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第23話 消えたゲーム機の行方

 放課後の職員室は、昼間の喧騒を忘れたように静まり返っていた。窓の外では夕焼けが校舎の外壁を朱色に染め、古びた蛍光灯がじりじりと頼りなく明滅している。空調の風がプリントの束をめくり、書類の隙間から紙とインクのにおいがじんわりと立ち上っていた。


 その中で、風紀委員担当の樫本先生は、眉間にしわを寄せながら、机の上に手を叩きつけるようにして言った。


「見たんだよ。確かに、あの一年生のポケットにゲーム機の端っこが覗いてたんだ。色も形も、間違いない」


 先生の語気は鋭く、けれどどこか、苛立ちと焦燥が入り混じっている。もともと温厚で、誰に対しても優しいと評判の人だ。だからこそ、その感情の振れ幅に、僕は少なからず驚いた。


「それで、取り上げたんですか?」と、僕は静かに問いかけた。なるべく中立な声で。


 先生は渋い顔をして、無言で首を振った。椅子に背を預け、手のひらで顔を覆う。


「いや……。追い詰めたときには、もう持ってなかったんだ。ポケットには何も入ってない。証拠がなけりゃ、俺たちは何もできないんだよ……!」


 先生の声は、自嘲にも似ていた。正義感の強い人が無力さを突きつけられたときの、あの複雑な諦念。


 そのとき、隣にいた東雲が、問いかける。


「どこで追い詰めたんですか?」


 先生は、手元の資料に視線を落としたまま答えた。


「西館の三階、理科室の前だ」


 その一言で、東雲の表情がほんのわずかに変わった。知識と直感が何かをつかんだような、あのとき特有の光を目に宿している。


「あそこには、外階段がありますね。ぐるぐると巻いてる、避難用の螺旋階段。あれ、けっこう急角度だから、うまく滑れば速いです」


 東雲は立ち上がり、ゆっくりと窓際へと歩いていった。カーテンをわずかに持ち上げて、西館を見下ろす。夕日を受けて、金属の階段が赤く光っていた。


「理科室の前って、よく傘が立てかけられてませんか? 忘れ物なのか、置き傘なのか、あんまり整理されてない」


 先生は一瞬、考え込むように眉を寄せた。


「確かに、数本あったな。あまり気にしてなかったが」


「傘の柄にビニール袋を引っ掛けて、そこにゲーム機を包んで滑らせれば……螺旋階段を使って、一階まで落とすことができます」


 言葉は静かだったが、その論理の鋭さに、僕も先生も思わず息を呑んだ。


「しかも、ビニール袋がクッションになるから、音もほとんどしないはず。滑らせた直後に犯人は階段の反対側から逃げて、先生の視界に入った……。つまり、先生が追い詰めたときには、すでにゲーム機は地上にあった」


 先生の顔が固まり、ゆっくりと座り直す。


「その場にいたのに、俺が気づかなかったというのか……?」


「タイミングがよければ、誰だって見落とします。あとは、別の仲間が一階でそれを拾えば完了です。証拠隠滅としては、なかなかの手口」


 室内に、重い沈黙が落ちた。


 カリカリという鉛筆の音だけが、遠くの机から微かに聞こえてくる。夕日が窓枠に沈みかけ、教室は橙色のグラデーションに染まっていた。


 僕は静かに吐息をついた。


「一年生にしては、手が込んでますね」


 東雲は、軽く頷く。


「ずる賢い、というより、応用力がある。こういう発想は、何かを日頃から考えてる証拠。ミステリー好きかも」


 僕は思わず、笑ってしまいそうになった。


 校則違反はもちろん問題だ。でも、こんな奇抜なアイディアを即興で考え、実行に移す度胸と想像力。その方向さえ違わなければ……彼は、すごい作家になれるかもしれない。あるいは、僕がまだ辿り着けていない場所に、あっさり到達してしまうかもしれない。


 ――いや、まてよ。


 少し迷ってから、僕はひとつの考えにたどり着いた。


 今度、こっそり話しかけてみよう。「君、ミステリーとか興味ない?」って。もしかしたら、僕の話を面白がってくれるかもしれないし、何より、彼の才能が本物なら——見届ける価値はある。


 仮に僕が書く側ではなくなっても、その才能を見つけた人間として記録されるなら、それはそれで悪くない。


 ……いや、本音を言えば、ちょっとだけ悔しいだろうけど。


 窓の外に目をやると、空の端にうっすらと一番星が光っていた。職員室の時計が、午後五時半を告げる。


 今日もまた一つ、小さな「謎」が解けた。けれど、心の中に残った感情の答えは、まだ、誰にも解けそうにない。

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