提示するのが探偵としての仕事よ」
東雲は、一瞬の間をあけると「缶蹴りって知ってる?」と問いかけてくる。
「さすがに知ってるよ。待てよ、もしかして……」
「たぶん、真にも一つ目の可能性が分かったんじゃないかしら」
「こういうことか? 缶蹴りをするために、空き缶が必要だった。だから、缶ばかりが売れた」
東雲は、右足で缶を蹴る動作をする。
どうやら、当たりらしい。だが、二つ目の可能性が思いつかない。ここが、東雲と僕の差か。悔しいが、名探偵の解答を待つしかなさそうだ。
「二つ目の可能性は、この立地が大きく関係しているわ」
「立地?」
ここは、閑静な住宅街で、この児童公園が唯一の遊び場だ。だが、それ以上は分からない。
僕が肩をすくめると、東雲はこう言った。
「ねえ、あそこでサッカーをしている子供たちの身長ってどれくらいかしら?」
「え? いや、せいぜい僕の胸元くらいじゃないか」
そう言って、僕は自販機の前に立って、ペットボトルが並ぶ上段に手を伸ばしてみる。たしかに、小学生がボタンを押すには高すぎる。
「つまり、上段には届かない。買いたくても買えない。だから、下段の缶だけが売れる。そういうことか」
「そういうこと。このふたつの可能性――缶蹴り、そして子どもたちの身長。どちらも成り立つし、どちらかが真実かもしれない。あるいは、全然違う理由かもしれないけど」
東雲は、さわやかな風に揺れる木々を見上げながら、肩をすくめて言った。
「世の中には、はっきりした答えがない謎もある。でも、それがいいのよ。すべてが分かってしまったら、推理も、小説も、きっとつまらなくなるから」
彼女の言葉を聞きながら、僕も空を見上げた。雲ひとつない青空。そこに答えが書いてあるわけじゃないけれど――それでも、謎は確かに存在している。
ノートを閉じ、僕は笑った。
「なるほど。じゃあ、これは僕だけの“未解決事件”ってことで、ネタ帳にストックしとくよ」
「いい考えね、作家志望さん」
そう言って、東雲は軽く手を振り、街の角を曲がって歩き出した。
僕は、赤く光る「売り切れ」の文字をもう一度眺め、そっと呟いた。
「次にここを通るとき、また別の謎が見つかるといいな」