放課後の空は、オレンジ色の絵の具をこぼしたように広がっていた。西の空に溶け込む太陽は、まるで眠たげなまぶたのようにゆっくりと沈みかけている。風が校舎を通り抜け、桜の葉をさらさらと鳴らす。そんな穏やかな時間の中で、僕と梶田は並んで歩いていた。駅までの帰り道。慣れた風景の中に、今日一日の疲れがじんわりと溶けていく。
梶田は、クラスでも特に現実的な思考をするやつだ。テスト前は計画的に勉強し、都市伝説やオカルトには「時間のムダだ」と一蹴するタイプ。そんな彼が、急に口を開いた。
「なあ、真。ちょっと変なことがあってさ」
声の調子がいつもと違った。軽口を叩く時のそれじゃない。妙に真剣で、どこか不安を押し殺すような響き。僕は反射的に足を止めた。
「どうしたんだよ」
「最近さ、うちの窓が勝手に開くんだよ」
彼の表情は夕焼けに染まりながらも、冗談の影はなかった。
「閉めたはずなのに、気づくと少し開いてるんだよ。何度も、何度も。しかも鍵をかけた記憶もあるのに」
「鍵、ほんとに閉めた?」
僕がそう聞き返すと、梶田は肩をすくめた。
「十階なんだよ、うち。鍵なんて、正直かけなくても大丈夫って思ってた。でもな、空き巣って感じでもないんだ。部屋の中、何も盗られてないし。物音もしない」
確かに、十階というのは普通じゃ人が登れない高さだ。鳥でもなければ、窓から侵入するなんて無理だろう。
でも。
僕の背筋に、冷たいものがじわりと広がった。物がなくなっていないからといって、安心できる話じゃない。勝手に開く窓。誰も触っていないはずの窓が、何度も……。
「昨日なんてさ、帰ってすぐエアコンつけたんだよ。そしたら、カチッて音がして、目の前の窓が少し開いた。マジで心臓止まるかと思った」
梶田は眉をひそめ、口を一文字に引き結んだ。
ふと、足音が背後から聞こえてきた。軽く、でも規則正しい、スニーカーのリズム。僕たちの会話を追いかけてきたようなその足音の主は、意外にもあの人だった。
「それってさ、温度差のせいじゃない?」
淡々と、でもどこか楽しげな声。振り返ると、そこにいたのは東雲だった。
黒髪を後ろで一つにまとめ、薄いブルーのカーディガンを羽織った彼女は、鞄を片手に持ったまま、僕らの会話に自然と入り込んでくる。まるで最初から一緒に歩いていたかのように。
「え、温度差ってどういうこと?」
梶田が半信半疑の顔で訊ねる。彼の中で、“怪奇現象”と“科学的説明”はまったく別の引き出しに入っているのだろう。
「つまり、外と中の温度差が大きいと、空気の圧力が変わって、窓が自然に動くことがあるってこと」
東雲はそう言いながら、左手の指で空中に図を描くように動かした。
「特にエアコンを急に使ったときなんかは、室内の空気が一気に冷やされて密度が変わる。その結果、窓の枠にかかる力も変わるの。古いサッシだったりすると、クレセント錠のかかりが甘くなってて、ほんのちょっとの圧力差でも“カチッ”って自然に開くことがあるのよ」
まるで理科の授業のような説明だった。でも、不思議なことに、その一言一言が妙に説得力を持って僕たちの中に入ってくる。
「うそだろ……。それ、そんなに普通に起こるもんか?」
「起こるわよ。うちのおばあちゃんの家、古い木造だったんだけど、夏になると内窓が勝手にずれて、“パキッ”て音を立ててた。最初は怖かったけど、結局ただの気温差と素材の膨張だったってわかったわ」
「そうか……じゃあ、幽霊とかじゃないのか」
梶田の声には、安堵と少しの照れくささが混じっていた。
「もちろん断言はできないけど、少なくとも一番確率が高いのは、物理現象。お化けよりも気圧のほうが、ずっと現実的に窓を動かす力になるのよ」
東雲はそう言って、小さく笑った。
その笑みは、僕たちが知るどんな教科書の図よりも、ずっと安心感をくれた。まるで、彼女の言葉そのものがランプのように、見えない不安を照らしてくれるような、そんな気がした。
交差点の信号が赤に変わると、彼女はそのまま別方向の横断歩道へと歩いていった。夕暮れの中、彼女の白いスニーカーの音が、規則正しく遠ざかっていく。
僕と梶田は、しばらく無言で立ち尽くしていた。
「……なあ、真」
「うん?」
「東雲、やっぱすげーな。なんか、全部見透かされてる気分だわ」
僕は吹き出しそうになるのをこらえて頷いた。
「だな。幽霊より、あいつのほうがよっぽど強そうだ」
二人で笑い合いながら、再び歩き出す。
人は、理由がわからないことに不安を覚える。それがどんなに小さなことでも、自分では説明がつかないというだけで、心の奥に冷たい影を落とす。
でも、そこに理屈があると知っただけで――たとえば、ただの空気の圧力のせいだと知るだけで――人はこんなにも安心できるのだ。
日常というのは、実は案外もろいバランスの上に成り立っている。ちょっとした気温の変化や、音の響き、人の言葉ひとつで、簡単に不安に傾く。けれど。
そんな日常を、そっと支えてくれる人がいるなら。目に見えない揺らぎを照らしてくれる誰かがそばにいるなら。
その不安さえ、少しだけ愛おしく思えるのかもしれない。