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第15話 鍵のない密室

 その事故は、昼休みに教室のテレビで報じられた。


 画面の向こうでは、商業施設の一角に人だかりができていた。エレベーターが突然停止し、中にいた利用客が閉じ込められたという。幸い怪我人は出なかったものの、閉所恐怖症の人にとっては、まさに悪夢のような出来事だろう。


「閉所恐怖症の俺からすれば、地獄だな……」


 教室の片隅。窓側の席に腰掛けていた新垣が、蒼ざめた顔で胸をさすりながら呟いた。頬の色がわずかに青白くなっていて、画面を直視することもできないようだった。新垣はもともと繊細な性格で、人混みや狭い空間が極端に苦手だ。遠足のバス移動ですら、しばしば途中で休憩を要求していたのを思い出す。


「一種の密室空間だ。俺なら耐えられない」


 そのとき、教室の奥、廊下側の席で椅子をゆらゆら揺らしていた勝俣が、ふいに口を開いた。


「密室ってさ、俺も経験あるんだよな」


 その何気ない一言に、僕の耳がぴくりと反応した。


 密室――それは、僕にとって特別な響きを持つ言葉だ。自称・駆け出しのミステリー作家である僕にとって、それは心をぐっと掴まれるキーワードだった。


「密室? 本当に?」


 思わず顔を向ける。僕の席は勝俣の斜め前。振り返ると、彼はニヤリと笑った。


「いや、大した話じゃないけどさ。俺の住んでるアパート、ちょっと変で……」


 そう言いながら、彼は身振り手振りを交えて話し始めた。


「玄関のドア、押して開けるタイプなんだ。でもさ、たまに押しても全然開かないの。鍵もちゃんと開いてるし、引っかかってる様子もないのに、まるで何かに押し戻されてるみたいな感じ。重くて、ビクともしないんだよ。で、ちょっと放っておくと、何事もなかったかのように、すーっと開く」


 僕は軽く眉をひそめた。


「鍵はかけてないんだよね?」


「かけてない。確認もした。中からも外からも、問題なし。でも、開かない」


「……へぇ」


 僕の頭の中では、いくつかの密室トリックがぐるぐると回り始めた。古典的な“糸”や“楔”のトリック、あるいは磁石を使ったもの……けれど、どれもいまひとつしっくりこない。ただの思い違いではないか、とも思ったが、勝俣の語り口は妙に真剣で、冗談とは思えなかった。


 そんな僕の隣で、静かに東雲が口を開いた。


「そのアパート、築何年?」


 相変わらず冷静な口調だった。前髪を指で整えながら、淡々と問いかける。


「え? あー……確か三十年くらいだったかな」


「ふむ。じゃあ多分それ、気圧差よ」


「気圧差?」と、僕と勝俣が同時に声を上げた。


 東雲は、教科書を閉じ、静かに説明を始めた。


「平成十五年以降に建てられた建物は、建築基準法の改正で二十四時間換気が義務づけられてるの。理由はシックハウス症候群の予防。だから最近の建物は、空気の出入りが常にある設計になってる。でも、古い建物はそうじゃない。完全に密閉された空間になりやすいのよ」


 勝俣は首を傾げる。


「でも、それとドアが開かないのと、関係あるのか?」


「あるのよ。ドアの下に“アンダーカット”っていう隙間があるでしょ? 空気が流れるようにするための構造。でも古い建物にはそれがないことも多い。そうすると、部屋の内外で気圧差が生じて、ドアが開かなくなることがあるの」


 勝俣の目がまん丸になった。


「え、それ……ドアが空気に吸い付かれてるってこと? 俺、見えない壁に閉じ込められてたのか?」


「言い方がちょっとSFっぽいけど、まあそういうこと」と東雲は小さく笑った。


 僕はふと、ミステリーの基本を思い出す。


 密室とは、何も高度なトリックを必要としない。ときには、見えない空気の力すら、密室を生み出す要因となるのだ。


「密室のトリックって、もっとこう……隠し扉とか、糸とか、複雑な仕掛けを想像してたけどさ」


「意外と、空気一つで出来上がるものなのかもね」


 東雲の言葉に、僕は頷いた。


「トリックが分かると、密室も大したことないな」


 僕は立ち上がって伸びをしながら、ふと窓の外を見た。


 午後の陽光に照らされた空はどこまでも青く、ひこうき雲が一本、まっすぐに空を裂いていた。

 けれど、その澄みきった空とは対照的に、僕たちの日常は、目に見えない“壁”に囲まれているような気がしてならなかった。


 誰かのささやかな違和感も、ドアの前で立ち尽くす時間も、ただ「気のせい」で片付けられる。けれど本当は、そこにはきっと理由がある。そしてその理由は、とても静かに、でも確実に僕たちを閉じ込めている。


 ――もしかすると、僕たちが生きているこの世界こそが、最大の密室なのかもしれない。


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