放課後の職員室は、昼間の喧騒を忘れたように静まり返っていた。窓の外では夕焼けが校舎の外壁を朱色に染め、古びた蛍光灯がじりじりと頼りなく明滅している。空調の風がプリントの束をめくり、書類の隙間から紙とインクのにおいがじんわりと立ち上っていた。
その中で、風紀委員担当の樫本先生は、眉間にしわを寄せながら、机の上に手を叩きつけるようにして言った。
「見たんだよ。確かに、あの一年生のポケットにゲーム機の端っこが覗いてたんだ。色も形も、間違いない」
先生の語気は鋭く、けれどどこか、苛立ちと焦燥が入り混じっている。もともと温厚で、誰に対しても優しいと評判の人だ。だからこそ、その感情の振れ幅に、僕は少なからず驚いた。
「それで、取り上げたんですか?」と、僕は静かに問いかけた。なるべく中立な声で。
先生は渋い顔をして、無言で首を振った。椅子に背を預け、手のひらで顔を覆う。
「いや……。追い詰めたときには、もう持ってなかったんだ。ポケットには何も入ってない。証拠がなけりゃ、俺たちは何もできないんだよ……!」
先生の声は、自嘲にも似ていた。正義感の強い人が無力さを突きつけられたときの、あの複雑な諦念。
そのとき、隣にいた東雲が、問いかける。
「どこで追い詰めたんですか?」
先生は、手元の資料に視線を落としたまま答えた。
「西館の三階、理科室の前だ」
その一言で、東雲の表情がほんのわずかに変わった。知識と直感が何かをつかんだような、あのとき特有の光を目に宿している。
「あそこには、外階段がありますね。ぐるぐると巻いてる、避難用の螺旋階段。あれ、けっこう急角度だから、うまく滑れば速いです」
東雲は立ち上がり、ゆっくりと窓際へと歩いていった。カーテンをわずかに持ち上げて、西館を見下ろす。夕日を受けて、金属の階段が赤く光っていた。
「理科室の前って、よく傘が立てかけられてませんか? 忘れ物なのか、置き傘なのか、あんまり整理されてない」
先生は一瞬、考え込むように眉を寄せた。
「確かに、数本あったな。あまり気にしてなかったが」
「傘の柄にビニール袋を引っ掛けて、そこにゲーム機を包んで滑らせれば……螺旋階段を使って、一階まで落とすことができます」
言葉は静かだったが、その論理の鋭さに、僕も先生も思わず息を呑んだ。
「しかも、ビニール袋がクッションになるから、音もほとんどしないはず。滑らせた直後に犯人は階段の反対側から逃げて、先生の視界に入った……。つまり、先生が追い詰めたときには、すでにゲーム機は地上にあった」
先生の顔が固まり、ゆっくりと座り直す。
「その場にいたのに、俺が気づかなかったというのか……?」
「タイミングがよければ、誰だって見落とします。あとは、別の仲間が一階でそれを拾えば完了です。証拠隠滅としては、なかなかの手口」
室内に、重い沈黙が落ちた。
カリカリという鉛筆の音だけが、遠くの机から微かに聞こえてくる。夕日が窓枠に沈みかけ、教室は橙色のグラデーションに染まっていた。
僕は静かに吐息をついた。
「一年生にしては、手が込んでますね」
東雲は、軽く頷く。
「ずる賢い、というより、応用力がある。こういう発想は、何かを日頃から考えてる証拠。ミステリー好きかも」
僕は思わず、笑ってしまいそうになった。
校則違反はもちろん問題だ。でも、こんな奇抜なアイディアを即興で考え、実行に移す度胸と想像力。その方向さえ違わなければ……彼は、すごい作家になれるかもしれない。あるいは、僕がまだ辿り着けていない場所に、あっさり到達してしまうかもしれない。
――いや、まてよ。
少し迷ってから、僕はひとつの考えにたどり着いた。
今度、こっそり話しかけてみよう。「君、ミステリーとか興味ない?」って。もしかしたら、僕の話を面白がってくれるかもしれないし、何より、彼の才能が本物なら——見届ける価値はある。
仮に僕が書く側ではなくなっても、その才能を見つけた人間として記録されるなら、それはそれで悪くない。
……いや、本音を言えば、ちょっとだけ悔しいだろうけど。
窓の外に目をやると、空の端にうっすらと一番星が光っていた。職員室の時計が、午後五時半を告げる。
今日もまた一つ、小さな「謎」が解けた。けれど、心の中に残った感情の答えは、まだ、誰にも解けそうにない。