ゴールデンウィークが明けたばかりの朝は、妙に空気が重かった。晴れているのに心は曇天。五月の光はやさしく降り注いでいたけれど、それがかえってまぶしく感じるほどに、僕の心と体はまだ連休のぬるま湯につかったままだった。
遅刻ギリギリではないものの、足取りは明らかに鈍い。下駄箱で靴を履き替えながらあくびをかみ殺していると、すっと隣に誰かが立った気配がした。
「もうすぐ母の日だけど、何かあげるの?」
東雲だった。いつもより少し明るい声。けれど、彼女なりのテンションの上げ方で、決して押しつけがましくはない。僕と並んで昇降口を抜けながら、彼女はごく自然に話しかけてきた。
「うーん、無難にカーネーション……かな」
僕はまだ脳が働いていないような気がして、気のない返事を返す。目の奥がじんわりと重く、階段を一段のぼるごとに身体がきしむ。
「色には、気をつけたほうがいいわよ」
ふいに、彼女の声にほんの少しの緊張が混じった。僕は立ち止まり、振り返る。
「え?」
「カーネーションの色。花言葉が違うの。赤は“母への愛”、でも白は“亡き母を偲ぶ”なのよ。うっかり白を贈ると、ちょっと微妙な空気になるかもしれないから」
なるほど、と頷く。そんなこと、今まで考えたこともなかった。赤いカーネーションを贈るのが定番だとばかり思っていたけれど、花には花の意味がある。想いを託すぶんだけ、言葉にできない誤解も生まれやすい。
そう思ったところで、教室の扉が開き、ふわりと風が吹き込んだ。その風に続くように、羽賀さんが姿を見せた。
明るくて、誰にでも分け隔てなく接する人。クラスの中心にいるようでいて、誰か一人に依存することもなく、絶妙な距離感を保っている。男女問わず人気があるのも納得できる、そんな子だ。
けれど今朝の彼女は、いつもの軽やかさとはまるで違っていた。
教室に足を踏み入れた瞬間、彼女は動きを止めた。いや、止まったというより――立ち尽くした、というべきかもしれない。顔に浮かぶ表情は、驚きと、ほんの少しの戸惑い。そしてすぐに、それが不安に変わっていく。
「……どうしたんだろう?」
僕たちは足早に近づいた。視線の先、彼女の机の上には、一輪の花が置かれていた。
深く艶やかな紫がかった黒い花弁。その存在は、教室という日常のなかで異質だった。まるで物語の一場面に迷い込んだような感覚。
「これ……クロユリ?」
僕はかすれた声で呟く。まさかこんな花を、こんな場所で目にすることになるなんて思いもしなかった。
すぐにスマホを取り出して花言葉を調べる。検索結果の上位に並んだ言葉を見た瞬間、背筋がぞくりとした。
「“呪い”、“復讐”……?」
声に出して読み上げると、羽賀さんの顔がみるみる青ざめていった。教室の空気がひんやりと冷え込んだような錯覚を覚える。
そんなとき、ふと朝の光景を思い出した。
僕が教室に入ったとき、確かに誰かが羽賀さんの机のあたりにかがみ込んでいた。制服の色と、後ろ姿。間違いない。花屋の息子、長峰だった。
「まさか……長峰の仕業じゃ……?」
心のなかで疑念が膨らむ。けれどそれは、単なる悪戯にしては悪質すぎた。呪いとか復讐だなんて、普通なら思いつきもしないはずだ。だとしたら――本気で、何か恨みでもあるのか。
羽賀さんが意を決したように立ち上がる。
「本人に、聞いてみる」
その手が、机の縁を強く握っていた。けれど次の瞬間、東雲がそっとその腕に手を添えた。
「ちょっと待って」
静かな声だった。でも、それ以上何かを言わせないような力がこもっていた。
「羽賀さん、最近、隣のクラスの男子と付き合い始めたって……本当?」
唐突な質問に、羽賀さんは目を見開き、戸惑いながらもうなずいた。
「だったら……このクロユリ、“秘めた恋”って花言葉のほうかもしれないわ」
「え……?」
彼女の目が、戸惑いから驚きへ、そして少しずつ考える色へと変わっていく。
「クロユリには“呪い”や“復讐”の意味もあるけれど、“秘めた恋”っていう花言葉もあるの。誰にも言えない気持ちを、そっと花に託す。そういう使い方だって、あるのよ」
言葉を飲み込むように、羽賀さんはクロユリを見つめた。指先がほんの少し震えていた。
「じゃあ、長峰くんは……私のことを……?」
その問いに、東雲は何も答えなかった。ただ、静かに微笑むだけだった。
それが肯定か否定かはわからない。でも、その微笑みは、少なくとも「考える余地がある」と伝えていた。
長峰は花屋の息子。クロユリは普通の中学生が手に入れられるような花じゃない。しかも、羽賀さんに恋人ができた今、届かない想いをどうしても伝えたくて、あえてこの花を選んだのだとしたら――。
その選択は、決して悪意ではなく、むしろ彼なりの最大限の誠意だったのかもしれない。
想いは、言葉にしないと伝わらない。でも、言葉にすれば、すべてが正しく伝わるとも限らない。
花に託す想いもまた、解釈する側にゆだねられる。だからこそ、誤解も生まれる。でも、だからこそ――。
「ちゃんと気持ちを伝えないとダメだな……」
僕はつぶやいた。誰に向けた言葉でもない。でも、自分の胸に響くように、静かに発した。
カーネーションを贈るだけじゃ足りない。きっと、それだけじゃ伝わらない。母の日には「ありがとう」の一言を添えよう。恥ずかしくても、不器用でも――言葉にしなければ、想いはいつまでも宙を彷徨ったままだ。
教室の窓を開けると、五月の風がふわりと吹き込んだ。クロユリの香りが、どこか遠くへ運ばれていく。朝の重たい空気は、ほんの少しだけ軽くなっていた。