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第22話 ミステリーは突然に

 放課後の図書室には、決まった静けさが漂っている。ページをめくる音すら遠慮がちに聞こえるこの場所は、放課後になればなるほど、生徒の気配が薄れて、まるで世界から切り離されたような感覚に包まれる。


 僕はカウンターの脇で返却された本の山を前に、丁寧に一冊ずつ棚へ戻していた。日課のような作業だが、どこか心が落ち着く。図書委員という役割を引き受けたのも、こうした静寂のなかで、自分の時間を大切にできるからかもしれない。


 そのとき、不意に名前を呼ばれた。


「なあ、お前……最近の丸本さん、ちょっと変だと思わないか?」


 振り返ると、そこには小田切が立っていた。いつもながら控えめで、声も小さい。けれど、その目だけは真剣だった。何かに気づいたときの彼は、少しだけ瞳の奥が鋭くなる。僕は思わず体をまっすぐに向ける。


「丸本さん? 二年の?」


 問い返すと、小田切は静かにうなずいた。彼女のことは僕も知っている。細身の体に、いつも揃えた制服。図書室では滅多に話さないけれど、貸し出しカウンターに並ぶ姿はよく目にしていた。


「当番の日にだけ、来るんだよ。しかも、決まって俺の担当時間に」


 小田切は少し恥ずかしそうに眉を下げ、頬をぽりぽりと掻いた。


「でさ、いつも笑うんだ。『こんにちは』って。それだけ。特別話すわけじゃない。でも、それが毎回続いてるんだ」


 それだけなら、単なる偶然かもしれない。けれど、小田切は続けた。


「もともと恋愛小説ばっかり借りてた子なんだ。将来は恋愛小説家になりたいって、前に話してた。でも……ここ最近、借りる本のジャンルがバラッバラなんだよ」


 彼の眉間には、はっきりとした疑問のしわが寄っていた。


「具体的には?」


「『小説の書き方』に始まって、『田んぼのいのち』、『切り裂きジャック・百年の孤独』、『君たちはどう生きるか』、『好物漫遊記』……なあ、これ、全部バラッバラだろ? 恋愛小説は一冊もない」


 確かに、不自然だ。趣味が変わることは誰にでもあるけれど、こうも短期間で、しかも極端に方向性が変わるとなると、違和感を覚える。


 そのときだった。カツ、カツと軽やかな足音が近づき、東雲が僕たちの会話に加わった。彼女は先ほどから棚の整理をしていたが、どうやら話を聞いていたらしい。


「ねえ、小田切くん。うちの図書室の貸し出しカード、どういう形式だったか覚えてる?」


 さらりとした声で、しかし核心を突くように問いかける。小田切は一瞬、考え込み——


「え? えーと……。確か、借りた順に上から記録されるタイプだけど……」


 言い終えるか否かのうちに、小田切の動きがピタリと止まった。


「まさか……!」


 次の瞬間、彼は急いでカウンターの奥に駆け寄り、貸し出し記録の入ったカードボックスをごそごそと探り出した。数秒後、目当てのカードを取り出し、その表面をじっと見つめる。


「これ……」


 彼は、貸し出し記録の欄を縦に指でなぞった。そして、その視線が固まった。


「……小田切君好(す)」


 無意識のように読み上げたその言葉に、場の空気が一瞬止まる。


 小田切の頬がみるみる赤く染まっていく。その視線の先には、確かに並んだ文字——



「……次の本が“き”から始まったら確実ね。“好き”ってこと」


 東雲は腕を組みながら、どこかいたずらっぽい表情でつぶやいた。


「たぶん、あの子なりの告白なんじゃないかしら」


 僕は感心して、思わずため息をついた。たった数冊の本で想いを伝えるなんて、まるで小説の一節のようだ。文学少女らしいアプローチだと思う。


「次の本……“き”から始まるタイトルだったら、本当に……」


 小田切は、口を閉じたまま頷いた。顔は真っ赤だが、どこか嬉しさも滲んでいる。


「そのとき、どうするんだ?」


 僕がそっと尋ねると、小田切はしばらく視線を落としたまま沈黙し——やがて、ゆっくり口を開いた。


「俺も、言葉で返したい」


 彼のその言葉は、まるで誰に言うでもない独白のようでいて、しかししっかりと届いていた。


 東雲と僕は顔を見合わせた。気づけば、窓の外はすっかり茜色に染まり、図書室の蛍光灯が、じんわりと柔らかい光を灯していた。


 その灯りの下で、小田切の背中はほんの少しだけ、いつもより大きく見えた。静かな図書室に、言葉にならない予感だけが、そっと積もっていく。


 たった数冊の本が生んだ、小さな“縦読み”が、こんなにも胸をざわつかせるなんて。明日は小田切の当番日。彼はきっと、いつもと同じようにカウンターに立つだろう。


 でも——。


 果たして“き”から始まる本が並ぶのかどうか。僕たちは誰にも言わず、密かに胸を高鳴らせながら、その瞬間を待っている。

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