「なあ、東雲。俺の万歩計、おかしいと思わないか?」
昼休みの終わり際、教室の片隅で茂木先生が話しかけてきた。数学を担当している中年の先生で、近頃ダイエットに目覚めたらしく、毎日の歩数を記録するのが日課になっているらしい。
僕と東雲が席を立とうとしていたとき、先生はズボンのポケットから銀色の小さな機械を取り出した。日光を受けて、万歩計の金属が鈍く光る。その表面には傷一つなく、つい最近買ったばかりだということが一目でわかった。
「昨日から、歩数が急に増えててな。別に遠回りしたわけでもないのに……ほら」
先生は液晶画面をこちらに見せる。数字は、日常的に記録していた平均より明らかに多く、約二千歩近く上回っているようだった。たしかに、これは不自然だ。
「でも先生、歩数が多いのは、いいことなんじゃないんですか?」
教室の後ろから、渡辺がにやにやと笑いながら口を挟んだ。彼はクラスでも陽気なタイプで、冗談交じりの言葉で場を和ませるのが得意だ。
「ダイエット中ですよね?」
その言葉に、先生は苦笑いを浮かべた。
「もちろん、そうなんだけどな。ただ、気味が悪いんだ。昨日から、何も変えてないのに数字だけ増えてるってのが妙でさ」
茂木先生は腕を組みながら、廊下の方を見つめる。表情はどこかもやもやしていて、自分でも理由のわからない違和感に戸惑っているようだった。
窓からは中庭が見下ろせて、今は新緑が風に揺れているのが見える。昼休みを終えた生徒たちが、ぱらぱらと席に戻ってきていた。
廊下には、昨日から新しく引かれた赤いラインがある。淡いグレーの床に、真新しい赤が映える。誰もが自然とその左側を歩いているのが印象的だった。
「真……」
隣に立っていた東雲が、ぽつりと僕の名前を呼んだ。その声には、すでに何かに気づいている気配があった。彼女の目は、廊下に引かれたラインをまっすぐに見つめている。
「人間って、普段は無意識に最短ルートを歩いてるの。でも、廊下に左側通行のラインが引かれたことで、誰もが少しだけ遠回りするようになった。教室に入る前に迂回するとか、そういう小さな変化が積み重なるの」
僕はその言葉を聞いて、ようやく腑に落ちた。
「なるほど。だから、歩数が増えたんだ」
言いながら、僕も足元に視線を落とす。たしかに、昨日から自分も意識的に左側を歩くようになっていた。曲がるときも、わずかに遠回りをしていたかもしれない。意識していなかっただけで、身体は環境に適応していたのだ。
東雲は静かにうなずいた。
「機械の誤作動じゃない。導線が変わっただけ。気味が悪いどころか、自然なこと。むしろ……健康的かもね」
茂木先生は、ぽかんと口を開けたまま、自分の万歩計と足元の赤いラインを交互に見比べていた。
「そうか。事故防止で始めたことが、俺の運動にもなってたってわけか。へへ、なんだ。なんか得した気分だな」
万歩計をポケットに戻す先生の手は、先ほどまでよりもずっと軽やかだった。ほんの数分前までの曇った表情が嘘のように晴れている。
「事故も減って、歩数も増えて、いいこと尽くめじゃないか。東雲のおかげでスッキリしたよ」
そう言って、先生は笑いながら教室を後にした。軽やかな足取りは、まるで“余計な二千歩”が人生に何かをプラスしてくれたかのようだった。
その背中を見送りながら、僕は東雲に小声で言った。
「本当、なんでもよく気づくよな。僕だったら絶対気づけなかった」
東雲は、まだ廊下を見たまま、つぶやくように言った。
「日常って、意外と脆いのよ。たとえば、廊下のルール一つで、歩き方まで変わる。面白くない?」
僕はその言葉を反芻した。日常は、僕たちが当たり前と思っているだけで、実は綱渡りのように繊細なバランスの上に成り立っている。ルール一つ、線一本で、あっさりと形を変えてしまうものなのだ。
ふと、教室の窓の外を見やった。風に揺れる木々の葉が、まるで何かを語りかけるように音を立てている。何でもない日々に潜む違和感――それは、もしかしたら大切な変化の兆しかもしれない。
僕たちは、そんな小さな違和感を、これからも拾っていくのだろう。変わっていく“いつも通り”の中で。