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第12話 赤い羽根、消える

 朝の教室は、ざわざわとした空気に包まれていた。


 それは単なる騒がしさではなく、何かが「違う」という気配だった。言葉にできないけれど、肌の表面にかすかに感じるような、見えない異変。朝の支度をする手が止まり、視線が同じ一点に集まっている。


 僕が教室に入って最初に気づいたのは、その「視線の集中」だった。まるで重力のように、クラスメイトたちの注意が後方へと引き寄せられている。


 視線の先――教室の一番後ろ、掲示板の前には人だかりができていた。数人が小さな輪になって、ひそひそと声を交わしている。足音を忍ばせるように近づいて、僕もその輪の外から中を覗き込んだ。


 最初に目に入ったのは、割れた窓ガラスだった。


 教室の隅にある窓のひとつ。その一枚が、三角形にひび割れている。内側に向かってガラスが鋭く欠け、まるで何かがそこから飛び出したような形だった。すでに破片は片付けられていたようで、床には赤いコーンが二つ立ち、白いビニールテープが斜めに貼られている。まるで事故現場を再現するような光景に、胸の奥がきゅっと小さく縮んだ。


 そのすぐそば、教卓の脇の机には、昨日までそこにあったものがなくなっていた。


 銀色の募金箱――これはまだある。封も切られておらず、中の硬貨が鈍く光っているのが見えた。でも、その隣に置かれていたはずの透明なケースが、変わっていた。中には、たくさんの「赤い羽根」が詰め込まれていたはずだった。それが、きれいに、まるで風にさらわれたように、空っぽになっている。


「羽根、なくなってるんだね」


 思わず呟いた僕の言葉に、すぐ近くから声が返ってきた。


「うん。お金には触ってないみたい。羽根だけ、きれいに消えてる」


 声の主は、東雲だった。


 隣の席の彼女は、僕と同じように窓の方を見つめていた。長い前髪が頬にかかっているけれど、その奥の目はまっすぐに、何かを探るように細められていた。彼女の目は、ただの観察者のそれではなかった。


 物の形や配置を見るだけではなく、その「裏側」にある“意図”を見ようとしている――そんな眼差しだった。


「これ……外から誰かが盗ったってこと?」


 僕が尋ねると、東雲は首を横に振った。


「違うわ。破片の散らばり方が、内側向きだった」


「え?」


「ガラスが割れると、力が加わった反対側に破片が飛ぶ。外から石でも投げたなら、破片は外に飛び出すはず。でも、これは違う。ガラスの欠けた向きも、残り方も、すべて“内から外”に向けて割れてる。だから――中から割られたの」


 東雲はさらりと説明する。


「でも、羽根だけ盗るなんて……意味があるのかな。売れるものでもないし」


 僕は小さく頭をかしげた。


 赤い羽根。それは募金の象徴であって、希少価値もなければ、金銭的価値もない。子供が遊びで集めるならともかく、わざわざ窓を割ってまで盗るようなものじゃない。


 僕の疑問に、東雲は口元に指を添えて、少し考え込んだ。


 彼女のまつ毛が伏せられ、前髪がわずかに揺れる。その姿を見ていると、不思議と周囲のざわめきが遠ざかっていくような気がした。


「真。もし、羽根じゃなくて、“窓ガラスを割ったこと”のほうが主役だったら?」


「……え?」


「つまり、本当にやりたかったのは“盗み”じゃない。何かの拍子に窓を割ってしまって、それを隠したくなった。でも、ただ隠すだけじゃ、いつか見つかるかもしれない。だから、演出したの。羽根を盗って、あたかも“誰かが外から盗みに入った”みたいに」


 そこまで言って、彼女は僕の目を見た。


 その瞳は、まるで「この先は自分で考えて」とでも言いたげに、静かに揺れていた。


 僕は、ごく小さく息を呑んだ。


 ――これは、事故を隠すための演出。


 なるほど。羽根だけを盗むなんて、最初は不可解だった。けれど、それが“目を逸らすため”だったとすれば辻褄が合う。お金には手をつけない。それは盗みに見せかけるための“選択”だったのだ。


「じゃあ、本当は……ただの失敗を隠したかった?」


「そう。怒られるのが怖くて、でも黙って隠してしまうほど無神経でもない。きっと今も、自分の席で、何も言えずにいると思う」


 僕はそっと教室を見回した。


 ざわつきはまだ続いている。誰もが「事件」について語っている。でも、その中に――ほんの少しだけ視線を落とし、窓の方をちらちらと気にしている子がいた。


 手元の筆箱をいじるふりをして、でも指先は不自然に止まりがち。唇が、ぎゅっと結ばれていて、目を合わせたら何かがこぼれてしまいそうな、そんな横顔。


 けれど、僕も東雲も、その名前を口にしなかった。


「じゃあ、どうする?」と僕は静かに聞いた。


 東雲は肩をすくめる。それは軽さではなく、優しさだった。


「先生には、“風で飛ばされたのかも”って報告されてる。それで十分。ガラスは業者が直すし、羽根は補充される。犯人がもう自分を責めてるなら、それ以上は必要ないわ」


 その言葉に、僕は静かに頷いた。


 正しさを突きつけることよりも、その気持ちに寄り添うこと。東雲は、いつだってそういう選択をする。誰よりも冷静で、誰よりも優しい。


 気づけば、割れた窓から朝の光が差し込んでいた。


 ほんのわずかにひびの入ったガラス越しに、太陽の光が斜めに机の上を照らしている。空っぽになったケースが、その光を受けて、かすかに赤くきらめいた。


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