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第11話 拭えない想い

 朝の教室には、まだほんのりと冷たい空気が残っていた。窓から差し込む光が、机の縁をうっすらと照らしている。カーテンが揺れるたびに、その光がさざ波のようにゆらいだ。


 僕は、いつものように窓際の席へ向かいながら、ふと足を止めた。何かに引き寄せられるように、視線が自然と廊下の向こうへ向かう。磨りガラス越しに、逆光の中で誰かの姿が浮かび上がっていた。


 脚立に立って、窓の外側を一心に拭いている。制服の袖を肘までまくり上げ、手には濡れたタオル。頬には汗がにじみ、額にかかった髪を耳にかける仕草が、どこか慣れていた。


 それが――山城さんだった。


 この光景を見るのは、もう三度目になる。彼女が掃除当番の日に限って、なぜか決まって、窓の外側が泥で汚されているのだ。中からは手が届かない、絶妙な高さ。しかも、泥のつき方は不自然で、まるで意図的にそこだけを狙ったかのようだった。


「また、か……」


 小さく呟いたそのとき、隣に現れた東雲が同じ方向を見て、ぽつりと呟いた。


「またね」


 彼女は理詰めの人間だ。占いやおまじないには一切興味を示さないし、現象には必ず原因があると信じている。だけど、この数日間、僕と同じように山城さんの様子を気にかけていた。


 僕は迷わず、窓を開けて声をかけた。


「山城さん、また汚れてたの?」


 彼女は振り返り、少し驚いたような顔をしたあと、すぐにいつもの穏やかな笑顔を見せた。


「うん、またね。でも……もう慣れちゃった」


 タオルをぎゅっと絞る手元が少し赤くなっている。彼女の声は明るかったけれど、その笑みの奥にある小さな影――諦めにも似た何かを、僕は見逃さなかった。


 放課後、東雲と僕は教室に残った。目的はただ一つ。――その「なぜ」を突き止めるため。


「誰かがわざとやってるとしたら、必ずまた来るはずよ」


 東雲は断言するように言った。彼女のこういうところは、信頼できる。合理的で、無駄がない。けれど、どこか人間味があって、冷たくはない。


 夕陽が教室に差し込み、床に長い影を落としていた。僕たちは窓際の隅に身をひそめ、じっと外の茂みに目を凝らした。校舎裏のその一角は、死角になっていて、人目が届きにくい。もし誰かが悪戯を仕掛けるなら、ちょうどいい場所だ。


 時間がゆっくりと流れる中、やがて、影の中から一人の男子生徒が現れた。小柄な体に、やや伏し目がちな歩き方。見覚えがある。


「……加藤くん?」


 クラスではほとんど話さない、おとなしい男子だ。彼は周囲を何度も確認すると、ポケットから泥の塊を取り出し、ためらいがちに窓へと近づいた。


 そして――ぺたり。


 音もなく、泥が窓ガラスに貼りつく。それから彼は素早く植え込みの影に身を隠した。その姿に悪意は感じられなかった。むしろ、どこか哀しげで、切ないものだった。





 翌朝、僕たちは加藤くんに話を聞いた。最初は戸惑い、目をそらしていた彼も、やがて絞り出すように言葉をこぼした。


「話しかけられないんだ。……僕なんかが声をかけても、きっと迷惑だろうって思って」


 その声は、小さく、震えていた。両手を握りしめる指先に、彼の不器用な想いがにじんでいた。


「でも、姿だけでも見たくて。窓を拭くときの彼女、すごく真剣な顔をするんだ。それを見るだけで、胸がいっぱいになる。……だけど、それでいいって、自分に言い聞かせてたんだ」


 教室の隅、朝の静けさの中で、加藤くんの言葉がぽつりぽつりと落ちていく。聞いていた僕も東雲も、すぐには何も返せなかった。


 好きって気持ちは、人を突き動かす。けれど、それがあまりに不器用だと、誰かを傷つけてしまうこともある。


「ちゃんと謝るのよ。勇気がいるかもしれない。でも、それがあなたの優しさになるから」


 東雲の言葉は、静かだけれどまっすぐだった。加藤くんは目を伏せ、ゆっくりと頷いた。





 それから数日後、また山城さんの掃除当番の日がやってきた。


 けれど、その朝。窓は一枚残らず、ぴかぴかに拭かれていた。曇りひとつないそのガラスに、僕は思わず見入ってしまった。


 掃除の時間、山城さんは何気なく外を見やる。ふとした瞬間、その視線がぴたりと止まった。


 その先には、雑巾とバケツを持って立つ加藤くんの姿があった。窓の反対側――外側で、彼もまた、静かに窓を拭いていた。


 顔を上げた山城さんと、目が合ったかどうかは分からない。でも、そのとき、彼女の唇がほんの少しだけ、柔らかくほころんだ。


 言葉はなかった。ただ、ガラス越しに交わされた視線と、その表情だけがすべてを語っていた。


「ねえ、真」


 東雲が僕の隣で、小声で呟いた。


「好きって感情って、いろんな形があるのね」


 僕は頷いた。胸の奥に、じんわりと温かいものが広がっていく。


「うん。でも、どれも……きっとまっすぐなんだよ」


 心が触れ合う瞬間を、言葉にするのは難しい。けれど、確かにそこにあったのだ。二人の間に流れた、静かな優しさと勇気。


 僕はただ、澄んだ窓の向こうにいる二人の姿を、静かに見つめ続けていた。

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