「なあ、ちょっと不思議な話があるんだけど」
その一言は、昼休みの静けさを破るようにして届いた。図書室の隅、返却台に文庫本をそっと置いた僕に、声をかけてきたのは図書委員の小田切だった。
彼は普段、必要最低限のことしか喋らないタイプだ。クラスでも目立たず、授業中も黙々とノートを取り続けている。だからこそ、彼が自ら話しかけてきたことに、僕は少し驚いて彼の顔を見つめた。
その表情には、なにかを話さずにはいられないという焦りのようなものが浮かんでいた。唇が何度か動きかけ、ようやく本題に入る。
「二年生の谷田さんって子、知ってるか? 背が低くて、髪を三つ編みにしてる」
唐突な名前の登場に、僕は記憶を探る。すぐに、階段の踊り場でいつも一人で本を読んでいる小柄な女の子の姿が思い浮かんだ。
「うん、なんとなく。見たことあるよ」
「毎日、決まって同じ本を読んでるんだ。『吾輩は猫である』っていうやつ。でもな、読むっていうか……めくるだけなんだよ。それも、終わりの方から、パラパラと」
僕は眉をひそめた。ページをパラパラとめくる? それも逆から? 読書というよりも、ただ紙の束を風に遊ばせているような、そんな行動が何の意味を持つのか、僕には想像がつかなかった。
ちょうどそのとき、棚の向こうから姿を現したのが、東雲だった。こちらを見て、何か面白そうな話でも聞こえたのか、興味を示しながら近づいてくる。
「もしかして、彼女……パラパラ漫画を読んでるんじゃないかしら?」
その言葉に、僕と小田切は揃って首を傾げた。
「パラパラ漫画?」僕は思わず聞き返す。
東雲は、少し楽しげに頷いた。
「右利きの人って、文庫本や小説を右下からめくる癖があるでしょ。だから、ページの隅に絵を描いて、後ろからパラパラっとめくると、絵が動いて見えるの。子どもの頃、ノートに落書きしたことなかった?」
確かに、昔の授業中、暇を持て余して描いたことがある。棒人間がジャンプしたり、車が走ったり、そんな単純なアニメーションを、隅の白い空間に描いては、何度も指でめくって遊んだ。
「もしかしたら、誰かがその本に、そういう絵を描いたのかもしれないわね」
そう言って、東雲は僕たちに柔らかな笑みを向けた。
そんなこと、思いもよらなかった。僕と小田切は顔を見合わせた。彼の表情にも、驚きと好奇心が入り混じったような色が浮かんでいた。
放課後、僕は図書室へと足を運んだ。誰もいない静かな室内。外では部活動の掛け声が響いているが、この場所だけは別世界のように静まり返っている。
棚の「わ」の欄を探す。古びた文庫本が並ぶ中、背表紙に見覚えのある文字があった。『吾輩は猫である』。少し日焼けしていて、角が擦り切れている。手に取ってみると、表紙にはうっすらと人の手の跡が残っていた。
ページをそっと開く。紙の感触が、他の本よりもやや柔らかい。何度も開かれた証拠だろう。後半のページに目を移すと、右下の角が不自然に折れていた。何枚も何枚も、めくられた痕跡。まるで指が辿った軌跡が、そこに刻み込まれているかのようだった。
恐る恐る、右下の角をめくってみる。
そこには――確かに、いた。
ページの隅に、黒く描かれた猫のシルエット。次のページでは、その猫が少しだけ動いている。耳がぴくりと動き、体を丸めて伸びをし、やがてふわりと跳ねる。数十枚にわたり、猫は命を宿したかのように、軽やかに舞い続けていた。
僕の心臓が、ドクンと鳴った。
「本当に……パラパラ漫画だ……」
思わず口から漏れた言葉。僕は夢中になって、何度もページをめくった。猫の毛並み、しなやかな動き、そしてどこか物憂げな表情。それらが、静かな紙の上で確かに生きていた。
そのとき、横に気配を感じて顔を上げると、東雲が隣に座っていた。
「このタッチ……どこかで見たことがある。もしかして、うちの学校出身の漫画家・千堂千秋の絵じゃないかしら」
「千堂千秋って……あの、『猫と午後の沈黙』の?」
「そう。猫をテーマにした短編集で有名になった人。たしか、デビュー前は中学のノートに絵ばっかり描いてたって、エッセイに書いてたわ。もしかしたら、在学中にこの本に落書きとして描いたのが、そのまま残ってるのかも」
信じがたい話だった。でも、猫の絵を見つめるうちに、ありえない話でもないような気がしてくる。これは、誰かがただの遊び心で描いたものじゃない。明らかに、誰かの想いと時間が込められている。
僕はそっと本を閉じた。表紙に手を置き、心の中で何かが静かに響いた。
「谷田さんは……この絵のファンだったのかもしれないね。偶然、この本の中にそれを見つけて、それが忘れられなくなった。だから、毎日ここに来て、ページをめくる」
「運命の出会い、ってやつかもしれないわね」
東雲の言葉に、僕は小さく頷いた。
パラパラとページをめくるだけ――そんな一見意味のないような行動にも、ちゃんと理由があった。それが、誰かの「好き」に繋がっていると知ったとき、僕の心の中にも、ふわりと温かなものが灯った気がした。
この学校の片隅にある一冊の古びた本。その中に描かれた猫が、誰かの心を動かし、時間を越えて想いを繋いでいた。たったそれだけのことなのに、なぜだろう。胸の奥がやさしく震える。
僕はそっと思った。
いつか僕も、誰かの心に小さな謎や感動を残せるような、そんな物語を紡げる人間になりたい。たとえ、それがひとりの読者にしか届かなくても――そのひとりの誰かの心に、確かに届く言葉を描きたい。