登校中の坂道で、僕と赤城はいつものように他愛のない話をしながら歩いていた。朝の空気は少し涼しく、まだ眠気が残る中、赤城が突然、思い出したように言った。
「そういえばさ、うちの部にちょっと変わった新人が入ったんだよ」
「陸上部だよな? 変わったって、どんな風に?」
「佐伯ってやつ。見たことあるか?」
「文系っぽい名前だな……って偏見か。でもたぶん、顔は浮かばないな」
赤城はうんうんと頷きながら続ける。
「最初は文芸部志望だったらしいんだけど、なんかの流れで体験入部に来てさ。まあ、ありがちな押しに弱いタイプというか。で、ちょっと走らせてみたら――やばい。フォームが全然崩れない。体幹がしっかりしてて、バランス感覚がズバ抜けてる。小学校では帰宅部だったって聞いてたのにさ」
「えっ、本当に? 運動経験ゼロでそれって……筋が良すぎないか?」
「俺もびっくりした。それだけじゃない。号砲が鳴ってからの反応もいい。スタートダッシュが綺麗に決まるんだ。センスの塊だよ、あいつ」
そのとき、僕らの背後から誰かが追いついてきた。振り返ると、東雲だった。髪は一つにまとめられている。
「おはよう。今、佐伯くんの話してた?」
「聞こえてたのか」
僕が笑いながら言うと、東雲はうなずいた。
「ちょうどさっき、彼が校門をくぐるのを見かけたの。で、気づいたんだけど――佐伯くん、いつもすごく重たそうなリュック背負ってるのよ」
「確かに……あれ、教科書何冊分だよってくらいパンパンだよな」
「そう。あれはね、たぶん教科書だけじゃない。分厚い文学全集とか、そういう本も入ってると思う」
「マジか、背負う図書館だな……」
東雲は少し得意そうに微笑んだ。
「それだけ重い荷物を毎日背負ってるってことは、自然と背筋や腹筋が鍛えられるのよ。特にあの子、姿勢がいいし歩き方も無駄がない。バランス感覚は体幹の強さと密接に関わってるからね」
「つまり、本のおかげってこと?」
「そう。筋トレと違って、意識せずに毎日積み重ねてる分、むしろ効果が出やすいかも」
「……でもさ」赤城が口を挟む。
「体幹はそうかもしれないけど、スタートの反応はまた別じゃない? あれって、鍛えるのも大変なんだ。天性ってやつじゃないか?」
東雲が「うーん」と考え込んでいると、ちょうど信号待ちをしている佐伯の後ろ姿が見えた。
「あ、本人いるじゃん」
僕は歩を早めて、彼に声をかけた。
「おはよう、佐伯くん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「……おはようございます」
佐伯は少し驚いた顔をしたあと、軽く頭を下げた。
僕たちが陸上部での話を切り出すと、彼はやや照れたように笑った。
「そんなに褒められるようなことじゃないんですけど。確かに、運動は全然してなくて……」
「でも、反射神経がいいって言われてるよ?」と僕。
「それ、多分なんですけど……耳のせいだと思います」
「耳?」
佐伯は少し気まずそうに、言葉を選びながら話した。
「小さい頃から右耳の聴力が少し弱くて。定期的に検査を受けてるんです。あの……“聞こえたらボタンを押す”ってやつ。あれ、何度もやってるうちに、音が来る気配だけで反応する癖がついてしまって」
東雲が「なるほど」と呟いた。
「つまり、聴力検査で“音を逃すまい”と集中してた結果、音への反応速度が鍛えられたってことね」
「強いて言えば、それくらいしか思い当たる理由はないです……」
僕は笑いながらうなずいた。
「なんかさ、文系でも運動部でも、どっちの才能も、日常の積み重ねで作られてるんだなって感じたよ。図書館みたいなリュックと、聴力検査で陸上部入りって、面白すぎるだろ」
佐伯は少し照れたように笑ったが、その目はまっすぐだった。
「自分では、そんなふうに言われるとは思いませんでした。でも、ちょっと嬉しいです」
信号が青に変わり、僕らは並んで歩き出した。
きっと彼の背負うリュックの中には、まだまだ知らない“才能の種”がたくさん詰まっているに違いない――そんな気がした。